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完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   作者: ヴァンドール


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44話(番外編2)

 ランカスターが王都へ発ってから半月と少し。

 辺境伯家の情報網は、素早く、そして凄かった。


 子爵家の帳簿。

 継母が密かに作らせていた借用証。

 そして、例の伯爵との婚姻契約書。


 すべてが明らかになった。


 伯爵は高齢で、後妻を迎える条件として『持参金不要』と言っていたが、その実態は、子爵家への支度金という名の売買契約だった。


 しかもその金は、子爵家の負債の穴埋めに消える予定だった。


「なるほど」


 書類を読み終えた辺境伯エリックは、目を伏せた。


『娘を担保にして、借金にかたを付ける気か』


 そんな親、たとえ血が繋がっていなくとも許されるはずなどない。

 そんな人間には……。

 


 数日後。


 子爵家には一通の正式な書簡が届いた。


 内容は簡単だった。


 要するに、この契約書は法的に穴だらけ。その上、裏帳簿まで揃っている。つまり、この汚い約束には、法的な効力など一切ない。

 すべての証拠を揃え、王都監査官へ提出する準備は、できている。

 そして最後に。

『円満な解決を希望する』


 その文面に、継母は青ざめたという。


 結果は早かった。


 婚姻契約は白紙撤回。

 支度金の話も消滅。

 辺境伯が一部保証人になる代わりに継母は親権、財産の管理権を失う。子爵家は実質的に辺境伯の監督下に置かれた。


 交渉の場にすら上げなかった。

 それが辺境伯のやり方だった。


ーーーー


 すべてが片付いた日。


 シンシアは辺境伯夫妻の前で深く頭を下げ、感謝の気持ちを精一杯伝えた。


「私のためにこんなにも……ありがとうございます」


 彼女の声が震えていた。


 母はそっと微笑み、彼女の手を包む。


「あなたのためではないのよ」


「え?」


「ただ理不尽な人間が許せなかっただけなの。だから今回のことを恩に感じる必要はないのよ」


 それから母は彼女の瞳を見つめた。


「それにね。これを機にあなたはきっと変われるわ。かつての私がそうだったように。私はね、結婚する前までずっと影の薄い存在だったのよ。誰からも必要とされないほどに。でもね、結婚して環境が変わり、今ではこうして皆が頼ってくれる。だからあなたも必ずそうなれる。だってあなたはとても努力家だから」


 その優しい声に、アンソニーは幼い頃を思い出す。


 母はいつも、そうだった。誰かを救っても、決して恩に着せない。

 そんな母がアンソニーは大好きだった。


 しかし、同時に、アンソニーの胸には一つの疑問が浮かんでいた。

『影が薄く、誰からも必要とされていなかった』そう語る母を、あの情に厚い父が、なぜ結婚当初冷遇したのか。


(王都の学院に入学する前、領民たちがそんな噂を口にしていたのを、少しだけ耳にしたことがあった)

 


 その夜、僕は母にどうしても尋ねたくなって声をかけた。


「父上は……結婚した当初、本当に半年も母上を放置していたのですか?」


 母はくすりと笑った。


「ええ、そうね。でもね、アンソニー」


 窓の外、夜空を見上げながら母は懐かしそうに語ってくれた。


「お父様はね、亡くなったお祖父様の女性関係が少しどころではなく、んー、かなり複雑でいらして。そのせいでお祖母様とは絶えず喧嘩ばかりだったの。それを見て育ったものだから、結婚などするものかと、若い頃は思っていらしたのよ」


「でも、母上は寂しかったでしょう?」


「寂しかったわ。でもね、恨んではいないの。あの人が自分の母親の気持ちを理解できるようになって和解した時に、心の底から人を思いやることを知ったから。人はそうやって成長していくものなの」


 そして、少し悪戯っぽく笑った。


「あなたのお父様はかなり不器用だったから、人より少し気づくのが遅かっただけなの」


 それから僕に言い聞かせるように話を続けた。


「あなたも、誰かを守る立場になるのなら、覚悟を決めなさい。相手を思いやる気持ちを、何があっても貫く覚悟をね」


 僕は、真剣な顔をして頷いた。

 そして母は最後に言った。


「彼女自身に『ここがあなたの居場所』だと感じさせてあげること。きっとそれが彼女の自信につながるはずよ」


 母の言葉はいつまでも僕の心に響いていた。




 それからの日々。


 シンシアは、まるでこの地に昔からいたかのようにすっかりと溶け込んでいた。


 厨房では母と焼き菓子を作り、書斎では僕と一緒に父の実務を学び、妹のエミーとはすっかり打ち解けていた。そして彼女は領民の子どもたちにも優しく接した。


 荒れていた指先は、少しずつ本来の柔らかさを取り戻していた。


 しかし彼女は、いつも一歩引いていた。


「アンソニー様は、ご自由になさってください」


 庭を歩きながら、彼女は屈託のない笑顔でまるでそれが本心かのように話す。


「私は助けていただいただけで十分感謝しているのです。ご迷惑にならぬよう努めます」


 その言葉に、何故だか胸が痛む。

 理由はわかっていた。

 この頃にはその答えは自分でもなんとなく気づいていたのかもしれない。


(迷惑?)


 彼女が笑うたびに、彼女が必死に役に立とうとするたびに、胸の奥が締め付けられるような愛おしさを、僕は自覚していた。


 これはもはや同情などではない。

 哀れみとも違う。


 ある日、母がいつもの焼き菓子を作りながら語ってくれた。


「恋はね、気づいたときには既に始まっているものよ」


「母上……」


「同情と恋の違いは簡単。失いたくないと思ったら、それはもう恋なの」


 僕は思わず言葉を失い、そして何度も何度も頭の中で母の言った言葉がよぎった。


 その夜。

 執務室で帳簿を整理していたシンシアの手を、思わず掴んだ。


「自由にしろなどと言わないでくれ」


 彼女が驚いて見上げた。


「君のいない未来など、考えたくない。君を失いたくないと心からそう思う」


 これは間違いなく告白だった。


 シンシアの瞳に、涙が浮かぶ。


「私なんかでは……」


「同情ではない」


 はっきりと言った。


「シンシア、君と一緒にこの地を守りたい」


 辺境は決して華やかではない。


 だが、皆優しい。


 見つめ合う僕たちの間で、繋いだ手はもう震えてはいなかった。


「こんなにも幸せで怖いくらいです」


 彼女はそう言って、恥ずかしそうに頬を染め、僕の手をそっと握り返してくれた。





      

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