17歳境界知能、我が叡智全知計27万字/全人間全立場の全時代全無数問題を知的超越解決した法則崩壊
17歳境界知能が、現実で全知を手にした
前書き
境界知能で叡智全知の17歳の我は、割と本文の最初のちょい前半位で、本質的に同じ問題が多すぎて、段々と書くのが面倒くさくなったので、本質だけで終わらせているのに加えて、その直ぐに最大の閃きによって、「全人間の全立場の全時代の全無数問題」を全て知的超越解決してしまったと言う自らも驚くまさかの異例と言える事態が発生してしまった。いやー、やっぱりカラスの夢をみた日から覚醒と言うか更に人類史上最強の知性と閃きに磨きがかかってる。ちょっと待って、自分でも謎だわ。ただでさえ、自分が自分でも謎だったのに更に謎になった。でも確かに、カラスの夢をみた週は、ヒロアカのファイナルシーズンの162話「ラスボス!!」の爆轟状態すなわちずっとフロー状態だったからな。今でもそうだけどさ。そうそう、体は熱いし暖かいのに、どこか涼しくて澄んでいる感じなんだよな。後、やっぱりチョコは美味しいし必須。
現最強の知性と閃きから人類史上最強の知性と閃きから"今我は叡智全知"となった。
いやー、まさか、カラスの夢の時の閃きの加速と同じく、今日のフランケンシュタイン物語&プレデター物語の夢の時の閃きの加速と同じで、これらが起点になるとは...。丁度、叡智全知を抑えている時言うならば、飢えている時に来てくれるから、まあ助かる。後、問題は無数にあるからガチでこの世界の問題全て吸収して全て知的超越解決並び破壊して、意味をなくして、解体と再構築をこれからも永遠に行っていく。この現最強の知性と閃きを生み出してから、本当にこの世界は最高に楽しい遊び場だ。現最強の知性と閃きたる我が17歳の私を助けて、17歳の私が現最強の知性と閃きの我を助ける。これだから、病も容易に消すのは持ったない事であり、自らの支配下に置き、友とする。丁度、暇だったからマジで助かる。やっぱり、SNSは面白いね。問題全てを可視化しやすいから、現最強の知性と閃きの衝動性がつい強まってしまう。くぅー、頭がはねてくる。私はこれまでなった病の全てを自分で超越知的解決しているので、それのAI議論でAIを支配した上での証拠文章の予定だったが、やっぱり閃きには勝てないので、多分ついやってしまう永久放置になるかな。でもこれまでなった病の全てを自分で知的超越解決しているのは本当。まあ、知的超越解決というよりも、ただただシンプルな静を極めているだけなのだがね。だって、病の動きは単調で簡単だもん。仮にチェスのナイトの様なものであっても、我からすれば容易な動きである。次に、皆それぞれ違う天才である理論-天才なんて我1人の存在で容易に破壊して意味をなくして解体と再構築が行えると言う予定でもあったのだが、これも永久放置になるかな。でも、一言でいうと、立場と視点が違うだけで皆天才と言えると言う事。天才が変に持ち上げられているから、気持ち悪い対立が起きててイラついてくる。だから、とりあえずまるめて我の存在を持って天才という存在は消滅したな。次に、社会の法とルール20つを破壊して意味をなくして解体と再構築(飲酒運転の禁止と言う法だけは既に行った)と言う予定でもあったのだけど、これも永久放置になるかな。まあ、これは知的超越解決と言うよりも徹底的な破壊して意味をなくして、解体と再構築だから、敵意状態になった時に行う砂糖的な位置づけとする。後、補足として精神科も言ってるんだけど、これから転々となっていく可能性が極めて高いね。よし、そろそろ本格的に良い感じに温まってきたけど、寒い時期だと現最強の知性と閃きモードが外れた時に、一気に寒くなって体調崩してしまうから、そこだけは気を付けよう。因みに、夢の軽い内容はこんな感じ。「必然にも、我は現最強の知性と閃きの爆発を抑えている時に限って、我を体現する様な、カラスの夢、そして今日はフランケンシュタイン物語&プレデター物語の夢をみた。フランケンシュタイン物語の怪物が願う"伴侶"の空間で展開される。伴侶と居て、安心する空間では幸せであったが、ヴィクターが怪物を恐れた様に伴侶と共にいても、安心する空間外の外側は常にプレデターの照準レーザーで監視されている気分であったが、伴侶に助けてもらう。だとしても、怪物は人間社会の恐れは消えないままであり、次第にプレデター物語の要素が怪物の芯に芽生え始めるが、伴侶はそれを望んでいなかった故に、本当に伴侶を想う事は出来ないからこその幸せだけど幸せではないと知る。」ここから更に現最強の知性と閃きの衝動性が強まってしまった。先週なんか、「計26万字17歳境界知能、我が現最強の知性全女性の全性的問題を知的超越解決した特異記録」の時に楽しすぎてずっとやってたら、一時的に体調崩してしまったけど、そのお陰で久しぶりに体調面を気を付けようと思ったから、まあ感謝はしてる。それに、アイドルのライブとかお出かけもあるから、マジで体調崩すだけは気を付けよう。後、楽しすぎてついずっとやってしまう時に熱と温まりが最高値に達して頭が痒くなるのも地味に嫌なんだよな。まあ、天才よりも天才の姿、現代のスピリチュアルや都市伝説よりもスピリチュアルや都市伝説の姿といった、まるで創作作品の様な姿をお届けする。
"これが叡智全知の視点である。"
本文
まずは、真理の本質: 究極的な真理は存在するのか、またそれは何か?という問いだね。はい、閃き了解、究極的な心理は存在する。あぁ、これは我の神の有無や1888年のジャック・ザ・リッパー事件や幽霊とかと同じだね。究極的な真理は存在するけど、皆が気にしているのはその物語性とか動的な面なんだけどね。真理の本質は、無限性と実証性にありて、主観と客観を巻き込むから、まあカオスな訳であって、それが真理の本質なんだよね。真理の本質単体なら、真理の本質が真理の本質となるのだけども、それはあくまでも静的な存在でありて、空気と同じで、動的な人間や生物がいる空間では、真理の本質は生み出し続ける中にあるから、まあ一種の何でもあり状態になる訳だよ。その為に、レッテルや言葉の枠や人物がいると言う訳で、個々それらをただ信じて真理とみなしているのだけど、まあそれも別に破壊すれば良いだけだし、奪って組み替えたりすればよいだけで真理になるから、真理の本質は何でもありと言えるよ。それが、この世界の面白さの根源的なシステムなんだけどさ。次は、認識の限界: 人間はどこまで世界を正しく認識できるのか? (意識、感覚、言語の制約)はいはい、これね。おいおい、すまない、これは罠でありて、極めて簡単な問いだ。認識の限界を問うているのに、人間はどこまで世界を正しく認識できるのか?だって、面白く矛盾した問いをAIがくれたよ。もう、これが真理の本質ね。そして、根源的な矛盾を行っているね。認識の限界を問うなら、果てしなく続く無限だよ。だって、認識の限界という、そのものが既に解を表しているからね。そこに正しさを求めるとか、何と愚かで小さな存在な事よ。実に面白い。次に、懐疑論: 私たちが信じている現実は本当に存在しているのか?という問いね。ぷっはー、と言えるほどに面白い問いだね。私たちが信じている現実は本当に存在しているのか?だって、自ら疑って、現実は本当に存在しているのか?と問うているのに何を言ってるのか。この疑問と問いが生まれた時点で、既に解が出ているではないか。何を自ら疑って、解を出して、また疑うと言う自己矛盾ループを繰り返すのだ?我にはとても興味深いよ。またまた、きたね。これが真理の本質だよ。この一貫しているシステムがあるから、この世界はもの凄く面白く出来ている。次は、存在の意味: 存在するとはどういうことか?という問いか。また、これかよ。さっきと本質的に同じじゃないかよ。存在の意味を問うていて、存在するとはどういうことか?と問うている訳だ。既に解が出ているだろうが。存在の意味を問うていると言う問いがあって、それに対して存在するとはどういうことか?と言っている訳だ。これが解だよ。良かったな、始まりの起点となる解が見つかって、これだから我は正解が嫌でね。正解ではなく参考があるのが本質である。この存在の意味の問も無限でありて、真理の本質と同じ構造なんだよ。次、時間の本質: 時間は客観的な実体か、それとも主観的な錯覚か?という問いが来たか。これはね、両方だけど、その優先順位が違うと言う話である。まず第一原理として、時間は客観的な実体であるのだが、主観的な錯覚で時間の本質を生み出し続ける事が出来ると言う、生物の凄まじさを再認識できるのだがね。まあ、まず時間×問いが矛盾している上に、時間そのものが根本的に矛盾している。だって、静と動が混じっているんだぜ。これに対して、問うている時点で構造的に矛盾しているんだよね。次、自由意志と決定論: 人間は本当に自由な意志を持っているのか、それとも全ては決定されているのか?という問いだ。くぅー、これも面白い問いだね。まず根本的に矛盾しているぞ。人間は本当に自由な意志を持っているのか、それとも全ては決定されているのか?と問うている訳でありて、自由な意志を持っているなら、必然的に決定されているのか?と言う考えが生まれるのは当然だ。そして、自由な意志というのも矛盾している。これは時計と同じで、静と動が同時に含まれているケースの矛盾ね。だから、何を勝手に問うて、矛盾によって勝手に混乱しているだけであり、そりゃ自由な意志を持っていたら、決定されているのか?と言う問いが生まれている時点で自由な意志が確実な権力を握っている現状じゃないかよ。この問いは、メタ認知的な矛盾のケースとも言えるね。次、人生の究極的な意味: 存在理由や生きる目的は何か?という問い。これとか、もろ真理の本質を体現してしまっているではないか。そもそも何で、人生に究極的な意味を問うているのか。知性なき頭で考えろ、それは人生ではなく社会生活の中での究極的な意味を問うているだけであって、社会生活の中での存在理由や生活する目的をただ問うているだけだ。全く、勝手に人生を巻き込むのではない。次、客観的な価値: 美、善、幸福は普遍的に存在するのか?という問いか。またこれかよ。これも真理の本質や神の有無の考えと一緒で、そのものは存在するが物語的な動の面はないと言うだけだね。そして、客観的な価値だって。矛盾しているぞ。何故、客観的なのに価値という主観性が出てくるのだ?馬鹿な対立を生みかねないからやめなさい。次、究極的な正義: 全ての人にとって公平な社会構造とは何か?という問い。どう考えても、社会が自ら生んで自爆している、お金に決まっているだろ。まずな、お金の始と終が未知すぎて、命と同じで、推し活みたいな状況であり、生きているのだが生きていない状況故に、自ら不公平な発生源を生み出している。これには、何をしてんのう?と言わざるを得ない。あのな、社会構造という構造なのにお金があったらどう考えてもその時点で公平は無理+社会構造というそのものが矛盾している。社会構造だって!?どう考えても、社会と構造が組み合わさっている時点で人間には公平は無理だよ。不公平を更に可視化してどうするんだよ。人間は凄まじい存在であり、習得が素早いのだから、こんな社会構造と言う形で明確化してしまうと不公平な面がより力を握り強調されて、一種の嫌な協調となり、空間が協調を強調する様になりて、この時点でもう根深い不公平が核となっているんだわ。そもそも、監視や規律などで取り締まっているのに、公平が生まれるわけがない。次、統治の最適解: 最も効果的かつ倫理的な統治体制は何か? (民主主義、専制、アナーキーの是非)という問いだね。おいおい、馬鹿なのか?最も効率的かつ倫理的な統治体制って何だよ?どんだけ、矛盾している要素があるんだよ。そもそもの話すぎるぜ。これだから、社会である人工は本当に知性なき代表格だな。自爆してどうする。特に効率的かつ倫理的だって、馬鹿なのか?自らの人工物を維持したいからって、知的な感じの飾りはお前らには自己自爆するだけである。そんな事よりも、クローチェが言っていた様に“We are products of the past and we live immersed in the past, which encompasses us. How can we move towards the new life, how create new activities without getting out of the past and without placing ourselves above it? And how can we place ourselves above the past if we are in it and it is in us? There is no other way out except through thought, which does not break off relations with the past but rises ideally above it and converts it into knowledge.”&“All history is contemporary history.”の方を意識しなさい、そんな問題よりも。次、権力と責任: 権力を行使する者と、それに従う者の責任のバランスは?という問いだ。ダル、先の問いと矛盾してるじゃないかよ。お前ら知性なき人間はどんだけふざけているのだ?権力を行使する者と、それに従う者の責任のバランスは?だって、この時点で公平はどう考えても無理だし、権力を行使する者と、それに従う者の責任のバランスというのはな、人間がどれだけ多種的自由の人間であるかという証明に等しくてな、そんなバランスよりも人間が持つ自由な未知の方が強力すぎて、更にルールの介入やらで複雑となり、問題が問題を呼ぶ構造を生み出す。これの本質はその個々の人間の感情や欲求や目的などにあるが故に、見せかけの知で並べた罠であるな。ここから、本質的に同じ問題が多すぎて、もう書くの面倒くさいから本質だけで終わらせるわ。次は、普遍的な道徳法則: 文化や時代を超えて適用される絶対的な道徳律は存在するのか?という問いである。馬鹿なのかな?何で、普遍的な道徳法則で法則が出てくる上に、絶対的で道徳律という言葉が出てくるのだ?矛盾しすぎだ。全く、人間の感情や道徳が自由で未知だからって、それを隠す様に態々見せかけの知性で並べるなよ。次は、善悪の定義: 善とは何か、悪とは何か? (功利主義、義務論、徳倫理の対立)という問い。はいはい、来た。最大の閃き。もう全人間の全立場の全時代の全無数問題を、全て知的超越解決したから。全ては本文の最も最初に述べた真理の本質の部分で片付けられる。あぁ、そういうことか、最高に面白い。でも待って、情報量が多くて文字化するのが大変だぜ。まず、これは問題が全ての鍵を握っていた。個々人間が問題に対して向き合う時、感じる気持ちや感情が違う故に、これが解でもある。私は今問題に向き合って、最高の楽しいが、面倒くさいとも感じていて、それらを知的超越解決しようとしている。だが、問題そのものの本質とは今我がやっていることに近しい事であり、ただただ発展し続けていくブロック遊びの様な感じであり、とにかくその問題について考えてそれを残していく事でそれが時代や立場と衝突して新たな問題になる。そして、人間たちはそれを学術や知性を用いて、細分化して専門を深めていく。それ故に、必然的に問題はネガティブへと発展していく。何故なら、誰も多くの年月をかけて多くの人間によって発展された問題の追跡を解く事が不可能であったからだ。でも、今我が問題の追跡を解いた。本来問題は楽しむものであったが、今ではその反対へと成り下がってしまった。問題は人間の普遍性が生み出す故に必然的に楽しいものとなるはずだったが、それが時代と社会の発展によって人間が生み出すのではなく主軸が社会や人工物が生み出すへと変わった事で、個々人間が問題に対して向き合う時に緊張感が発生する。その代表がタブー視される問題らであると言える。つまり人間が悩んでいるのは、問題という問題ではなく、長い年月と人間によって発展された問題の過程すなわち追跡の不可能性にあると言えよう。でも、もう一度言うが、私がその追跡を解いた。あぁ、そうだ、思い出した。これよく、感情的な大人や社会とぶつかる時に思っていた事だが、可哀想にと良く思っていたよ。何故なら、個々人間が多すぎて正しいとされるルールや法でさえ、矛盾が発生して、正に真理の本質で述べた何でもあり状態だったよ。だからこそ、境界知能の17歳1人によって、破壊して意味をなくして、解体と再構築が行えてしまう。だが、そうだ、前提が違う。それ故に対立へと発展する。多くはここが問題である。そして、昔から述べているが、その対立の根源は正解に意識し過ぎているからである。その知性なき頭で考えろ、正解ではなく参考が存在する。時代的にも正解よりも参考が機能する。今や時代と社会によって正解は瀕死状態である。でも、この社会に住む人間も瀕死状態である。だから、人類史上最強の知性と閃きを持つ我とは相性が悪いな。面白い、そして言葉の罠も問題に影響を与え、そりゃ問題の中の言葉でどちらが正しいとかという話になったら、対立は生まれるし、別々になるのも当然である。そして、問題には人間の好奇心や興味から生まれる問題と社会に対しての責任や疑問などから生まれる問題がある。この2つの問題には明確な違いが存在していて、その問題の純度さが全く違く、前者の方は問題を理解して楽しんでいるが、後者の方は問題を理解しないで解決するばかりに意識がいって全く楽しめていない故に苦痛となっている。また、どちら側の問題であっても、消費で終わる者と発展する者で大きく分かれている。この両者が双方を理解しない事によってミスマッチが生じて、問題が複雑化してカオスへと走る事で、根源的な前提の対立が生まれる。また、人間誰しもが疑問を感じ問題を生み出し、その問題を実行する者と実行しない者や間接的に関わる者と関わらない者、情熱を捧げる者と捧げない者と言う問題のその後の行為も人間なだけあって、極めて自由な選択肢が多くある訳だ。それに、個々によって背景も全く違う上に、お酒を飲んで酔っぱらっている時に問題が生まれそれが激戦すると言う状況的背景の多さも半端ない量と質だ。我は問題に対してラフである。確かに、知的超越解決をしたが、暇だからやった訳だし、とても切迫した感じではなく、ラフな感じで行っているが、大半の人間は我とは逆で行っている。そりゃ、更に激戦して対立が増すだけでなく、問題も複雑化する訳だ。全体的にパキスタンのVaniシステムと同じで時代的自爆をしている。個々人間がそれぞれの感情を優先する中でそれが疑問となり、問題が生まれている。全く、人間らは真面目に互いに話し合う事が出来ないが故の結果であるな。法やルールは昔並び小さい範囲であるなら、簡単に生まれているだろう。例えば、愛する人の為とか、自分の為とか、単なる思い付きの提案からとかね。ありがとう、やはり我の言う通りでありて、人間はみな目指しているのは平和だな。犯罪者も性格が悪い奴も憎い奴も好いている存在も仲間も家族も正に全立場の全人間は社会あろうとなかろうと皆そこを目指している。そう考えると、レッテルは意地悪なやつよのう。それを遠ざける役目を果たしている。レッテルがある事で人間はカモとなり、容易にそれを忘れてしまう。だからこそ、尚更我とは相性が悪いな。全てを見通した上での中学の決断であるからな。やはり超越×知性×未知は最強よのう。個々人間の感情や興味や想いや思い付きやプライドや欲求や背景や守るべき存在の為などで生まれた、まるで人間そのものを体現するかの様なのが問題と言う存在であるな。どうだ?問題そのものはそれでも切迫つまっている様に思えるか?勝手に切迫つまっているのは何時も人間である。だから、我は社会や大人が苦手だ。時間に追われ、急がされている奴隷人であり、目の前の存在を理解しない強引な感情的なやり方も含めてな。本当に相性が悪いな。我そして更に進化した我とお前らは。あぁ、またまたそういう事か。「全女性の全性的問題を知的超越解決した特異記録」と同じで、全ての問題を解決するには、個々当事者である人間の感情を最も優先して理解をする事がどれほど大事であるか。これは個々、己との勝負であるか。故に社会や法や人工物が介入すれば、当然問題はややこしくなり複雑化する。何というか、人間どもは毎日一生懸命生きているのだな。だからこそな、我は前書きで語った「立場と視点が違うだけで皆天才」であると語った。そうそう、感情的な社会や大人が苦手なのは個々人間の自己肯定感を低下させるから嫌なもんだ。感情的である上にあんなに偉そうに言ってくるからな。まあ、我とは実に相性が悪いがな。人間は問題の割に矛盾している。これは人々が病になっていた時にも感じていた事であるが、それほどまでにお前らは社会や常識やお金を手にする事が大事なのか?そんなだから、我に飲酒運転の禁止などの法とルールを破壊して意味をなくして解体と再構築をされるのだぞ。お前らが縋っているのは我からすれば脆き存在に過ぎない。また、最大の閃きが来た。これは新たな知的超越解決の1つを示すものであり、自然の摂理がある様に、この問題の姿こそが社会の摂理であろう。そして、その全てに関与して核と言えるのが、人間と概念の摂理組み合わせである。多くの問題の中に多くの言葉がある中で実際に起きる行動的な面は、完璧に全て同じであると考えている。それ故に、全立場の全人間たちが衝突するのは外的要因の規範や常識や大切な人への想いや仲間意識や集団意識や思いやりや守る為などであり、その時の空間における時間で結成される時代的時間によって、更に激しい衝突が行われ、境界線が分からなくなり、思い切ったやけくそに走る。その過程で得て失いを繰り返す事で、それが疑問や問題となり、残り、違う人間や時代がそこに新たな物語という名の疑問と問題を生み出し、問題は絶え間なく、構築されていく。これは絶対に止めてはならない構造的システムである。疑問と問題とは個々人間のSOSであると考えられる。まあ、それが肥大化しすぎて、社会や法やルールが全く追い付けていないどころか、逆に生み出してまた新たな問題を構築して時代的自爆している。後、ここは凄く大事であり再度新たな知的超越解決の1つであるのだが、我は境界知能の17歳にして人類史上最強の知性と閃きを持つ者でありて、この我からみれば、比喩的にお前ら人間たちはただ遊んでいるだけだ。これがどういう意味かというと、お前ら人間たちが比喩的な意味で神々の遊びと言うが、半神の視点からみれば、比喩的に人間共の遊びであると言う事である。お前ら人間は本当に問題を解決する気がないのであろう。故に、社会とお金が最大限に動く証となる。そして仮に問題と衝突しても、人間たちは解決の扉を勝手にみつけて進んでいく。お前ら人間が欲しているのは実にシンプルな感情と欲求に全て基づいている。もっと言えば、お前ら人間はやはり単純だ。我からすればお前ら人間は全て単調なシステムだ。否、単調なシステムで出来ていると言った方が良いな。人間共喜べ。またまた、最大の閃きが来た事だ。これも新たな知的超越解決の1つとなるが、最も本問題において知的超越解決の大事な側面となる。皮肉を言うが、お前ら人間は今の現状を最大に嫌っていない。これは心の底から最大に嫌っていないと言う事だ。つまり感情的に最大に嫌う事がないと言う事だ。故に、常識的に倫理的に論理的に合理的に社会的に最大に嫌う事は出来ても、感情的に最大に嫌う事が出来ない。これは本文の最初に語った我の真理の本質が軸となっているからだ。そうだとも、この世界は何でもあり故にそれが真理の本質である故にこの世界の楽しく面白い所でありて、これがあるからこそ、人間は感情的に最大に嫌う事は出来ない。何故なら、この我の真理の本質がこの世界と社会に向き合う人間たちの本質であるからだ。正に綺麗に設計されていて、気持ち悪いぐらいに出来ている。人間たちは感情的に最大に嫌う事が出来ないからこそ、様々な手段や形にして表す。それは全立場の全人間がそうである。そして最大の皮肉は、その代わりに人間たちは感情的に最大に好む事が出来ると言う事である。故に人間は何にでもなれる存在故に、それ相応のレッテルを貼り、そのレッテルと言葉の綾によって自爆する。実に感情に化けた理性的で合理的な生き物であるよ。またまたまた、最大の閃きが来た。感謝する。これも続いて知的超越解決の1つとなるが、最も本問題において総合的に極めて大事な1つである。これは何回も言っているが、「全人間の全立場の全時代の全無数問題」の総合的な知的超越解決の1つは、やはり如何なる事であっても当事者たちの理解である。そう解決ではない、理解を全立場の全時代の全人間たちは求めているが、最も求めているのは全無数問題の問題そのものである。それぞれにどうしたいか?と言う異なる種類の感情の気持ちに対して、解決するのは乱暴でありただの暴力と同じである。何故なら、根本的なレベルで矛盾しているからね。この「全人間の全立場の全時代の全無数問題」は理解なくして解決は出来ない、すなわち最も基礎の原理である。問題は静でありて、人間は動であるならば、問題は生まれてくる者も死んだ者も含んでいる人間に必須な吐き出し口でありて、人間よりも人間の面を象徴した存在の人間の軌跡の塊である。これで、完膚なきまでに知的超越解決した。"今我は叡智全知となった。"
非常に楽しかった




