46話(番外編4)
婚約の祝いが終わった夜。
屋敷の廊下に、賑やかな足音が響いている。
「お兄様!」
勢いよく飛び込んできたのは、僕の妹。エミーだった。
まだ十歳だというのに妙にませていて、兄である僕の後をいつもついてくる。
「お兄様たら、最近ずっと幸せそうなお顔をしていらっしゃるわ」
「エミー」
「隠さなくてもよろしいのに」
くすくす笑いながら、エミーはシンシアと手を繋いだ。
「わたくしのお義姉様になってくださるのでしょう?」
シンシアが赤くなる。
僕は、そっと妹の頭を軽く小突いた。
「シンシアが困っているだろう?」
「いいえ、お兄様。お義姉様は照れているだけですわ」
(まったく、エミーは相変わらず生意気だ)
そんな妹を見ながら、僕は思う。
いつか彼女も、誰かのもとへ嫁ぐのだろうかと。
その夜。
応接室には父と母、そして僕の三人がいた。
エミーはどうしてもお義姉様と一緒に寝ると言って、シンシアのベッドに潜り込んで二人で寝ている。
父がため息混じりに母に愚痴った。
「あの子もいつか、嫁がせる日がくると思うと、今から気が重いな」
「そんな、気が早いですわ」
母が笑う。
僕がつい口を挟んだ。
「父上が言える立場ですか」
「どういう意味だ」
「式も挙げず、妻を離れに住まわせ、顔も見ずに砦へ向かった方が」
一瞬、空気が冷たくなった。気がした。
母がくすくすと笑っている。
「本当のことよ」
「アンジュ」
父が母を名で呼び、苦い顔をした。
「つまり父上は、結婚した相手の顔も知らずに半年もの間放置したと?」
「いやいや。忙しかったのだ」
「だから離れに住まわせるようメイドに言いつけたのですか?」
「いや、執事のランカスターにだ」
「同じことです。その間、母上は街のパン屋で働いていたと?」
「ええ」
母は笑いを堪えるように頷いた。
「お金もなかったし、頼れる人もいなかったの」
「……」
「しかも父上は、そのパン屋に通っていたとか」
父の目が泳ぐ。
「たまたまだ」
「なんでも若い店員目当てとか」
「違う」
「その上、店主との間を誤解していたとも」
母が楽しそうに言う。
「あれは嫉妬だったのよね?」
「嫉妬などしていない。あの男が家庭を持っていることを知らなかったのだ」
(父上、それを嫉妬というのです)
僕は淡々とまとめた。
「要するに父上は、顔も知らぬ妻を半年も放置しながら、同じ女性とは知らずにパン屋の娘に恋をし、そこの店主にまで嫉妬していたのですね?」
「知らなかったのだ!」
父の声が響く。
「私は本当に知らなかった」
書斎が静まり返る。
母がまた笑いを堪えながら話した。
「私が本宅に初めて妻として説明に行くと、私を見た旦那様の驚いた顔が今でも忘れられないわ。パン屋の店員が何故ここに? でしたわね」
父はバツが悪そうにしている。
「あれほど気まずい瞬間はなかったな」
父は顔を上げた。
「確かに何も知らずに、ただの店員としてのアンジュに惹かれたのは事実だ。認めよう」
父の言葉に母が優しく微笑んだ。
「後で思ったの。私はそれが嬉しかったんだって。だって旦那様は人を身分や肩書きだけで量ったりしなかったから」
「そこですか? やはり母上は不思議な方です。でもそんな捉え方もあるんですね」
(僕は思った。その店員と母上が同一人物だったからよかったものの、もし別人だったら、今の僕はこの世に存在していないかもしれない。
だけど同時に確信もしている。今の母上なら、きっと悪戯っぽくこう言うだろう。
『それが私だったから、旦那様は惹かれたのよ』と。
僕は感心しながらも急に話題を変えた。
「父上。ではもし、娘のエミーが同じ目に遭ったら?」
父の目が急に鋭くなった。
「その男を全力で叩き潰す」
「なるほど」
父がしまったというような顔をした。
「……私は若かった」
「便利な言葉ですね」
「アンソニー」
母は笑いを堪えるのが限界のようだ。
父は苦笑いを浮かべている。
「まったく、ここの領民たちは皆おしゃべりだな」
「しょうがないですよ。母上のアップルパイはあまりにも有名でしたからね。そのうちエミーの耳にも届くのではありませんか」
父は焦った顔をした。
「明日からエミーに街には行くなと言わなければ。まったくうちの領民たちは噂好きで困る」
「父上、それはあまりに無茶な話ですよ」
父は大きなため息をつきながら、ついには諦めた様子だった。
そんな話をしながら三人はお互いを見ながら笑い合った。
ーーーー
次の日の朝。
朝食を食べながら、賑やかな会話が飛び交う。
父がシンシアに笑顔を向けた。
「シンシア嬢、これからは私を本当の父だと思って、困ったことがあったらなんでも言うといい」
「はい。ありがとうございます」
僕は父に向かってニヤリと笑った。
「父上。僕は妻をパン屋で働かせたりしませんから」
すると母が優しく笑う。
「まあ、アンソニー。ずいぶんと根に持っているのね。昨夜だけでは言い足りなかったかしら?」
「事実ですから」
涼しい顔で返すと、父がわざとらしく咳払いをした。
今度はエミーが口を出す。
「? パン屋? わたくし、レカンのパン大好き! 特にね、アップルパイはお母様の作ってくれるのと同じ味だから一番好き!」
それを聞いていた父が焦った顔で慌てて話を変えようとした。
「あ、ああ、アップルパイも美味しいが、それより今日のスープはまた格別だな!」
そう言って、目に見えて動揺しながらスプーンを落とした。
「あら、そうですか? いつもと同じ美味しいスープよね?」
母はそう言って、楽しそうに僕と目を合わせた。
そんな賑やかで楽しい朝の食卓で僕は心が温かくなるのを感じた。
(そうだ。僕が願う幸せとはこんな光景の積み重ねなんだ)
かつて孤独だったシンシアが、僕の家族とこうして笑い合い、冗談を言い合っている。
父上の失敗談すらも、今ではこの家族の絆を深める笑い話のひとつになっている。
そんな雰囲気に、彼女が自然に溶け込んでいるのを見て、僕は思った。
(ああ、そうか。やっとここが、彼女の居場所になったのだと。だったら僕はこの場所を守り、君と一緒にこの光景を積み重ねていこう。それが本当の幸せのような気がするんだ)
「ねえ、お兄様。何をそんなににやついていらっしゃるの?」
エミーが不思議そうに僕の顔を覗き込んできた。
「いいや。なんでもないよ」
「それよりお兄様! 今日はお義姉様と街に行ってもよろしいかしら?」
父が即座に反応した。
「街は危険だ!」
「父上」
僕は昨夜の話を思い出して、笑ってしまった。
かつて離れに住まわされた若き日の少女も、砦へ逃げた若き青年も、遠回りの果てに、今がある。
そして、それを知っている僕は心の中で密かに思う。
いつか自分もこんな夫婦になれたらと。
(しかし、父にはその想いを知られたくはないけれど)
世の中がどんなに変化しても、人生は家族で始まり、家族で終わることに変わりはない。
僕が大好きなこの言葉を胸に家族を守れる男になろう。
そんな決意に浸っていたら突然エミーが無邪気に叫んだ。
「おかわり!」
僕の余韻は一瞬で消え去り、また笑いが広がった。
朝の光が、家族の顔を照らす。
こうして今日も幸せな一日が始まっていく。
完




