二章 会津守護
永禄四年(一五六一)二月。
会津黒川の蘆名家十六代目当主、蘆名盛氏は実子である蘆名左衛門盛興が数え年で十五歳になったのを皮切りに、家督を譲る事を家中で明るみにし、左衛門盛興には盛氏の名乗りであった平四郎の名も授けた。
とは言え、盛氏の齢は四十歳と心身共にまだまだ盛りであるため、政治権、軍事権は引き続き盛氏が握り、蘆名家の総帥として君臨するのは誰の想像にも容易かった。
現に、昨年は徳政令(借銭の帳消し命令)を盛氏の名で発しており、家臣団や領民の困窮建直しを図ったばかりだ。
困窮建直しは生活安定の為ではあるが、根本目的は迅速な募兵と軍準備を可能とするために金の不安を払拭する事を目的としており、盛氏が雪解の頃に大規模な戦を起こすのでは無いかと言う噂が広まってもいた。
一方、雪深い奥会津の檜原領で三度目の越年を迎えた山ノ内三之丞俊勝の耳にも合戦近しの噂は届いていた――が、大雪の中で戦準備をする訳にも行かず、また応援要請が黒川から来た試しもこれまで無かった故、昨年夏に金売り吉次から貰った『桶狭間顛末』なる文書を自室で読み耽る悶々とした日々に埋没していた。
実際の所、とうに文書は読み飽きている。しかし、豪雪に閉ざされた雪国の暮らし様は春到来をひたすらに待つのみ。
他にやれる事と言えば早朝の稽古に励み、自室で暖を取る火鉢の赤く燃える炭を火箸で意味無く突っついて、飼い猫を愛でる程度とひたすらに静謐(平和)で退屈な時間が流れるばかりであった。
――と、惚け続けている俊勝の耳に廊下から鶯張りの音が軋り軋りと聞こえて来た。俊勝は慌てて飛び起き、姿勢を正し足音の主である父の来室に備えた。
「入るぞ」
それだけ声がかけられると、すらりと木戸が開かれる。
山ノ内豊前守俊範。檜原丸山城の城主で、山ノ内七騎党の一柱であり、山ノ内宗家当主である山ノ内舜通の二番目の実弟でもある厳格な父の姿がそこにあった。
齢は蘆名盛氏の一つ下であり、彼もまた人生の盛り真っ只中であった。
「……また文書を読んでおったのか」
姿勢を正して対面する俊勝を一暼した後、俊範は部屋の様子に視線を回し、瞬時に様子を察すると、呆れて溜息にも似た言葉を吐く。
「父上、こ、これは智の修練なれば……」
姿勢こそ正した俊勝であったが、その周りには読み散らかした文書や本が散らばっており、その内手の届く三冊程を慌てて掻き集めながら取り繕って応えた。
「文書の読み解きは剣の修練とは違う。一通り頭に入れれば、その知識を使っての実践こそが重要。一字一句覚えるのは時間の浪費であろう」
剣の修練であれば、積めば積むほど筋力が増し、剣先の速度は鋭く増すというものだが、暇を持て余して記憶する程に読む事など意味をなさないと、俊範は二度目の溜息と共に叱る。
「良いか――」
後ろ手で木戸を閉めると、俊範は俊勝の膝数寸先に座り、切れ長の眼を俊勝に注ぎながら口を開く。
『長くなるな……』
そうは思えど口になどおくびにも出せない。ただただ畏まり、俊勝は背中をのけ反らせて姿勢を正し直す。
「我ら山ノ内家は、
遠く其先祖は大職冠(藤原鎌足)を初代とし、二代はその次男である太政官不比等、三代はその次男で藤原北家房前、四代はその五男の左大臣魚名、そこから藤成、豊沢、村雄と続き、八代目は近江琵琶湖瀬田で大百足を退治し、将門公を帝の勅命を受けて征討した武名高い俵藤太(藤原秀郷)である」
俊範は目を瞑り、読経のように節を付けて誦じ出した。
「……はぁ」
もうこれで百は超えるのではないかと言うくら聞くに聞かされた山ノ内氏先祖の解説に俊勝の背筋は次第に力を失って丸くなりだしていく。
が、悟られて余計に長くならないよう、なるべく聞く気を保って聞いている風の返事を搾り出す。
「……であるから、源八幡太郎義家公に仕え、六条の判官為義公(源頼朝の祖父)の輔佐の臣となり、藤原首藤資通は前九と後三年の役を戦い抜き、その子義通とさらにその子の俊通が源義朝公に使えた」
「……へぇ」
「この俊通の時に相模国は鎌倉の山ノ内荘に移り住み、山ノ内氏は始まったのだ。俊通の正妻は義朝公(源頼朝の父)の子、つまりは後の大将軍頼朝公の乳母となり――あ、山ノ内家の正妻は代々源氏当主の乳母を努めておってな――しかし、俊通とその子俊綱は保元・平治の乱で討死なされての。やむなく俊通の三男であり、頼朝公の乳兄弟でもある山ノ内滝口三郎経俊が家督を継いだのだ」
俊範は言葉を矢継ぎ早に紡ぎ過ぎるが故、息が続かなくなり、時折派手な息継ぎをしながら言葉の雨嵐を俊勝にぶつけ続けた。
要約すると、源頼朝の乳兄弟である山ノ内首藤経俊が御家人(源氏の郎党、家臣)として鎌倉の自家領を継承したが、父兄が源平の戦いで亡くなったために頼朝から離反し、平氏方に味方し戦ってしまう。
なお、頼朝から共闘を依頼するために安達盛長が使者として遣わされたが、経俊は
「頼朝が平氏に戦いを挑むなど鼠が猫に戦いを挑むようなもの」
「頼朝は犬の糞」
など中々の暴言を吐いたと、鎌倉幕府編纂の吾妻鏡に記録が残っている。
結果源氏が勝利、経俊は捕えられ斬首の憂き目に合うが、乳母(経俊の母)の山ノ内尼が頼朝に泣いて詫びたため温情で許され、山ノ内家はなんとかその後も存続となる。
経俊はその後、伊勢・伊賀の二カ国を預かる守護(現在の県知事的な要職)となり、八十九歳という長寿でこの世を去った――と言うのが俊範から口伝で聞かされている『鎌倉前期の家史(千二百年頃)』であった。
「では、室町足利の治世に入ってからであるが―」
更に弁舌が好調となり、俊範はずずいと前進してくる。俊勝の膝に自身の膝がぶつかっていることも気づいていない様子だ。子供の頃でも十分辛い講義であったが、内容はもう熟知しているし、室町時代の家史なぞ山ノ内七騎党が出来るまでと、蘆名氏、長沼氏との戦い。河原田氏との同盟という最近の情勢と対して遜色のない物語が続くのみである。
我慢が限界を迎え、気が遠くなりかけたその時、
「豊前様」
と廊下から女の声が響いた。感情の無い淡々とした声の主は檜原山ノ内家の女乱波、金山沙耶であると直ぐ判る。雪が降るまでは黒川で諜報任務に就いていた沙耶であったが、今年の正月は珍しく檜原への帰参が下命されていた。
「黒川より鳥文が参りました。蘆名修理大夫様、軍準備を致し候との由」
俊範の閉じられていた眼が見開かれる。
「左様か」
口元をきっと結ぶと俊範は立ち上がり、俊勝を見下ろしながらこう発した。
「此度こそは陣触れ(参戦命令の事)が参るかもしれぬ。抜かり無く準備せよ」
――と。
それまでの安穏な日々が嘘のように、そこから俊勝は急激に多忙になった。
家督はまだ継いでいないものの、俊範の嫡男は俊勝のみであるから、有事への対応力は次期当主の絶好の値踏み機会になり得る。
つまり、どれだけ上手くやれていたかで家督相続後の家臣団の忠誠心が大きく変わって来る訳だ。
戦国時代の武士の考え方は江戸時代の『忠臣は二君に事えず』と言う滅私奉公精神とは全く異なる。
食糧や土地を戦で奪うような戦国期の武士は完全な弱肉強食世界で生きており、家臣が主君に求めるものは『仕えた結果、どれだけ旨みを還元してくれるか』に尽きる。
旨みとは、日々糧は言うに及ばず、安全の担保、主従信頼、軍事、尊敬、正統(天皇から官職を授かっていたり、素性がはっきりした名門である等)、そして活躍に対し、それが報われるだけの名誉を与えてくれる事。
要すれば――これは全ての時代に言える事であろうが――、主君は家臣や領民が仕え易い環境を提供し続けなければならないということだ。
ではもし、その環境を提供出来ない場合はどうなるか――、当然謀反が起こる。
認められない主は力尽くで引き摺り下ろされ、全て奪われ、滅される。それが戦国期武士の考え方であり、常識として膾炙される熾烈な時代であった。
『武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つ事が本にて候』
とは、越前(福井県)の朝倉家重鎮であり、俊勝とほぼ同時期を生きた朝倉宗滴が残している言葉である。
武士は犬と言われようが、畜生と蔑まれようが、勝って結果を出す事に尽きると言う意味であり、戦国時代の現実を端的に表した言であると言えよう。
故に、俊勝は多忙を極めた。
まずは沙耶に黒川までの行軍路確保を命じる。雪を除きながらの行軍では参陣遅延は避けられない。もし今回も陣触れが無かったとしても領民の往来の為にはなるからと、いの一番で指示を出した。
次に家の米蔵を解放し除雪人夫への炊き出しを指示。人夫は主に領民の賦役で賄われるため、温かい飯を提供する事で労働対価の『旨み』を担保。
同時に黒川までの往復と、在陣期間も加味した兵糧手配を理財を得意とする家人を奉行として任せた。
そこから檜原領内の侍大将(兵を束ねる指揮官。現在の管理職)達へ軍議の日時を通達。どれだけ募兵が可能か、武具や軍馬調達見込は想定通り出来るかも早急確認事項であるため、こちらは残った家内の人工を総動員し、領内各所に散っている侍大将宛に口頭伝令(文書ではなく、指示内容を口頭で伝える方法)で触れ回るよう指示を出した。
因みに檜原領の動員兵力は全体で約百五十騎、内訳は侍大将が十名と、農兵の足軽雑兵が百四十名という規模となる。
山ノ内家の軍構成は旧態依然の『一領具足』であり、平時は農業、有事は兵役という旧い軍制のままであった。
初めての軍準備采配と、その後の進捗確認を三日に渡って俊勝は果たし終えた。進軍経路確保は既に叔父、摂津守俊政の巌谷城まで繋がる峠道の除雪を終えており、巌谷城から黒川までの道は沙耶と俊政家臣の共同で行う事が新たに決まり、領民達の頑張りに温かい飯で報いた事は思いの外評判が良く、開催叶った軍議も俊範からは未だ叱責や注意は受けていない。
『やれやれ、何とかなりそうかの』
この所、準備の手順を頭で繰り返し繰り返し模擬していたから夢にまで見る始末で、俊勝はあまり良く眠れていなかった。
一息入れる為、焚き火の前に積んである薪の上に腰を下ろしたところ、安心と暖かさにより急な眠気が襲って来た。
時折爆ぜる薪の音が心地好く、うつらうつらと舟を漕ぎだしていると、夢の中に従兄弟の大助が出て来た。雪景色の中、大きく手を振り、「さんざ、さんざ」と呼ばわっている……。
ぱちっと大きく薪が爆ぜた音で俊勝は反射的に目を開けた。ほんの数寸の間意識が無かったようだったが、背中が冷たくなっているのを感じ、焚き火に背を向けてまた薪に座り直す。
……と、夢と同じ光景が見え、俊勝は見間違いかと訝しんで目を擦り、今一度目を凝らした。やはり見間違えではない。雪に閉ざされている以西の道から一人誰かがやって来る。
「さんざー」
と言う感高い声。紛れもない、本名大助の姿がそこにあった。頭から蓑笠を被り、手槍を肩に担ぎ、雪輪を履いて、左手をこちらに向けて振りながら歩いて来る。足音が段々と近づくにつれ、大助が嬉しそうな顔をしているのも読み取れた。
「大助、いったい――」
「陣触れ、来るかもしれんのじゃろ。沙耶から鳥文が来たわ」
身体中に雪を纏い、それを手で払いながら大助が答える。甲冑を入れる大きな木櫃を背負っており、白い息を切らしながら、それでも笑みを湛えている。
「沙耶が、そうか――」
突如、俊勝は驚嘆の声を上げた。務め上げたと思っていた軍準備に大きな穴が一つあった事に気付いたからだ。
「……お前、本家に報告忘れとらんか」
「忘れとる……。檜原の事しか頭に無かった――」
あぁ……と唸り声を上げてその場にしゃがみこむ俊勝。陣触れが出るとしたら、『山ノ内氏全ての参陣要請』も加味する必要が当然ある。
が、檜原から以西への報告の使者采配をすっかり失念していた。冷たかった背筋がより冷え、冷たい汗まで吹き出して来る。
「沙耶に礼を言うのじゃな。ほんに出来た郎党よ。いつの間にやら使うとる鳥が本名領まで飛べる様訓練しておったのじゃからな。――あ、儂が来たと言う事はもう横田にも報は伝わっとるぞ」
安心せいとばかりに大助が俊勝の肩を叩いた。
本名家の所領は檜原から西に約六里(二十四キロ)ほども行った川口と言う場所であり、本名領から山ノ内本家の横田領までは二里(八キロ)なので大助がここに到着する時間があれば、充分報告は出来る距離である。
「まぁ、本家が参陣するかは別じゃがの……。何しろこの雪じゃて、一旦は黒川に近い檜原までの参戦で様子見し、それでも来いとなれば腰を上げる腹づもりのようじゃ」
分かる気がすると俊勝も思った。雪中行軍は危険はもちろん、兵糧や銭も多くかかる。まだ今日時点で何処まで参陣命令が出るかも不確かで、かつ戦の相手も未確定な現状で総力を上げた軍準備は不発に終わった際の負担が大き過ぎる。とは言え命令を無視する訳にはいかない。
そのため、黒川寄りに領土を持つ俊政、俊範兄弟が参陣出来れば山ノ内氏としての面子は保たれると言う算段なのだ。山ノ内氏は確かに蘆名氏に臣従はしているが、それはあくまで同盟関係程度のもので高い忠誠心を持っていると言う訳では無かった。
大助からの情報のお陰で、冷やした肝もすっかり持ち直した俊勝であったが、今度は大助の姿に疑問を持った。何故雪中を来るのに鎧櫃(戦用の甲冑を入れた木箱)を背負っておるのか――。
と、俊勝の視線に気付いた大助は笑みを湛えたまま背中の方を顎でしゃくって答える。
「初陣は早い方がええ。儂の父上も日和見する気じゃったから、書き置きして出て来たわ。元服前に一手柄上げるのも良いかと思うての」
どうやら大助もちゃっかり参陣する腹積りらしい。
大助が檜原に到着し、更に二日が過ぎた。その間俊範への大助の参陣許可を取り付けると言う新しい仕事が俊勝に加わったが、本家への報告を援けてくれた恩義があるから、渋がる俊範になんとか食い下がり
『後方支援かつ、俊範旗本の与力(直属の家臣では無く他家の援軍扱い)としての編入』
を条件に話をまとめ上げた。
そんな矢先、黒川から伝令の使者が着到。
『巌谷、檜原の兵力を黒川へ向けよ。敵は長沼氏』
とのお達しがあった。
巌谷と檜原を足しても三百五十騎程度であるから、今回の参陣要請は『山ノ内家が蘆名陣に加わっている』事実をもって、長沼氏に威圧をかける算段であろうと俊勝も推察していた。
そもそも戦国時代の戦は全てが大規模な合戦で雌雄を決していた訳ではない。殆どの戦は言葉合戦(軍が対峙した状態で自軍の戦における正当性を宣言したり、相手の不当性を突いて敵方の士気を下げる。或いは夜半に行なって籠城側の不眠を誘い士気に打撃を与える)や、敵領の焼き働き(村や田畑を焼く事で厭戦気分を高める)などの威嚇行動で決着を付けるのが最も多い手段であった。
理由は三つあり、
第一に合戦による被害を抑え、死傷者の慰謝料を圧縮する事。
第二に労働力である民兵や家中の統制に関わる有力人材を損失しない事。
そして第三は東北特有であるが、『親族であるが故、お互い被害が大きくならない様、程々で戦を終える事』である。
順に注釈を加える。
第一、合戦時の慰謝料圧縮。これは当時の慣習によるものだが、合戦で死傷者が出た場合、その兵を召集した家は慰謝料を持って償う責任が伴った。
農兵であっても跡継ぎの長男が死亡した場合が一番慰謝料も高く、そこから怪我の程度により、保障される慰謝料は安くなった。大規模な合戦は死傷者の数も当然大きくなり易く、慰謝料の額も比例して跳ね上がる。
突撃を支持する大名の胸中は算盤を弾きつつ、いかに損害を抑えるかが悩み所であった。
第二、人材損失の回避。既筆の事ではあるが、そも必要な人材損失はお家の傾きに直結する。
農兵を失わば食糧生産力を劣らしめ、税制にも忌憚を引き起こし、大名の政治力を弱らしめる。
ましてや合戦で大名の屋台骨ともなる家臣が討ち取られようものなら、大名家の統制の箍が外れ、体制弱体の隙を他の家臣に付け込まれる事だろう。人材の損失はお家、お国の弱体化に直結する為、忌避したい事象であった。
最後に第三として、東北特有の洞の文化がある。
大雑把に言うが、東北の大名家は殆ど親戚縁者の集団である。発端は伊達家十四代当主、伊達左京大夫稙宗(十七代当主伊達藤次郎政宗の曾祖父)であり、蘆名家十三代当主、蘆名修理大夫盛高(十六代蘆名盛氏の祖父)の娘を正室に迎え、他に側室を五人も持ち、産まれた娘達を周辺大名家へ次々と嫁がせて血縁関係による同盟を強めた(この血縁関係の多重同盟を洞と呼ぶ)。
蘆名盛氏の正室は伊達稙宗と蘆名盛高の娘との間に産まれた娘であり、盛氏からすれば従兄弟に当たる。こうした親近婚を伊達稙宗は政略婚として繰り返し、東北大名の殆どは血縁関係で繋がれていたという訳だ。
洞により、どちらか一方を滅ぼすまでの大規模戦は回避されて来たため、東北における紛争は血で血を洗う様な抗争にはまま至らず、講和を進める第三勢力すらもまた親族と言う異様な関係が成り立っていた。
――最も、長沼氏との婚姻関係は蘆名、山ノ内とも無かったのだが……。
俊勝や大助にとり、戦の趨勢が見えていたとしても結論初陣には違いが無い。とは言えの軍準備をした上で、かの命に従う他は無かった。それでも若い当事者達には体験の無い戦は祭りが如き催事である。
黒川へ立つ雪も無い晴れの日、若き侍は出立の儀に着慣れぬ鎧を纏って、晴れやかな心地で参加していた。
「これより蘆名修理大夫殿の命により、我ら山ノ内檜原党は参陣致す。皆々遅れは取るべからず。一様に励み、良き働きを致すべし――」
檜原の領主、俊範の号令を受け、百五十騎がえいかえいかおう、の鬨の声を上げ行軍に移行する。
目標は長沼氏、会津四家に数えられる古き名族が敵である。
長沼氏は下野(栃木県真岡市)出身の豪族であり、出自は山ノ内氏と同じく『大百足退治』を果たした、藤原秀郷の末裔と言われている。
ただ、始祖こそ共にしていて山ノ内氏側にも古の同族認識はあれど、現在の同盟相手たる蘆名氏に頻繁に歯向かう仇であり、過去の領土争いで幾度も合戦に及んだ忌むべき敵としての認識の方が強い。
長沼氏の拠点は鴫山城(会津南部の田島領)。
一度黒川で軍を合流し、南へ進軍となる予定である。長沼氏は蘆名氏が代替わりするたびに挙兵をしているから、今回も蘆名氏が十七代盛興に家督を譲るに当たって騒ぎを起こしているのは明白であった。
「長沼豊後殿も生真面目なものよの。蘆名の代替わりの都度都度で挙兵するとは…」
「全くじゃ、読み易い挙兵など、万が一つの勝ち目もなかろうに」
俊範旗本の後列で大助と俊勝が私語をしている。
黒川までの道のりは雪掻きが済んでいるとはいえ、三から四刻(六時間から八時間)はかかるであろう。道中、敵の領土は通過しないためまだ気楽なものだ。
長沼豊後守実国は目標である長沼氏当主の名である。長沼氏も自立意識が強く、ここ百年の間、蘆名氏に味方したり、反乱したりを繰り返している。
四十年前の永正十八(一五二一)年にも蘆名盛氏の父である盛舜が家督を継いだ際に兵を挙げた男であるから、若い大助、俊勝をしても『やはりやったか』という感想である。
ましてや蘆名家の現当主、盛氏は歴代の中でも戦上手として有名であるから、下馬評の中で長沼氏の挙兵にどれ程の目的があるのかどうかも分からないまま、檜原勢は雪道をひたすら東を目指すしか無かった。
俊範率いる檜原勢は子の刻(二十三時から翌一時頃)に蘆名盛氏が待つ黒川へ辿り着いた。
時季が冬で無ければあと二刻は早く着いていたはずだが、雪中かつ、集団での行軍は思いの外時間を要した。途中途中で休憩を取り、焚き火を作って暖を取る必要があった事が一番の要因だが、その甲斐もなく隊の誰もが蓄積された疲労と寒さで一言も発さず、黙々としたまま黒川城の篝火が焚かれた西大手門を潜っていく。
「やっと着いたか……、暖かい寝床で休養せずば戦働きなど出来んの」
大助がずっと足並みを揃えて来た俊勝に返答も期待せず独りごちた。声の調子もいつもの甲高い音調ではなく、絞り出した様な呻き声だ。俊勝も顔を上げて頷くのがやっとで返答する。俊範隊の疲労は確認せずとも空気でありありと伝わって来る。それほど極寒の中の行軍は士気を低下させるに充分であった。
檜原勢は入門後、右手に折れて少し進んだ所に建つ、西御殿脇の広場で漸くその足を止めた。
西御殿は夏に俊勝達が金売り吉次と落ち合った大町の通り側に面している建物で、広場には参陣命令によって集まった各家の兵士達が思い思いに陣幕を貼り、焚き火をしながら簡易な宿泊地を設営している様が見てとれた。
ここは土塀(土を盛っただけの壁)のお陰で寒風から守られており、場外と比べたら寒さはだいぶましである。
――と、その一角から凛とした声が俊範隊に投げかけられる。
「豊前、苦労――」
闇の中から一人の男が歩み出てくる。立烏帽子を被り、緋羅紗の生地に襟と肩周りが白く飾られた上等な陣羽織を纏っている。陣羽織の両胸元には丸に三つ葉柏の葉が白糸の刺繍で縫い付けられており、この家紋は俊勝が父から受け継いだ陣羽織に縫い込まれてあるものと同じだった。
声の主は、三年前に巌谷城を俊範と共に攻め落とした山ノ内摂津守俊政であり、その後ろには俊政の実子である内匠頭俊基の姿も見えた。
俊基は俊勝の二歳上の従兄弟であり、三年前の巌谷城拝領の祝賀以来とはなるが面識はあった。
俊政は俊範と親しく話し始めたが、子の俊基は隊の中に俊勝、大助を認めると父から離れ、草摺り(甲冑の胴から吊り下げられた、腰から太ももまでの下半身を覆う防具)の音を響かせながら近づいて来た。
「鶴千代…、いや確か今は三之丞であったな。それに大助も参陣とは」
従兄弟三人が会するのは久しぶりである。
俊基は俊勝と大助の疲労を慮って、丸に三つ葉柏紋が入った陣幕の中へ誘う。中には七輪も篝火もあって、三人はそれらに囲まれた暖かい場所に床几を並べ一様に座った。
「さ、温めた酒じゃ」
俊基は人懐っこい笑みを湛えながら二人に土器(盃の事)を渡し、磁器製の銚子を煮立つ湯の中から取り出して進めて来る。
「これはありがたい――」
寒さで震える手で土器を銚子の先に持って行き、注がれた湯気の立つ濁酒を一気に飲み干した。
「……くぅ。これは――」
美味かった。ただそれだけではなく、腹の奥に熱燗が流れ込み、生き返る心地がする。
「ささ」と俊基は引き続き嬉しそうに銚子を突き出してくる。それを四、五度も繰り返すと頭から爪先まで血が巡り、顔も上気してきた。
「明日は早うから田島へ向かうそうじゃ。西御殿で寒気対策の燗酒を振る舞っとるから、家中の者にも進めて、今日は早う休め」
巌谷城を攻め落とし、自領とした俊政の子とは思えぬ程に俊基は穏やかで優しい男であった。常時笑顔でいるが、それも根っからのもので、笑みが顔に貼り付いていると言った方が合点がいくくらいだ。
相手のして欲しい事を想像し、喜ばれる事であれば進んで実行する。こうした撫民の才を持つ俊基が家督を継ぐのはもう決まっているから、そうなれば瀧谷領はより栄えるだろうと俊勝は感じていた。
すっかり酒が回った二人は俊基に礼を言い、陣幕を後にする。
俊範隊の陣も農兵達が白い息を吐きながら必死に設営している光景を目にし、俊勝と大助は先回りで西御殿を目指す。
燗酒を労いとして振る舞う事で、自兵を元気づけようと、俊基の所作を真似てみたいと思っての行動であった。
翌朝、俊政の二百騎と俊範の百五十騎は軍列を整え、蘆名修理大夫盛氏の登場を待っていた。
他家の軍勢も進軍準備を終えた隊から本丸に向かって馬の鼻先を並べていく。蘆名本隊を加えれば長沼征討軍の兵数は四千はくだらなそうだ。
俊勝が見た事のない大軍勢に辺りをきょろきょろ見回していると、隊列の前方から響めきの声が上がった。その喧騒は次第に後方にも伝播していき、誰もが会津黒川の物主が来た事を知る。
黒色の甲冑、胴には蘆名家の家紋である丸に横三本線が金箔で煌びやかに装飾され、藍で染め抜いた深い青色の陣羽織は襟と裾がこれまた金糸で刺繍された華やかなもの。極め付けは兜で、黒色主体は甲冑と同じであるが、前立ては黄金の大鍬(鍬形虫のように二本の平鍬が上に向かって伸びる兜)で、朝の光を受け金色の輝きを辺りに跳ね返している。
荘厳さすら感じる佇まいに俊勝も大助も思わず息を飲んだ。
これが四百年もの長きに渡り会津に君臨する大名。積み上げられた実績は遠い京の朝廷からも認められ官位を授かり、会津守護を自称する不遜すらも押し通せる力を持つ者――。
「眩しいの……」
「あぁ……眩しい」
蘆名盛氏の武威に気圧されつつ、何処か心地良さすら感じている俊勝も大助もそこから目を離せないでいた。いや、この場の誰もが目を離せないでいた事だろう。それ程にこの君主の佇まいには神力が満ちていた。
「皆々、苦労」
塀に繋がる石階段の最上段に登り、西の曲輪を見渡せる位置に盛氏は陣取ると、威厳ある大音声で呼ばわった。
「これより鴫城の長沼氏を攻める。彼奴は我が蘆名家の代替わりに意を唱え、反乱の暴挙に出た。会津守護として、長きに渡る長沼氏との決着を今こそ果たさん」
おお、と全ての兵の拳が晴天の空に向けて突き上げられる。敵は田島にあり――、それが明確に縁取られた瞬間であった。
戦を起こすには大義名分が必ず必要である。何故ならば戦いを起こす動機がなければその戦いは蛮行と見なされ、領民の支持は得られず、よしんば戦に勝てたとしても獲得した領土経営には綻びが生ずる。綻びはやがてうねりを帯びて次なる勢力に反抗心と大義名分を与え、より大きな反乱となり牙を剥くのだ。
蘆名盛氏は会津守護として、度重なる反乱の徒を討ち果たすと名言して見せた。守護の役割において『会津に静謐をもたらす』のが大義名分である。
と――。
冬の青空は雲一つなく澄み渡り、その広い空に鬨の声は高く凛として幾度も幾度も響き渡った。
蘆名盛氏の本隊を加え、波打つ四千の総勢。
長沼氏に決定打を与えるには充分と思われる一軍は南に向かい一路進軍を開始した。




