第4話 中庭にて
よく可愛がってくれたメイドに濁った火花がまとわりついているのを見たのが、マジュドの目に「光」が映った最初の時だった。
家庭教師から逃げたマジュドを笑って匿い、時々こっそり砂糖菓子の残りを分けてくれた彼女は、それから程なくして重要文書を盗んで他家に流した罪で捕えられた。
討伐隊に徴された夫はお前たちのせいで獣に殺された、最初からこのために家に取り入った――と喚く彼女の全身を赤く澱んだ光が取り巻いて、まるで彼女自身が炎に焼かれているようだった。
マジュドはそれから、言葉や行動の表層にある「見せかけ」を信じなくなった。
人の本質は、そんなところにないのだから。
――しかし今は言葉やその他諸々に頼るしかないと、目の前の空虚と慎重に向き合いながらマジュドは心の中で呟く。
セレーネの周囲は変わらず、完璧な空白だった。悪意はないが善意もなく、悲しみも感動もない。
彼女の返事もただ、マジュドの発言に対して最も当たり障りのないものを返しているだけのようだ。大袈裟になりすぎない程度にカルデサールの風物を褒めながら、暗愚でもなく差し出がましくもない自分自身を言葉の端々に匂わせる。これを「自分をよく見せたい」という下心なしにやっているのならいっそ天才だと、マジュドは思う。
彼女の言葉にまた笑い返しながら、(このままでもいいのではないか)という気持ちがふとよぎった。
彼の目的は無事果たされるだろう。イリオステは利益のためにカルデサール寄りの立ち位置を保ち、一族は幾分か息がしやすくなる。
幸いこの邸宅は広い。外と関わる場でセレーネが器用に微笑んでくれるのなら、まるで関わり合いにならなくても自分たちは上手くやっていけるはずだ。
「――時に、セレーネ殿」
それなのにマジュドの口は自然と、彼女の胸中に踏み込む方を選択していた。
「もしよろしければ、貴女自身はこの庭の景色をどう思うか教えていただけませんか。すっかり見慣れてしまった私の目には映らない美を、貴女の心ならば汲み上げているかもしれませんから」
セレーネは虚をつかれたように顔を上げた。瞼が戸惑うように震え、「――私自身」と小さく呟く。
それからゆっくりと顔を外の方へ向け、じっと意識を傾けた。
正方形に近い中庭の中央には、透き通った水を静かに吹き上げる二段の噴水がある。
そこから流れ落ちた水は正八角形の泉に澱みなく注がれ、タイルで舗装された水路を通って四方へ流れていた。
水路によって四分割された庭は一つひとつが蔓草を模した模様で飾られ、花壇と木々が風に揺られて梢をさやさやと擦り合わせる。
庭を取り囲む回廊の柱それぞれにも大ぶりの鉢植えが置かれ、青々とした葉を広げていた。
セレーネの答えを待ちながら、マジュドもまた声もなく庭園に目を向けていた。
(……不思議な気分だ)
床を彩るタイルの釉薬に注がれた技術のルーツを、彼は尋ねられれば迷いなく答えられる。
ここに流れる水の清浄さを保つために傾けられた労力を、彼は知っている。
緑の青さがどれほどの時間と費用をかけて維持されるものか、彼は理解している。
どれも祖父や父、あるいはその部下たち、そして屋敷の使用人たちから折に触れて言い聞かされたことだ。
この切り取られた楽園が当たり前のものではなく、あらゆる努力の積み重ねで築いたものなのだと。
いずれはマジュドがそれを背負い、次へ受け継ぐのだと。
彼にとってここは久しく心安らぐ庭ではなく、形を持った責任そのものだった。
しかしセレーネの隣で風景を眺めていると、それら一切が白く解けていくようだった。
数多の意図が絡まり合った空間としての重たさが失われ、景色そのものが新鮮に目に映る。
彼女の空白のせいか、あるいは別の理由か。
何にせよ彼は今、いつになく落ち着いた心で中庭と向き合っていた。
「マジュド様がどんな日々をこの囲い庭と共に過ごしてきたのか、伺ってもいいでしょうか」
セレーネの声がそっと沈黙を破る。視線を落としたマジュドの傍らで、彼女は続けた。
「私はまだ、この場所について語る十分な言葉を持っておりません。場所が持つ美は歴史と共にあり、歴史は人と共に培われるもの。ですから人を――マジュド様のことを、まず私は知りたいのです」
語る彼女は虚ろなままだ。体よくいなされたか、と少し思う。
しかし不思議と、最初の頃の苦痛に近い息苦しさは消えていた。
「……ごく幼い頃に」
やがて彼が選んだのは、この場所に紐づいた責任を知るよりずっと前の思い出だった。
「些細なことで臍を曲げて、誰にも見つからないところに行きたくなったことがありました。それで隠れ場所に選んだのが、そこの木の上でした」
太い枝の根元に子ども一人がうずくまるのにちょうどいい隙間があって、そこで膝を抱えて空を眺めていた。
生い茂る葉の隙間から見えた雲を動物やら食べ物やらに例える遊びに興じるうち、滑るように夢の世界へ旅立ってしまったのだったか。
気づいた時には足元も見えないほど薄暗くなっていて、父にこっぴどく叱られながら下ろされたのをうっすらと記憶している。
いや、覚えているというよりも、セレーネに思い出させてもらったと言った方が適切かもしれなかった。
自分にこんな頃があったことなど、もうすっかり記憶の彼方だったから。
(ああ)
唐突にマジュドは、セレーネの虚無を哀れに思った理由を自覚した。
(似ていると思ったのか、俺と)
その時、彼の背後で靴音が鳴った。
顔から笑みを消したシハブが、生真面目な面持ちで佇んでいる。
「お話中のところ申し訳ございません、マジュド様。お客様がお見えです」




