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第5話 夜に舞う空想の蝶

 夜更け。

 マジュドは書斎の執務机に突っ伏していた。


「疲れた……」


 職人組合との交渉、来季の予想税収に関する報告の聞き取り、瘴気汚染の拡散状況を記した調査書の確認。立て続けに降りかかった仕事のせいで、結局マジュドはあの後夜中まで拘束され通しだった。


 今日ぐらいは約束のない来客など全て追い返してもよかったのではないかと、重い頭で後悔する。

 結局夕食も部屋で簡単に済ませてしまい、セレーネと席を共にする予定を反故にしてしまったことも心にずしりとのしかかっていた。本人と約束をしたわけではなかったからまだよかったものの、完全に失態の上塗りだ。


(闇雲に己を安売りしても得られる価値はないと、祖父もよく言っていた)


 事あるごとに思う。自分は優秀な人間ではないのだろうと。

 どういうわけか()()()()に恵まれていたおかげで何とか立ち回れているだけで、一皮剥けば鼻先にぶら下がった課題を相手にじたばたすることしかできない凡人だ。

 

 思っていたよりも早く継ぐことになってしまった辺境伯の地位だったが、自分が生前の父の背からよく学んでいればもっと器用に乗りこなせたのではないだろうか。


(今続いている付き合いは(おおよ)そ父から引き継いだものだから、尚更なあ)


 はあ、とため息をついて立ち上がる。自分の不器用さにうんざりするのは止めようもないが、一人で反省会を繰り返す時間ほど無駄なものもないと学んだのは彼がこれまでの日々で掴んだ数少ない収穫だった。


 ナイトガウンの襟を掻き合わせたマジュドは、ランプを手に廊下へ出る。ゆらゆらと揺れる小さな灯火が、大きな影を壁に作った。

 カルデサール邸は縦よりも横に大きい造りで、平屋に近い複数の棟が回廊と中庭で接続されながら隣り合っている構造だ。執務を行う棟と居住に使う棟は別々で、いくつかの回廊を抜けていく必要がある。そのうちの一つは、昼間にセレーネと眺めたあの庭だった。


(あの時は不思議と気が楽だったな)


 タールのようにべっとりと張り付いていた「意味」が風景の中から取り払われて、まっさらな気持ちで改めて眺める中庭の景色は悪くないものだった。


 次にセレーネと顔を合わせる時、自分は彼女の虚無から何を感じるだろうと少し不安になる。今のマジュドにとってセレーネは変わらず最大の未知であり、これまでのやり方がまるきり通じない相手だった。


(とにかく次だ。次に会う時はもっと――)


 ふと壁に映る自分の影が色を変えた。風にかき消されたランプの代わりに、冴え冴えとした月の光が回廊を青白く照らす。

 足を止めたマジュドは小さく顔を(しか)め、火を点け直すかそのまま進むかで束の間迷って立ち止まる。と、その耳に今聞こえるはずもない音が届き、彼はハッとして顔を上げた。


 あの中庭の方から、誰かの声がする。 



「――、――?」


 その「誰か」は一人で話し続けているようだった。それでいて返事を待つような間合いや問いかけらしき語尾の揺れもあり、この世のものではないやり取りを聞いてしまったような感覚をマジュドに与える。


 こんな時間ともなれば、メイドも庭師も寝静まっているはずだ。まず浮かぶのは侵入者の可能性で、マジュドは腰を落として身構えた。


 ――その傍を、到底ありうべからざるものが過ぎる。


「は?」


 善良な心の側に必ず現れるもの、マジュドにとっての人を見極めるよすが。あの星あかりのような眩い光が、どこからともなく現れては彼の横を通り過ぎていく。

 誰に寄り添うわけでもなく――あるいは、この先にいる寄り添うべき相手の方を目指して。


 渡り鳥のように流れていく光たちを呆然と目で追いながら、マジュドは誘われるように足を踏み出していた。足元がどうにもふわつく。まるで夢の中のように。


 そして行き着いた先に、マジュドはそれを見た。


「本当だ――ここから見ると、空がもっと素敵に見える」


 ()()が木の上に腰掛けている。昼間マジュドの思い出話のタネになった、まさにあの木だ。


 ゆったりとしたズボンから突き出した細い足首には華やかなアンクレット、そして艶やかな生地のチュニックには金の刺繍。マジュドに向けられた背中では、高く束ねたしなやかな髪が揺れている。

 そしてそれら一切が、ふわりふわりと空を舞う光の群れに美しく照らし出されていた。


 少年が空へ伸ばした腕に寄り添うように、その肩には一匹の猿がいた。真っ白い毛並みを眩いまでに輝かせ、唯一無二の相棒のように堂々と佇んでいる。

 小猿が少年の耳に口を寄せると、途端に鈴が鳴るような笑い声が梢をさざめかせた。


「そうだねアマル。()たちもこの空に思うまま絵を描ける。ほら、」


 ぱっと星を掴むように白い手が動く。一瞬のうちにその手には、一振りの筆が握られていた。


「まずは何から(えが)こうか。あの雲なんかどうだろう。ぽこぽこ二つ肩を並べて、透かした木の葉が縞の影をつけて――」


 す、と掲げられた筆先が夜を裂くのを、マジュドは見た。


「あはは、それじゃあ双子の虎だ!」


 金銀の毛並みは月の光、深い縞模様は雲間の藍。瞬く間に現れた二頭の虎が、白い牙をきらめかせて音のない咆哮を空に轟かせた。

 縦横無尽に中庭を駆け回り、二頭は子猫のように戯れる。あまりに現実離れした光景に、マジュドは一歩も動けないまま立ち尽くした。


「虎がいるならここは林だ。それならもっと緑が要るね。川を取り巻く蔓草が伸びて、絡んで茂って花実をつける」


 流水のようにタイルの上を滑った光が、たちまち床上の幾何学模様に命を灯す。若葉を模した曲線が本当に萌ゆる新芽となって、整然としたシンメトリーの庭園はあっという間に豊かな密林へと姿を変えていた。


「……これじゃさすがに歩けないかも」


 パチン、と指が鳴るや否や蔓草はしぼみ、代わりに草木という草木に花が咲く。淡く輝く大小の花弁が妙なる色合いを水路に映し、この世のどこにもない楽園を作り出した。


「あはは!」


 いつの間にか少年は木から飛び降りて、形を変え続ける光の奔流と笑い戯れていた。虎は気付けば無数の兎に変わり、かと思えば鳥になって木々の間を飛び回り、ふと魚になって空で弾けたかと思えば、猫に変わって少年の腕にすぽりと収まった。


 マジュドは立ちすくんだまま、左手を恐る恐る頬に添えて思い切りつねった。痛い。夢ではない。


 では目の前で起きているのは、一体なんだ。


 今当然のように世界を塗り替えている光は、物心ついた時からこの目に映っていたはずのこれらは、一体何なんだ。


 なあ。


「――ジンニーだよ」


 明らかに自分へ向けた声。マジュドは雷に打たれたように固まった。

 

 噴水の端に腰掛けて、少年が彼を見ている。


 いや、少年ではない。


 マジュドは初めて目にしたその時から、もう()()の正体に気づいている。


「ジンニー、あるいはジン。すべての夢を見る者の味方、創造と奇跡を司る精霊。夢見る人のそばに彼らは集って、願った通りの奇跡を起こす」


 金色の髪を靡かせて、歌うように彼女は言った。

 上気した頬を、飛び交う無数の光で照らしながら。


「……セレーネ」


 昼間はずっと伏せられていた目をぱっちりと開いて、金色の瞳でマジュドをまっすぐに見て。


 少年のような装いに身を包んだ白い花嫁は――とびきり嬉しそうに微笑んだ。



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