第3話 思わぬ対面
先代カルデサール辺境伯――マジュドの父は、歴代領主たちが血の滲むような努力の果てに築いた安定を守るために全てを注いできた。
あと十年彼が壮健であったなら、カルデサールの地位は盤石なものとなっていたかもしれない。
しかし三年前、彼は胸の病により突然世を去った。
後に残されたのは若輩者のマジュドただひとり。四方八方から注がれる強欲な視線の只中に、丸裸で放り出されたようなものだった。
(力が必要だ。剣を振るっても金を動かしても得られない、血の結びつきによる力が)
マジュドは領地経営の傍ら、絶えず中央の情勢に目を光らせていた。遠く隔たったこの地ではどうしても情報の鮮度において劣るが、マジュドの目があれば悪意に満ちた嘘を排除するのは容易い。
そして行き着いたのが、イリオステ公爵家だったのである。
「――聖女は人の形をした権力の器だ。それを二人も同時に有すれば、当然家は二分される。不穏な噂の多いセレーネ嬢が弾き出される未来は、遅かれ早かれ必ず訪れると分かっていた」
彼女の悪評が根も葉もない嘘なら、それほどの敵意を持って彼女を排斥したい人間がいるということ。
噂が真実だとしても、それはセレーネが己の悪行を隠蔽できない程度の弱い娘だということになる。
シハブに弁明する形で自分の正しさを自分自身に言い聞かせるような口調で、マジュドは話し続けた。
「それにイリオステは慢性的な財政難に加え、先の冷害の折に対応が遅れて大きな被害を出している。カルデサールから好条件を提示すれば、断る可能性は低かった」
「イリオステ公爵家を選んだ理由も、最初からカサンドラ様ではなくセレーネ様に求婚するつもりだった理由も、よく分かりました。そもそも求婚自体はもう成功したのです。今からとやかく申し上げることはありません」
大事なのはこれからです、と忠実なる従者は声を落とす。
「娶ったからには、マジュド様にはあの姫様の人生に対して責任がある。彼女の本性がどんなものだとしても、その生涯を支えなければなりません」
「……それも大きな問題にはならないだろうと、思っていたんだ」
シハブの言葉は手厳しいが、彼の方から溢れる光は温かい。善意と悪意をたちどころに見分けられるマジュドにとって、言葉の上っ面など何の意味も持たなかった。
セレーネが傷ついた被害者でも敗北したわがまま娘でも、上手くいなせるだろうとたかを括っていたのである。
「念の為伺いますが――『何も見えなかった』ことは、これまでに一度もなかったのですね?」
「ああ。明るいものも暗いものも、何の光も周りに見えなかったのは彼女が初めてだ」
初めてセレーネと対面したあの時、マジュドの目には胸の冷えるような光景が見えていた。
彼女のそばには何もなかった。ぽっかりと落ち窪んだ穴のように、セレーネの周りだけが真空だったのだ。
心がわずかでも動けば、それが火花としてマジュドの目に映る。何も見えないのは人形か、死体くらいのはずだった。
難しい顔をするマジュドの傍で、シハブは「とはいえ」とわざと明るい声を出した。
「生まれつき心が存在しない人間などいないでしょう。気を張っているせいで感情が動くどころではなかったと考えた方が自然です。結局はマジュド様の頑張り次第ですよ。ただでさえ失言からのスタートなのですから」
「失言……」
(『――私のことは、夫と思わないでください』)
なるほど盛大な失言だった。用があるのはイリオステの名が持つ権威であってセレーネ個人ではないと、改めて宣言してしまったようなものだ。
「どうしてあんな言い方をしたんです? セレーネ様から何の光も見えないことに動揺したのですか」
「それもある……が」
何故だろう、と自分でも首を捻る。
確かあの時、己は。
しかしマジュドはそこで、一度思考を止めなければならなかった。
曲がった廊下の先に、まさにそのセレーネがいたからだ。
* * *
マジュドたちがいた廊下は中庭に面していた。斜めに差し込む金色の陽光が、佇むセレーネの髪と頬を白く透かしている。彼女はかすかに首を傾け、外の方へ顔を向けていた。
セレーネのそばにはもう一つ人影があった。色の濃い肌と明るい髪を持ち、使用人の衣服に身を包んだ若い女性。カルデサール邸の数少ない侍女、ルゥルワだ。
ルゥルワはマジュドを視界にとらえるや否や、ぱっと朗らかで意味ありげな笑顔を浮かべて数歩下がった。咄嗟にシハブの方を振り返ると、こちらもにこやかに微笑みながら陰に引っ込んでいる。日向に残されたマジュドは自然と、セレーネと一人で対峙するような姿勢になっていた。
さすが双子だ、以心伝心ここに極まれり――と従者たちの見事な連携に呆然とするのも束の間、マジュドは自分が難所に立たされていることに気がついた。
マジュドたちが現れてからも、セレーネは変わらず庭の方へ目を向けていた。と言っても彼女の伏せられた瞼越しに、どれだけのものが見えているかは分からない。マジュドはセレーネという女性について、情けないほどに何も分からなかった。彼の書斎に置かれたイリオステ家に関する調査資料の束は、今や紙屑以下の価値しか持たないようだった。
「……セレーネ殿」
ぎこちない咳払いと共に、マジュドは何とか彼女に呼びかける。
「こういった形の囲い庭は、イリオステでは珍しかったでしょうか」
セレーネはゆるりと首を巡らせ、マジュドの方を見上げた。
薄い唇が開いて、「はい」と柔らかな音が溢れる。
「本の中でしか知らない景色でした。思った以上に、東方帝国の様式が取り入れられているのですね」
「ええ、まあ。気候を同じくする土地ですから、もとより馴染みが良いのです。祖父の代で新しい屋敷を建てた際、かの国から設計士を招いて造らせたと聞きます。彼はその後、時の皇妃が住まう離宮の庭園にも携わったとか」
滑らかに口をついてしまった誇るような台詞に、(これで良かっただろうか)と不安が萌す。
マジュドがここを紹介する相手は、大体が暗い火花をちらつかせながら彼の見せる隙を虎視眈々と狙うような手合いばかりだった。そういう連中を威嚇することを前提にした今の言い回しは、果たして適切だっただろうか。
しかしマジュドの心配をよそに、セレーネは軽く両手を合わせて言った。
「もしかして、サフィール離宮の〈光の庭〉のことでしょうか」
「! ええ。……よくご存知で」
「中央の人々も、東方帝国の美術には興味津々なのです。昨今は戦の気配もないおかげで、布製品やアクセサリーなどもよく入ってくるようになりましたから」
「布製品――毛織物でしたら、もしかするとカルデサールでの加工を経たものかもしれません」
「まあ、そうなのですか?」
「はい。かつては完成品をそのまま仕入れる商人が多かったのですが、今では技術を持った職人が育ってきたので」
「それでは私がイリオステで見た東方様式の絨毯も、この地で織られたかもしれないのですね」
マジュドに応えるセレーネの声は、淑やかさの中に弾むような軽やかさを帯びている。
(……この目がなければ、彼女もこの会話を楽しんでいると信じられたかもしれないな)
息苦しさを噛み殺して、マジュドは陽に照らされたセレーネに笑顔を向けた。
――彼女のそばには依然として、いかなる光も見られない。




