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第6話 夢を見た者

 昼下がりの陽光が、広げたページを照らす。

 マジュドは難しい顔で、机に広げた本を(めく)っていた。


 ――ジンニー、あるいはジン。

 ――すべての夢を見る者の味方、創造と奇跡を司る精霊。


「知ってはいるさ……ばあやが寝物語に話していた。この一帯がカルデサールでも東方帝国でもなかった頃、信じられていた御伽話(おとぎばなし)だろう」


 記憶の中のセレーネの言葉に返事をするように、マジュドは独り言を呟く。そしてゆっくりと目を閉じて、昨晩の記憶を改めて振り返った。


 草木も眠るような深夜、少年のような服装のセレーネがなぜか中庭にいて。

 マジュドの目にしか映らないと思っていたあの「光」たちと遊び戯れながら、思うがままに幻を生み出して風景を塗り替えていた。


(……瞳まで黄金(きん)色だったんだな)


 噴水の上に軽々と腰掛けていた彼女の引き込まれるような笑みを思い出し、マジュドは軽く腕をさする。肌が粟立つような感覚は、寒さのせいではないはずだ。


(彼女には俺が見えていたのか? 俺を俺と分かっていたのか?)

(いやそもそも――あれは本物のセレーネ嬢だったのか?)


 彼がこんなことをぐるぐると考えてしまうのには理由があった。

 あの時、目が合ったと思った次の瞬間――セレーネは跡形もなく姿を消したのだ。


 彼女が引き起こした数多の奇跡も砂の山が崩れるように消えて、後に残されたのは月の光に照らされたいつもの中庭だけだった。

 深夜零時を告げる時計の鐘が遠く響くのを聴きながら、マジュドは一歩も動けずに立ち尽くしかなかった。


 見違えるようなセレーネの姿も、あの光の奔流も、今となっては曖昧な彼の記憶の中にしか残っていない。

 

「本人すら『何も心当たりがない』と言うんだからな……」


 今朝、顔を合わせたセレーネは、昨晩の姿が嘘のように虚ろでそつのない表情を浮かべていた。

 それとなく()()をかけてみても、首を傾げるばかりで全く話が噛み合わない。

 何の(感情)も見えないことにも変わりはなかったが、流石にこんなところで嘘をついているとも思えず、マジュドも釈然としないながらに引き下がるしかなかった。



 改めて机の上に広げた本の文字を追いながら、彼はまた眉間に皺を寄せる。まるで複雑怪奇な古文書と向き合っているかのような表情だが、実際のところ彼が読んでいるのは御伽話をまとめた大衆向けの本だった。


 物語の中では、路地裏で暮らす貧しい少年が偶然拾った指輪の力でたちまち長者になり、あるいは旅の商人が流れ着いた地で奇想天外な冒険を繰り広げている。そしてそれらの要所要所に現れては八面六臂の活躍を見せるのが、「ジン」や「ジンニー」と呼ばれる精霊たちだ。


 炎と風の化身として生まれる変幻自在の彼らは、「どこにでもいて」「何でもできる」。一夜のうちに砂漠に宮殿を築くのも、瞬く間に千里を移動するのも、彼らにとってはお茶の子さいさいだ。


 本の中では、はっきりした形を持たずに群れをなすものをジン、生き物の姿をとって主人公の相棒や従者のように振る舞っているものをジンニーと呼んでいるようだ。昨晩セレーネが語りかけていた真っ白な小猿のことを、マジュドは思い出す。


 セレーネが言う通り、ジンというものが本当にいるのなら――そしてどういうわけか彼女にその奇跡を借りる力があるのなら、昨日見た光景にも説明がつくだろう。


(だが実際には、こんな存在はいない……これほどの力を持った存在が、歴史に全く関わってこないはずがない)


 御伽話で語られていない「外側」の知識を、マジュドはある程度持ち合わせている。

 大陸の西側から開拓を進めてきたフェルナヴィアと、遥か東方から勢力を拡大してきた東方帝国。

 そのいずれの支配下にもなかった頃、この地に住んでいた人々が信じていたのがこのジンという存在だった。


 かつては一つの文化圏を作っていた先住民たちは、もう文献の中にしかその痕跡を残していない。

 フェルナヴィアや東方帝国に組み込まれ、それぞれの民と血が混ざる中で独自の文化も薄れていったのだ。

 不思議な力が彼らを守る城壁を築くことも、遠くの楽園へと彼らを逃すこともなかったということだろう。


 つまりジンなど所詮は御伽話じゃないか、と止まってしまいそうになる思考を叱咤する。セレーネの言葉を紐解くためには、この奇跡の精霊について真剣に考えなければならないのだ。


「『夢見る人のそばに彼らは集って、願った通りの奇跡を起こす』……」


 あの夜のセレーネの言葉を復唱する。

 ちょうどその時、背後の扉がノックされた。


「マジュド様、ルゥルワでございます」

「ああ、開いている」


 いつもにこにことした微笑みを崩さないカルデサール家自慢の侍女が、今日も今日とて朗らかに部屋へ入ってくる。彼女のそばをくるくると舞ういつもの光をちらりと確認し、マジュドは吐息をつくように言葉を漏らした。


「……俺にはずっと精霊(ジン)が見えていたらしいよ」

「ジン――あの御伽話の?」

「そうだ。君たちにも度々話していたあの光というやつは、夢を叶える魔法の精霊だったらしい」


 唐突極まりないマジュドの言葉にも、ルゥルワは顔色ひとつ変えない。

「あら、そうだったのですね」とにこにこ笑う彼女に、マジュドは思わず言った。


「急に何を言い出したんだ、とか思わないのか」

「思いませんよ。いつものことでしょう」


 堂々とルゥルワは答える。


「……シハブといい君といい、どうだろう、もっと主人に敬意を払ってみるというのは」

「尊敬していますとも。私たち姉弟(きょうだい)を雇ってくださった時からずっと、マジュド様のお考えは突拍子もなくて、しかも必ずこれまでより()いものを運んできてくださるんですから」


 ぱちぱち、とルゥルワの周りで光が瞬く。

 まるで彼女の信念を祝福するように。


 ふと、マジュドの頭の中で点と点が繋がったような気がした。


(もしかして――この光が好むのは善良さではなく、より良い未来を夢見る心なのか)


 ジンは夢見る者の味方だとセレーネは言っていた。

 たとえば未来に希望を見出す心を好み、そういう心を持った人間の側に寄り集まるような、不可視の存在がいるのだとしたら。

 そして彼らがこっそりと、未来へ手を伸ばす人間たちの背中を押しているのだとしたら。


 仮にこの説が正しいとしても、マジュドがこれまで信じてきたことの根幹は揺るがない。明るい光を纏った人間は信頼できる。マジュドが必要としているのはいつ何時も、カルデサールのより良い未来に貢献してくれる人間なのだから。


(ただそれなら、セレーネがジンの性質をよく理解していたのは何故だ?)


 口元を手で覆い、マジュドはさらに思考に沈む。


(ジンは「どこにでもいて」「何でもできる」……知られていないだけで、中央にも同じような存在がいるのか?)

(ああそうだ、俺はかつて、イリオステでも“光”を見た)

(もしかして――どこにでもいる人ならざる存在を、偶々この場所ではジンと呼んでいただけなのか?)


 ならば、フェルナヴィアでの“ジン”はどのように解釈されたのだろう。


 未来を願う人の心に寄り添い、目に見えない奇跡を起こすもの。


 それは。


(――聖女の、力)


「マジュド様!」


 ルゥルワの呼びかけで、マジュドは思考の海から放り出された。


「すまない、考え事をしていた」

「お帰りなさいませ」


 ルゥルワはことさら丁寧に頭を下げ、それからにこやかに言った。


「奥様のことで頭がいっぱいなのですね」

「は⁈」

「あら、突然ジンのお話をされたのも、てっきりセレーネ様の影響なのかと」

「何か……知っているのか?」


 知っているというより、と現セレーネ付きの侍女は笑みを深める。


「今マジュド様が広げていらっしゃるその本。同じものを、セレーネ様もお持ちでしたから」

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