第1話 白い花嫁
そして二ヶ月ほど後。
王宮から遥か東方に位置する、カルデサール領。
長椅子に掛けた女性のもとへゆっくりと歩みを進めつつ、マジュドは胸の中で呟いた。
(大理石の国で育った姫は、肌すら大理石のように輝くのだろうか)
彼女は近づく彼に対して、音もなく面を上げるだけで応えた。小さな卵形の顔を縁取る金糸の髪がさらりと流れ、艶やかな唇が完璧に左右対称な弧を描く。
夢を見るように伏せられた瞼には金の睫毛がふっさりと生え揃い、白い頬に長い影を落としていた。
(……息が詰まる)
浮かんでしまった感情を、マジュドは床を踏み締める動きと共に揉み消した。己の妻になろうという女性に、そのような思いを抱くのはあまりに失礼だ。
息苦しさは消せなかったとしても、せめて絶対に感づかせないよう振る舞わねば。
やがて長椅子に辿り着いたマジュドは、彼女の前に跪いた。
「――お初にお目にかかります、イリオステ公爵令嬢殿。私が当家の現当主、マジュド・カルデサールです」
目線が低くなったことで、彼女の手元がよく見えた。レースの手袋に包まれた、風が吹けば折れそうなほどか細い手だ。
やがて羽毛のように柔らかい声が、マジュドの頭上から降ってきた。
「どうぞお立ちください、カルデサール辺境伯様」
うっとりと伏せた目はそのままに、黄金の姫が彼を見下ろしている。
「私のことはどうか、ただのセレーネと。遠慮はなさらないでください。私は一度は家を追われかけた身。それに互いの立場など、これから私たちを隔てるものではなくなるのですから」
マジュドが立ち上がると、セレーネがごく自然な動作で彼に右手を差し出す。その動きに誘われるまま、彼はセレーネを支え起こしていた。
(軽い……)
ふわりと立ち上がった彼女からは、人らしい重さをほとんど感じなかった。鳥籠の中と他人の手のひらのほかに居場所を知らない金糸雀を、マジュドは咄嗟に連想する。
何故だろうか。
その時不意に、彼の心を憐れみにも似た感情が包んだ。
目の前に立つセレーネ・ディ・イリオステという高貴なる女性は、政と人の欲のために己の妻となる。
マジュドの領地が生む財を求めるイリオステ公爵家と、公国の後ろ盾を必要とするカルデサール辺境伯領を結びつけるために。
彼女にとっては見たこともない異郷で、この先の一生を過ごすのだ。
手を取ったまま沈黙してしまったからだろうか。セレーネが、おずおずとマジュドの名を呼んだ。
「カルデサール様?」
「……私のことは、夫と思わないでください」
気づけば彼の唇からは、口にする予定のなかった言葉がこぼれ出していた。
「セレーネ殿。私は貴女に、いかなる役割も強いることはありません。妻としての務めも、我が領とイリオステの架け橋としての責任も、貴女には押し付けない」
セレーネは可憐な唇を薄く開いて、驚いたようにマジュドの言葉を聞いていた。その表情がどうにもあどけなく見えて、マジュドの胸に幾つかの思いが去来する。
第一にはこの、まだ少女と言ってもいい歳の女性の運命を縛ってしまうことへの罪悪感。
そして第二には、彼が得ている情報とは乖離した印象を受ける彼女への違和感。
しかしマジュドは一旦、全てを頭から追い出すことにした。
セレーネの手を右手で軽く持ち上げて首を垂れ、一歩引いてから離した手を己の胸に当てる。この地で約束を結ぶ時に行う、最も誠意を込めた誓いのジェスチャーだ。
「カルデサールにいる限り、決して不自由はさせないと保証します。どのような形でもいい、良い関係を築きましょう」
遥か遠くの地から来た白い花嫁は、マジュドの声を静かに受け止めた。
しなやかな腕が優雅に動いてスカートをつまみ、イリオステ式の礼が返される。
「仰せのままに、マジュド様」
* * *
セレーネを残して応接室を辞したマジュドの傍らに、抑えた足音が寄り添った。
「――姫様の方にはもうルゥルワを向かわせました。館の案内もあいつが折を見てやってくれるでしょう」
侍従服姿の線の細い青年が、流れるように彼のやや後ろに従う。信頼を置く従者の声を聞いて、マジュドの返事にも穏やかさが滲んだ。
「ありがとう、シハブ。彼女なら安心して任せられる」
「よかったんですか、マジュド様が案内しなくって」
「俺がいては気が休まらないだろう」
「あなたの不在も結局は気を揉ませますよ」
シハブの言葉は端的で遠慮がない。「……夕食は共に取る」とマジュドは答え、眉を寄せて顎のあたりをさすった。
「浮かない顔ですね。あんな美姫の夫になる男とは思えない」
「そんな浮ついた気持ちで持ちかけた縁談じゃないさ」
「存じ上げていますとも」
冗談めかした軽口をしまい込み、青年侍従は静かな声で述べた。
「彼女に同行していた従者たちは、先ほど全員イリオステに向けて出立しました」
全員。一人残らず。
つまりセレーネは、たった一人でカルデサールに残されるのか。
「イリオステ公爵家は彼女をそう扱う、ということか。露骨なものだ」
「『そのような娘』を送ることをよしとしたとみなされて、カルデサールとの関係が悪くなるとは考えなかったのでしょうか」
「話を持ちかけたのはこちらだからと、たかを括っているのだろう。……綱渡りを強いられているのはむしろ、俺たちの方だろうな。公爵家がセレーネ嬢との絶縁を宣言するだけで、こちらが受ける利はなくなるのだから」
両家の合意によって成立した二人の結婚は、しかし祝福されるにはあまりにも薄暗い事情と結びついていた。
一連の経緯を思い返していたのだろう。シハブの声が低くなる。
「マジュド様はどう思われましたか。彼女は――国を追われかけるほどの悪女に、見えましたか」
「分からない」
小鳥のように軽かった手のひらの感触が指先に蘇る。あの時彼女に差し出した右手をゆっくりと握ってまた開き、マジュドは答えた。
「彼女がイリオステから実質的な追放処分を受けたのが何者かの謀略によるものなのか、本当に彼女自身に問題があるのか。俺の目をもってしても、先ほどの対面だけでは判断できなかった。……ただ」
彼はそこで、一度言葉を切る。
整いきった容姿でも決して誤魔化せなかった、彼の瞳にだけ映るあの姿を描写するのにふさわしい表現を探すために。
「あの令嬢は空虚だ。およそ人間が持っているべき『意思』というものが、何もない」




