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第2話 イリオステの偽聖女

 民を欺き搾取した、イリオステの偽聖女。


 真実にせよ根も葉もない中傷にせよ、それがセレーネという少女に押された烙印だった。


 そして見捨てられかけた彼女を、マジュドは買った。


 * * *


 ――イリオステをマジュド自身が訪れたのは、これまでの人生でただ一度きりだ。

 己の故郷にはない海の青と白壁の対比が目に眩しく、瞼をこすりたくなるのを何度も我慢していたことを覚えている。


(怯んだ素振(そぶ)りを、見せてはならない)


 あの頃、彼は十歳になろうとしていた。自分の動き一つがこの異郷でどれほど重い意味を持ってしまうか、幼心にも理解し始めた頃だった。


 同じ王を戴く国家にありながら、中央に近いイリオステと辺境カルデサールの間には途方もない隔たりがあった。

 気を抜けばすぐに口の中をざらつかせる赤い砂嵐はこの地(イリオステ)になく、民の顔にはつつがなく季節が巡ることを祈る張り詰めた切実さもない。各所に立つ兵士たちの武器もどこか華奢に見え、実用より見た目に重きを置いていることがうかがわれた。


 戦わなくていい国なのか、と思った。

 今日一日を生き残る権利を勝ち取るために、汗と血を流す必要がない。


 そんな発見を小声で打ち明けると、父はマジュドを厳しくも真っ直ぐな目で見下ろした。


「聖女のおかげだ」


 はるか昔のこと。土や水を(けが)し野生動物を凶暴化させる「瘴気」による災いを、ある勇敢な指導者が退けた。彼が王となって拓いた国が、カルデサールやイリオステの属するフェルナヴィア王国だ。

 初代王の偉大なる勝利を支えたのは、瘴気を浄化する力を持った聖なる一族の姫だったという。彼女は〈始祖の聖女〉と呼ばれ、王と結ばれてフェルナヴィア王家の礎となった。


 イリオステ公爵家をはじめとした有力貴族は皆、王家の――すなわち始祖の聖女の末裔であり、その中からは浄化の力を持った女子が一定の割合で誕生する。彼女たちの祈りによってフェルナヴィア王国の平和は守られ、その貢献を讃えて彼女たちもまた「聖女」と称される。


 幼いマジュドが当時の辺境伯だった父と共にイリオステを訪れたのは、新たな聖女の誕生を祝うためだった。


 父子(おやこ)の視線の先には、磨き上げられた大理石の神殿が聳え立っている。

 壮麗な列柱が白亜の基壇に規則正しく影を落とし、この祭典の主役たちが壇上に立つ瞬間をじっと待ち構えていた。

 石段(クレピス)のさらに下、敷石のひとかけまで完璧に整えられているであろう神殿広場全体を見渡すことは叶わない。マジュドの視界の半分は、彼らの前に並ぶ他の貴族たちの煌びやかな背によって遮られている。


 聖女の存在がもたらすのは、押し寄せ続ける瘴気の脅威からの解放だけではなかった。

 彼女たちを生み出す血筋であること自体が高貴さの根拠となり、実際に聖女が生まれれば並び立つ諸侯の中から一歩抜きん出ることができる。

 逆にそうでない家柄の者には、土地と富を食らい合う静かな闘争の中で勝ち続けるしか生存の道はなかった。

 国境地帯の守護によって地位を築いたカルデサール家もまた、戦い続けるしかない「そうでない家柄」の一つだ。


 わっと周囲から喝采が上がり、つられるようにマジュドも顔を上げる。

 神殿の基壇に続く石造りの階段を、純白の服を纏った隊列が厳かに上っていくところだった。


 伝統的な装いの護衛に守られ、一組の男女が壇上を進む。先を行く男性は長身で、遠目にも威厳を感じさせる。亜麻色の髪を結い上げた女性の腕には、白布に包まれた幼い子供が抱かれていた。

 イリオステ公と公爵夫人、そしてその息女にして新たな聖女――カサンドラ・ディ・イリオステ嬢だ。


(……綺麗だ)


 彫刻のように整った一家の姿を、マジュドは感動と羨望の入り混じった目で見上げた。

 これが聖女の加護に最も近い所にいる一族の姿か。

 生まれる場所に恵まれたがために、傷ひとつなく美しくあることが許された人々。


(数分間の拍手を送るためだけに丸二週間船酔いに苦しむ機会も、彼らには一生ないのだろうな)


 船上で散々な目に遭ったことを思い出し、眉間に皺が寄りそうになる。それを誤魔化すためにこっそり頭を振ったマジュドの耳に、近くに並んだ大人たちが低く囁き交わす声が聞こえた。


「――ネ様はどうされたんだ。もう一人の聖女様は」

「おられないそうだ。体調がすぐれず宮殿に残ったとか」

「わざと残されたのではないか? 庶民あがりの側室の娘なんだろう」

「まさか――」


 はは、と暗い笑い声を交わす彼らから濁った火花が散るのが見えたような気がして、少年は父の横顔をそっと見上げる。


「マジュド。あまり首を動かすな」


 父の左目の縁には白い傷跡がある。瘴気によって凶暴化した獣の討伐隊を率いた際、獣たちに残された傷だ。そのせいで片目だけが攣れたようになっているが、マジュドはそれを怖いと思ったことはなかった。


(父上の()()()()はいつも澄んでいる――イリオステ公でも、この光には敵わないだろう)


 * * *


「周囲の人間の心のうちが、光という形で目に映る――未だに半信半疑ではありますが、おかげであなたが人を見誤るところを見た試しがない」


 カルデサール邸の廊下を行きながら、さばさばとした口調でシハブは言った。


「その実績への信頼が無ければ、こんな結婚は思いとどまるようとっくに進言していましたよ」

「返す言葉もないな……」


 実際、無茶な賭けに出ている自覚はマジュドにもあった。隣国との交易で増やした財をちらつかせて公爵家の令嬢を掻っ攫い、半ば強引に中央との繋がりを作るなど、普通に考えて正気の沙汰ではない。

 しかも相手は元々の婚約者から突き放され、国から追い出されかけたばかりの女性だ。


「ただこうしなければならない理由も、できると思うだけの勝算も持っていたつもりだ」


 聖女の血を引く人間がいないカルデサール家は、もとより統治の正当性を示しにくい立場にある。それでも領主として何代にもわたり政を担ってこられたのは、ひとえにカルデサールという場所自体が誰も治めたがらない貧乏くじだったからだ。

 水は乏しく土は渇き、浄化の加護もないに等しい。荒地を挟んで隣接する東方帝国は、飢えた獣のように勢力を広げ続けている。辺境伯家は何代にもわたってこれらの脅威と戦い続け、ついにマジュドの祖父の代に至って安定した戦術を確立した。


 すなわち、帝国との協力関係だ。


 下手に敵対して攻め込まれる前に、先んじて手を組んでおく。帝国はフェルナヴィアと異なり、一切の魔術に頼らず瘴気を祓う術を模索してきた国だ。そんな彼らとの技術の交換を通じて、カルデサールの環境は大幅に改善した。さらには交易の道も開かれ、中央市街は文化と富の結節点として栄え始めた。


 しかしそうなると、新たな問題が発生する。

 金のなる木になったカルデサールを、周辺の領主たちが格好の獲物とみなすようになったのだ。

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