序章 暁の胎動
朝霧煙る山中、初夏の陽は立ち昇りつつあったが、まだ四半刻程朝には早い。
日中けたたましく鳴く蝉も、さえずる鳥も、まだまどろみの時刻。
起伏に富む山中の木々の合間は蒼白い空気を孕み、ひんやりとした風が時より走り抜けていく。
そんな静寂の世界に二つの呼吸音だけが存在していた。
黙っていても日は昇ると言うのにそれさえも待ち切れない若々しい胎動は、荒々しく、しかし何処か夜這いを試みるかのように押し黙る我慢を持って山中に響いている。
「遅いぞ、山三。幼名からまたやり直すか?」
「五月蝿い……、儂には儂の配分と言うものがある」
山三と呼ばれた男は肩をいからしながら、切れ長のぱっちりとした眼を細め、整った鼻梁から流れだした汗が尖った顎先から滴り落ちるのを気に留めないまま強がった声を投げた。
髪は茶道具の茶筅(抹茶の粉末を掻き回す際に使う道具)のように頭上で一つに束ね、未だ夜の香り漂う清涼とした山中の空気の中で、着流しの前を大きくはだかせ肩を上下させている。
左腰には大小(打刀と脇差)の二本差し。つまりは武家の子息であるのは明白であった。
山三と呼ばれた男は数え年で十六、諱(忌む名とも。親や主君などのみに呼ぶ事を許された本名。それ以外の人間が呼んだ場合は極めて無礼であるとされた)を俊勝と言った。前月誕生日を迎えた事をきっかけに元服し、三之丞と言う字名(諱に対し、普段の呼び名として気軽に使われたあだ名の事)を父から受け継いだばかりである。
辺りの朝露よりも余程大袈裟な汗雫を流す男を一暼しつつ、『ふん』と鼻で笑ったもう一人の少年の腰にも大小はあったが、両名とも眼光は丸く柔らかく、まだまだ子供の優しさを称えたそれであった。
『山ノ内三之丞』で通称山三、そう呼んだ方の少年は元服を来年三月に控えていたため、一足先に大人となった俊勝をからかっていた訳だが仲が悪いという事はなく、年が近く性格も何かと馬が合うため、これまで親友の様な関係性で共に過ごして来た。
俊勝の従兄弟にあたるこの男の名は、本名大助昭大と言う。山ノ内本家筋の一脈で、山ノ内氏本領である横田の北東部にあたる河沼郡川口本名領を治めており、そこから本名姓に変わっていた。
「ほれ、今少しで岩清水があるで頑張れ」
癖毛の丸顔にあどけない笑みを浮かべ、甲高い声でそう言うと大助はまた歩を進め出した。俊勝はふう、と溜息を吐き、もたれていた古木から背を離して軽快な大助の跡を追い出した。俊勝も急ぎたい気持ちは一緒。――いや、むしろ黒川城下町(現在の福島県会津若松市)行きを言い出したのは俊勝だったから、気が早っているのは俊勝の方だ。
永禄三年(一五六〇年)八月末、俊勝の家で重用している黒川の乱波(忍者)から伝書鳩を使って書が届いた。
『織田上総介、今川治部大夫を桶狭間にて討つ――』
山三の居る陸奥国南西部(福島県奥会津)と尾張国(愛知県西半分)は地域で言えば東北と遥か遠い畿内。はっきり言ってこの書状が大事に至る可能性は皆無で、対岸の火事と等しい。
が、海道一の弓取と渾名され、駿河(静岡県中部)と遠江(静岡県中部から西部)の二カ国を治める大国、そして権威ある守護大名(一国の警察権、司法、後に税収権をも兼ね戦国期には徴兵権まで持つに至る)の今川治部が尾張一国の守護代(守護が在京時の留守を預かる役目を持つ小家)のさらに下、守護代三奉行の一家の小大名である織田家に敗れ、あまつさえ総大将である義元の首も取られた報せに元服を迎えたばかりの俊勝は胸を踊らせた。
水は高所から低所に流れ、天と地がひっくり返る事は無い。
だが、小が大を制した事実は『戦さ』の可能性を少年に知らしめ、見聞の衝動を産み、同じく『戦さ』に憧憬の念を持つ大助を誘って暗い山中を駆けてきたのだ。
『何かが変わるかもしれない』
そんな漠然とした期待が胸の内で肥大しつつあるのを俊勝は理解していた。
俊勝の家は確かに武家ではあるが父は山ノ内本家筋の三男であり、家内での権勢は低く、相続予定の領地も自慢出来ない狭量の山間かつ、豪雪の山奧の鄙(田舎の事)だ。
十歳になる頃までは不自由なく過ごしていた記憶だが、思春を迎えてからは定められた処遇に悲嘆を募らせる日々だった。
父が所有している歴史書にある様な一騎当千の将、大軍を穿つ兵法、人の関わりで紡がれる謀略、失われた知政の法、その先にある栄光……。
自身の境遇を悲嘆すればするほど、そうした世界に想いを馳せ、叶わぬ夢を霧散させるため内容を諳んじられる程に父、豊前守俊範の秘蔵書を貪り読んできた。
織田の指揮官は何者か、どうやって今川を討ったか、その後何が変わったのか、勝者とは何処へ向かうのか……。それが知りたくて知りたくて堪らなかった。
「さあ、行くぞ」
岩清水から手酌で二杯の水を刹那で飲み干すと、大助に一暼もせず俊勝は東へ向けて歩き出す。その様子に大助は呆れ半分でやれやれと笑い、何も言葉は発せずにその後へ続いて行く。
東の空が少しずつ明るみを帯び、世界に色が付いていくのに気が付く。
やがて一番鶏の鳴き声を大助は聞き留めた。
『随分と寝坊な鳥よの……』
大助は俊勝の背を眺めながら聞こえない声で独りごちたのだった。




