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婚約破棄されたポンコツ策略家令嬢、悪霊公爵に玉の輿を仕掛ける

作者: 彩賀侑季


「アニエス・ド・ヴァレット! 今夜をもって、僕は君との婚約を破棄する!!」


 それはまさに、青天の霹靂だった。


 今宵は、グランヴィル公爵家の嫡男ジュールの十八歳の成人を祝う夜会。

 アニエスは“未来の公爵夫人”として皆の視線を浴びることを想定し、いつも以上に衣装にも化粧にも気合いを入れていた。


 けれど、開幕の挨拶で壇上に上がった彼の口から飛び出したのは――まさかの婚約破棄宣言だった。


 頭が真っ白になる。

 思考が追いつかない。


 足元が崩れ落ちそうになるのを、どうにか気力で踏みとどまりながら、アニエスは必死に問いかけた。


「……と、突然、どうなさったのですか? ジュール様……!」


「――すまない。これは僕の、わがままなんだ」


 芝居がかった仕草で前髪をはらい、沈痛な面持ちで目を伏せるジュール。

 どこか自分に酔ったような声音で、彼は続けた。


「君が僕に尽くしてくれていたこと……誰よりも愛してくれていたこと……すべて分かっている。

 今まで、君の存在に心救われてきたことも、事実だ。だが――」


 一呼吸、置いて。

 彼は胸に手を当て、切なる祈りのように言った。


「僕は、巡り合ってしまったんだ。……真実の愛に! 運命の人に!!」


 その瞬間。遠巻きにしていた人だかりの中から、一人の少女が飛び出してきた。


 桃色の髪をした小柄な少女だ。その顔立ちも愛らしい、なんとも庇護欲をそそる。

 ――ブランシュール男爵家のミレーユ。アニエスも知る相手だ。


「ジュール……!!」


 ミレーユは涙を浮かべたまま、壇上に駆け上がる。そして、二人は熱い抱擁を交わした。

 呆然とするアニエスに、ジュールは告げる。


「僕は嘘をついて生きていきたくはない。自分の心に従う。僕が心から愛するのは、彼女ミレーユだ」


 そして、彼は自身の成人を祝うために集まって片来賓に宣言する。


「――今夜、アニエス・ド・ヴァレットとの婚約を破棄し、代わりにミレーユ・ド・ブランシュールを我が妻に迎える! そして、彼女とともに、グランヴィル公爵家を新たな高みへ導くことを、ここに誓おう!!」


 夜会の会場は不可思議な空気に包まれている。しかし、その中には少なからず公爵家嫡男の熱意に心動かされる者もいた。


「ジュ、――ジュール様、万歳!!」

「カッコいいぞ!!」


 そんな風に野次を飛ばしたのはジュールの悪友ともいえる貴族子息たちだ。


 大きく拍手する彼らにつられてか、会場のあちらこちらからまばらに拍手の音が増えていく。気がつけば、アニエスは四面楚歌となっていた。


(ちょ、ちょっと、待ってよ……!!)


 こんなのはおかしい。

 反論したいことはいくらでもある。


 しかし、どうアニエスが訴えてもこの状況がひっくり返ることはないのだろう。

 ――ジュールの熱意からも、会場の空気からも、そのことを嫌と言うほど突きつけられる。


 アニエスは頭を抱えた。


 二年前のジュールとの出会い。それから、仲を深め、婚約を結んだこと。彼を支えてきた日々を思い返す。


(や、やっとのことでここまで来たのに)


 そうして、決して口には出来ない本音を心のなかで叫ぶ。


(私の『玉の輿計画』が、全部オジャンじゃない――!!)




 ✼




 ヴァレット伯爵家。


 自然豊かで、いくつか交通の要所を領地に持つアニエスの生家の経済状況が悪化したのはここ四、五年の話だ。


 父が金策に走るが、帳簿から赤字の文字が消えることはない。そうして悩み抜いた結果、アニエスが思いついたのが――『玉の輿計画』であった。


「普通に考えたら、そんな打算で近づいてきた女よりは別の女性を選びますよね」


 無慈悲な発言をしたのは侍女のシセルだ。反射的にアニエスはクッションを投げつけた。


「何よ! ジュールの前ではちゃんと婚約者を慕うご令嬢を完璧に装ってたわよ!」


 シセルはなんなくクッションをキャッチすると、淡々と返す。


「完璧と思ってたのはお嬢様だけで、実はバレてたんじゃないですか?」


「そんなわけないでしょ! アイツのバカさ加減はアンタも知ってのとおりでしょう!!」


「……確かに。夢見がちなお坊ちゃまでしたもんね」


 彼女は思い出すように遠くに視線を向ける。


「まるでヒーローを夢見る子供のよう。そういう意味では可愛らしい方でしたね」 


「どこがよ、全然! 次期公爵って言うならもうちょっとしっかりしてほしいわよ! 私より年上なのに、私より物を知らないのよ!!」


「お嬢様は『玉の輿計画』のためにたくさん勉学に励まれましたから。そこらのボンクラよりよっぽど教養がございます。

 まあ、頭の回転についてはお二人ともどんぐりの背比べと言いますか」


 今度アニエスが投げつけたのはテーブルの上の燭台だ。しかし、あっさり受け止められてしまう。


「お二人の関係は夢見がちなジュール様をお嬢様が本人に気づかれないよう、こっそり助けるというものでしたから。ヒーロー願望のあるジュール様には物足りなかったのかもしれませんね。

 ミレーユ様のように可憐な庇護欲をそそるタイプにコロッといくのも無理ありません」


 シセルはそこで言葉を区切ってから、アニエスの全身を上から下まで見る。


 彼女の目に映る主は、まさしく絵に描いたような美しい令嬢だろう。


 艷やかな金色の髪。

 整った顔立ち。

 金色の瞳。

 シルクのようなきめ細かい肌。

 高級感のある赤いドレス。


 社交界に出れば、誰もがアニエスの美貌に見惚れたはずだ。そうなるように、アニエスはありとあらゆる努力を重ねた。


 同性である侍女も、美しさには感心するはずだと思っていたが――なぜか、シセルは大げさな溜息を吐いた。

 

「お嬢様はお美しいですが、どちらかといえば気の強さが顔に出ていると言いますか。

 静かで控えめを装っても、本来の性格が表情に出ていたんじゃないですか?」


「誰に向かって、そんなセリフ吐いてるの!?」


 アニエスは叫ぶ。


「私はアンタの主人でしょ!! 侍女なら私を褒めるなり、フォローするなりすべきじゃない!!

 アンタ、一体誰の味方なのよ!」


「私はただ一人、私の味方です」


 ケロッとした様子で答えてから、シセルは表情を真剣なものに切り替える。


「お嬢様。私は事実を申し上げているだけですよ。グランヴィル嫡男と結婚して、玉の輿に乗るのは失敗しました。次はどうなさいますか?」


「そりゃあ、新しいターゲットを探すに決まってるでしょ!」


 アニエスは分厚い手帳を取り出す。


 そこにはこの四年で集めた社交界のあらゆる情報、……特に年頃の貴族令息のデータが書かれている。

 年頃の貴族令息たちの家柄、資産、嗜好に至るまで、完璧に網羅された、未来の玉の輿候補名簿だ。


 アニエスは手帳をペラペラとめくりながら、ぶつぶつと文句を言う。


「まったく、婚約破棄するならもっと早くしなさいよ。二年も無駄にしたじゃない。十七歳なんて、社交界じゃ行き遅れ一歩手前よ!」


「身分差や後ろ盾の有無を気にしない、おおらかな性格。そういう意味で、一番の優良株だったんですけどね。ジュール様」


「契約を破棄されたんじゃ、元も子もないわよ」


 シセルもソファの隣に座り、一緒に次のターゲットを考える。


「ほら、フォルタン侯爵家のオスカー様とかどうですか? 以前、お嬢様も候補に入れてらっしゃいましたよね」


「フォルタン侯爵家は去年のお家騒動でおおもめしてるところよ。うまいところオスカーに取り入れたって、侯爵家が落ちぶれる可能性があるわ。リスクが高すぎる」


「じゃあ、ノワレ侯爵家のリュシアン様は? 今でもお嬢様によくお花を贈ってくるじゃありませんか」


「あの女好きね。恋人を囲うぐらい好きにしてもらっていいって思ってたけど……今回の件で学んだわ。やめときましょう」


 候補者リストを見ていたアニエスは眉間にシワを寄せる。


「駄目だわ。他は経済状況か、他に不安が残る奴らばっかり。この二年の間に他の優良物件は契約済みになってしまったし――もう! 本当に時間を返してほしいわ!」


「……そうなると、もう少し家格を下げてはどうでしょう。ヴァレット伯爵家と同格の家なら他にも候補が」


 その言葉にアニエスはピタリと手を止める。それから、まっすぐ侍女を見つめる。


「シセル。分かってるでしょう? ウチと同格じゃ、また二の舞いになる。公爵家――いえ、せめて侯爵家レベルの圧倒的な財力が必要なのよ」


「……失礼いたしました」


 気を取り直し、アニエスは手帳をもう一度最初から確認し直す。


 手帳の情報は主にジュールと婚約するまでに集めたものだ。

 この二年で状況が変わっている者……つまりはこの二年で婚約者、あるいは配偶者を失ったものなら、もしくは――。


 ページをめくっていたアニエスは、その名を見つけ、手を止めた。


「――いたわ」


 主の呟きに反応して、シセルも手帳を覗き込む。そして、書かれた名前に驚いたように目を見開く。


「ノクス・ド・モンルージュ公爵――“悪霊公爵”ですか!?」


「そうよ」


 その名をこの国の貴族で知らぬ者はいないだろう。


 王族の縁戚に当たるモンルージュ公爵家。

 古くから歴代の王からの信任が厚く、その一方で社交界にはほとんど姿を現すことのない一族。その存在はベールに包まれている。


 そんな中、現当主ノクスには不穏な噂が尽きない。


 そもそもノクスはまだ二十歳。公爵の座に就いたのは今から五年前――十五歳のときだ。


 その理由は先代公爵夫妻が早々に亡くなったから。

 そして、その原因は息子に取り憑く悪霊に呪い殺されたからだとまことしやかに言われているのだ。


 シセルは珍しく、肩を震わせる。


「お嬢様、やめておいたほうがいいです。悪霊公爵と結婚だなんて命がいくつあっても足りませんよ!

 歴代の婚約者の方々がどうなったか、ご存じないわけではないでしょう?」


「もちろん、知ってるわよ」


 ノクスがラフォレ侯爵家カミーユを一人目の婚約者を迎えたのは爵位を継いですぐのこと。


 彼女は穏やかで優しい性格と評判の令嬢だった。しかし、婚約して間もなく、原因不明の奇病にかかってしまう。


 その際、ノクスとラフォレ侯爵がどういう話し合いをしたのかは分からない。

 しかし、二人の婚約は解消され、間もなくカミーユは以前のように社交界に顔を出せるようになった。


 その後、新たにモンルージュ公爵の婚約者となったのはセルヴァン公爵家リオナだ。


 彼女は活発で元気が取り柄のような女性だったらしい。リオナと婚約を結んでいる間は何度か、ノクスも社交界に姿を現すこともあった。


 ――しかし。


 それから間もなく、リオナは夜会でバルコニーから転落し、大怪我を負った。

 噂によれば、それ以前からも彼女は軽い怪我を負うことが増えていたらしい。


 そんな最中での事故。それからすぐに二人の婚約は解消された。


 そして、三番目の婚約者、フェレール侯爵家マルグリット。


 彼女は気の強い、わがままな女性だった。

 アニエスも彼女とはお茶会や夜会で顔を合わし、嫌な思いをしたことが何度もある。


 マルグリットがノクスと婚約を結んだのは一年前のこと。

 それまで積極的に社交界に出ていた彼女を見かけなくなったと思ったら、しばらくしてこんな噂が流れ始めた。


 ――悪霊公爵と婚約を結び、マルグリットは気が触れた。ありもしないものが見えると言い、何かに怯えるようになったのだと。


 そうして、三番目の婚約も解消された。それから今に至るまで、ノクスは誰とも婚約を結んでいない。


 両親の不可解な死だけでなく、三人の婚約者に訪れた不幸。この出来事で、余計に“悪霊公爵”の噂を悪い意味で広がっていた。


「モンルージュ公爵家の財力は他の公爵家にも負けないわ。社交界に顔を出さない分、余計に懐に溜まっているかもね。

 本人の性格は知らないけど、関わった人間が全員不幸になってるんだもの。他の女が近づいてくる心配もない。

 ――これ以上の優良物件はないんじゃない?」


「何をおっしゃってるんですか。お嬢様が四番目になりかねないんですよ!」


 シセルの言葉に、アニエスはにこりと笑う。


「私、幽霊とか悪霊とか信じてないの。モンルージュ公爵に憑いてる悪霊が本当に私に悪さするって言うなら、こっちが逆に追い払ってやるわよ。

 簡単に諦めるような物分りのいい女じゃないの、私」


「お嬢様が言い出したら聞かないってのは、私も十分存じ上げておりますが……」


 シセルは深々とため息をつく。


 最初にアニエスが『玉の輿計画』を言い出したときも、彼女は反対した。しかし、今はこうして協力してくれているのだ。

 今回だってきっとそう。そんな根拠のない自信がある。


 アニエスは手帳の文字をなぞる。


「決めたわ。――モンルージュ公爵ノクス! 彼が次の私のターゲットよ。今度こそ、絶対に玉の輿に乗ってやるんだから!」




 ✼




 モンルージュ公爵ノクス。


 社交界に入り浸りだったアニエスでも、彼の姿をきちんと目にしたことはない。噂話を聞くだけだ。


 曰く、闇のように漆黒の髪と血のように紅い瞳、死人のように白い肌は人間ではないようだとか。

 曰く、背の高さに反して線が細く、骨と皮しかないようだとか。

 曰く、彼の近くに寄るだけで背筋が凍るほど寒いとか。


 そんな彼だが、まったく人前に姿を現さないわけではない。貴族同士の集まりに不参加であっても、公的行事には参加しないわけにはいかない。


 その一つが公爵に義務付けられている定例謁見だ。半年に一度、公爵家当主が国王に謁見し、領地経営や政策について報告を行うのだ。


 当然伯爵家の令嬢に過ぎないアニエスには関わりのないイベントだ。

 だが、モンルージュ公爵が登城するのに合わせ、城にいてもおかしくない工作は実施済みだ。



 王城の人気のない廊下。アニエスは鼻を鳴らすと、自信満々に語り始めた。


「ヴァレット伯爵令嬢は元々勤勉。親戚のツテを頼って、王城の図書館への入室許可証を手に入れるくらいにはね。

 グランヴィル公爵嫡男との婚約が決まってからはすっかり足が遠のいていたけど、婚約破棄後、傷心のヴァレット伯爵令嬢は再び王城の図書館に通い始める……。

 そこで偶然、二人は廊下でぶつかるの。私は抱えた大量の本を落としてしまって、困り果てる。それを拾う手伝いをしてくれたモンルージュ公爵の優しげに感激。一目惚れして、彼にアプローチを始める。――ね! 完璧な作戦でしょう!?」


「どこがですか。穴だらけじゃないですか」


 アニエスが語った作戦を、大量に本を抱えたシセルが一蹴した。


「図書室と謁見室がどれだけ離れてると思っているんですか。それにこんな大量の本を持ち出して、どこに行こうって言うんです? そもそも、悪霊公爵が手を貸してくれるとはかぎらないじゃないですか。そのままスルーされたらどうするんですか?」


「――うっ!」


 言葉を詰まらせるアニエスに、シセルは遠い目をして呟く。


「まさか、司書様もお嬢様がこんな理由で本の持ち出し許可を求めたとは思っていないでしょうね……」


「と、とにかく! もうすぐ、ここをモンルージュ公爵が通るはずよ! そしたら、作戦決行よ!! いい!?」

 

 シセルの返事を待たず、アニエスは配置につく。


 この廊下を曲がった角――その先からノクスが現れるはずだ。


 噂に聞く“悪霊公爵”との遭遇。そして、この後の行動の結果がアニエスとその家族の運命を変えると考えると自然と緊張感が高まる。


 廊下の角から向こうを覗き見るアニエスに、後ろからシセルが声をかける。


「……お嬢様」


「しっ! ――来たわ」


 廊下の向こうに人影が現れる。遠目には分かりにくいが、黒髪の長身の男性――モンルージュ公爵だ。


 アニエスは男から視線を外さないまま、小声で侍女に命令する。


(シセル! 本をちょうだい!)


(はいはい。どうぞどうぞ)


 呆れ顔のシセルが手元の本をアニエスの腕に積み上げていく。

 思ったより量が多い。しかし、逆に説得感が増すのではないか――そんな考えが浮かぶ。


(シセルはあんなこと言ってたけど、私の考える作戦が完璧じゃないわけがないわ! 絶対に成功してみせる!)


 モンルージュ公爵は陰に隠れたこちらに気づく様子はなく、どんどん近づいてくる。


 彼の姿がハッキリ見えるくらい近づき――アニエスは目を見開いた。


 闇のような漆黒の長髪は艷やかで柔らかく。

 肌は白磁のように透き通っている。

 体躯は長身で細身ではあるが、骨と皮だけという印象には程遠く。

 何より、その容貌は絵画のような美しさだった。


(アレが、“悪霊公爵”……?)


 確かに黒髪、白い肌、細身というのは間違っていないが、噂に聞く印象とはまるで違う。

 唯一、噂通りなのはその瞳だろうか。紅い瞳は確かに血のようにも見える色だ。


 想像とはまるで違う姿に、アニエスは言葉を失うほど驚く。

 そんな主人に後ろからシセルが(お嬢様)と囁いたのと――遠くから鋭い声が響いたのは同時だった。


「モンルージュ!!」


 その声に弾かれたようにノクスが振り返る。その向こうに仁王立ちしていたのは――銀髪の青年だ。


 その青年は立ち止まったモンルージュ公爵にツカツカと接近する。そして、突然、公爵の胸倉をつかんだ。


 アニエスとシセルは突然のことに息を呑む。そして、アニエスはその乱入者がフェレール侯爵嫡男ヴィクトル――ノクスの三番目の婚約者の兄であることに気づいた。


 ヴィクトルは声を荒げる。


「一体これはどういうことだ! 俺たちを騙したのか!!」


「――ええと」


 次に聞こえたのは柔らかい青年の声。困惑しているのがよく分かった。


「久しぶりだね、ヴィクトル。その、何のことを言っているのかな?」


「しらばっくれるな! 妹がお前との婚約を解消して半年――半年だぞ!! 

 お前は言ったな! 三月も経てば妹は元に戻ると!! なのに、まだ妹はおかしくなったまま――部屋に引きこもって誰とも会話をしない!! どう、責任を取ってくれる!?」


 フェレール侯爵令嬢マルグリット。いまだ社交界で彼女の姿は見かけない。

 色々な憶測が飛び交ってはいるが、……その最有力である『元に戻らない』という噂が事実なようだった。


 ノクスはしばらく沈黙していた。それから、どこか気落ちしたような口調で答える。


「マルグリットがそうなってしまったことは、申し訳なく思っている。……でも、全部織り込んだ上で君たちは僕との婚約を結んだ。マルグリットもね。

 最初から言っていただろう。どうなっても、僕は責任を取れないって」


 彼は手で顔を押さえる。


「だから反対したんだよ。でも、絶対に大丈夫だって言い張ったのは君たちじゃないか。――僕は、もうこれ以上被害者を出したくなかったのに」


 それは、後悔に満ちた呟きだった。


 “悪霊公爵”という異名と逸話には相応しくない。まるで、ごく普通の青年のような。


 アニエスがそんな感想を抱いたときだった。怒りで顔を赤らめたヴィクトルが左腕を振り上げる。


(――まずい)


 そう思ったアニエスはとっさに思いついた策を実行する。――すなわち、抱えていた本を前方に放り投げたのだ。


「あ、あれ〜〜!!」


 大根役者のように棒読みで叫ぶ。


 大量の本が落下する音。床に散乱する本。廊下の曲がり角から現れ、そのまま床に倒れる令嬢。


 男たちの視線が、突然の乱入者(アニエス)に向く。アニエスは上半身を起こし、大人しそうな令嬢を装う。


「も、申し訳ございません。ドレスの裾に足を引っかけてしまいまして――」


 ぽかんとした表情を浮かべるノクス。眉間にシワを寄せるヴィクトルは「ちっ」と舌打ちをする。

 それから、掴んでいた胸倉を乱暴に離し、早足でその場を立ち去る。


 残されたノクスは乱れた胸元を直すと、少し困ったような笑みをアニエスに向けてくる。それから、自然な動作で手を差し伸べてきた。


「大丈夫かい?」


「ありがとうございます」


 アニエスは努めて柔らかい笑みを作る。そして、その手を借りて、立ち上がる。


 空気を読んでか、シセルもいつの間にか姿を消している。この場にいるのは悪霊公爵と自分だけ。――親しくなるに絶好のチャンスだ。


 ノクスは床に落ちた本を拾い集める。アニエスもそれに倣おうとして、止められた。


「いいよ、僕が拾おう。君は転んだばかりだろう?」


(……あら。意外と紳士的)


 内心、そんな風に感心しながら、アニエスはノクスが本をすべて集めるのを待つ。

 それから、本を抱えてこちらに向き直った彼に、改めて礼をする。


「本当にありがとうございました。お手を煩わせてしまって、申し訳ございません。わたくし、ヴァレット伯爵家のアニエスと申します」


「……ヴァレット伯爵家」


 ノクスはまるで聞き馴染みがないという風に呟く。


 社交界の情報に詳しい人間なら『グランヴィル公爵嫡男の元婚約者』のことは誰でも知っている。


 伯爵令嬢でありながら、公爵嫡男(ジュール)の婚約者となったアニエスは元々目立つ存在だった。 その上で一月前に起きた大衆の面前での婚約破棄宣言。アニエスをよく思っていない者にとって――いや、そうじゃない者にとっても、いい醜聞だ。


(そういう意味でも、“悪霊公爵”が社交界に疎くて助かったわ)


「ご存じなくても当然ですわ。我が家は何の変哲もない、ごくごく普通の伯爵家ですから。……モンルージュ公爵」


 名乗っていない彼の名前をアニエスが口にしたことに、ノクスは驚いたように目を見開く。


「驚いた。……僕の顔を知ってる人は少ないと思ってたのに」


「以前、王城でお見かけしたことがありましたの。よく、王城の図書室に通っていたものですから」


「君は勉強家なんだね。こんなにたくさん本を抱えて――スゴイなあ」


(ふふん。見てみなさいよ、シセル! やっぱりうまくいったでしょう? 私の立てた計画は完璧なんだから!)


 ノクスの好意的な反応に、心の中でアニエスはふんぞり返る。そして、同時に悪霊公爵の素直な反応に、余計に噂との乖離を感じた。


 アニエスはヴィクトルが立ち去った方向に視線を向ける。


「……先ほどの方はフェレール侯爵家のヴィクトル様、ですよね? マルグリット様はまだお元気になられないのでしょうか?」


 その言葉に、ノクスの表情が強張る。アニエスは自身の失態を悟る。


(しまった。踏み込みすぎたわ)


 玉の輿を狙う相手の元婚約者。アニエスにとっても興味の対象だ。

 そのため、つい話題に出してしまったが、彼にとっては楽しい話ではないだろう。


 ノクスは硬い表情のまま、言う。


「本当に彼女には申し訳ないことをした。……僕と長く一緒にいると、不幸になるんだ。――君も、あまり僕に関わらないほうが良いよ」


 まだ、このときアニエスは彼と出会って数分も経っていない。特に好意を示したつもりもまだ、ない。

 それにも関わらず、ノクスは明確に線引きをした。――これ以上、関わるなと。


 それは先ほどまでの穏やかで紳士的な態度とはまるで違う拒絶的な反応。アニエスが何も言えずにいると、ノクスが微笑む。


「この本はどこへ持っていくつもりだったのかな?」


「ええと、その――読み終えたので図書室へ戻しに行くところでした」


「なら、僕が代わりに戻してこよう。また転んで、怪我をしてしまっては大変だからね……。お話できて楽しかったよ、アニエス嬢。――それじゃあ、失礼」


 そうして、彼は本を抱えて、その場を立ち去ろうとした。その背中が遠ざかっていくのを見つめ――アニエスは焦っていた。


(ま、まずいわ……っ!!)


 モンルージュ公爵との偶然的な出会いの演出。そして、第一印象として好印象を抱いてもらう。そこまでは成功した。


 しかし、継続的な関係を持てなければ意味がない。ここで別れてしまえば、次彼にいつ会えるか分からない。


(どう考えても“悪霊公爵”以上に優良物件はいないし、噂よりはずっと――いえ、噂とは全然違って、すごくまともそう)


 正直なところ、アニエスは結婚相手にそれほど期待をしていなかった。

 ただ、財力があれば、当人の性格や外見に問題があってもかまわない。だからこそ、“悪霊公爵”を次のターゲットに決めたのだ。


(多分、これ以上いい人は絶対に現れない)


 アニエスは感覚的にそう確信し――次の策に移ることにした。


「きゃあああああっ!!」


 わざとらしく悲鳴をあげ、アニエスはその場に倒れ込む。そのまま動かずにいると、思惑通り影が落ちる。


「ど、どうしたんだい……!?」


 それはアニエスを心配して駆け寄ってきたノクスだった。本を置き、こちらを覗き込む彼にアニエスは倒れたまま叫ぶ。


「と、突然胸が苦しくなって……っ!! このままでは死んでしまうかもしれません!!」


「そ、それは大変だ……っ。急いで、医者を呼んでこよう……!!」 


「い、いえ、そこまでではありません……っ! どこか、少し横になれるところで休めればきっと、良くなりますわ! 

 モンルージュ公爵、わたくしをどこか人気のない、休める場所に連れて行ってはくださいませんか……っ!?」


 アニエスの要求に、ノクスは困惑したように言う。


「しかし――死にそうなくらい、胸が苦しいんだろう……?」


(――うっ……!!)


 至極真っ当な指摘にアニエスは言葉を詰まらせる。どう言い訳しようか――ノクスの更に後ろから咳払いが聞こえたのはその時だった。


 ノクスが振り返り、アニエスも顔を上げる。そこには姿を消したはずのシセルが立っていた。


「モンルージュ公爵。使用人の身分でお言葉をかける無礼をお許しください」


 彼女は深々と頭を下げる。そして、淡々と説明する。


「アニエスお嬢様は時折、このように胸の苦痛を訴えることがございますが……すべて心因性のものでございます。

 お医者様には身体的には健康だと太鼓判もいただいております。お嬢様の言うように、少し横になれるところでゆっくりと過ごせれば回復いたします」


(ナ、ナイスよ!! ナイスだわ、シセル!!!)


 完璧な説明にアニエスは心からの賞賛を送る。アニエスの懐に余裕があれば特別賃金(ボーナス)を出したいくらいだ。


「このようなことを公爵にお願いするのは大変非礼であることは重々承知しておりますが――どうか、お嬢様を運ぶのを手伝っていただけませんか? 私ではお嬢様を運んで差し上げることが難しいのです」


 ノクスはじっと侍女を見つめる。それから、「そういうことだったんだね」と呟く。


「うん、もちろん僕でよければ手伝うよ」


 疑う素振りは一切なかった。こちらを振り返ったノクスが手を差し出しながら言う。


「――触れても?」


「はい」


 答えると、ノクスはアニエスの背中と膝の下に手を回し持ち上げる。――いわゆる、お姫様抱っこだ。


(――意外と力持ちね)


 線の細さからあまり筋肉はないと思ったが――。そんなことを考えてると、一歩足を踏み出したノクスの体がよろける。


 瞬間、アニエスとシセルの目が合う。――言葉がなくとも、彼女が何を言いたいか分かった。


(ほら。お嬢様が重いから)


(そんなわけないでしょ!! コイツが貧弱なのよ!!!)


 シセルと目線だけでそんなやり取りをし、ノクスには申し訳なさそうな表情を向ける。


「も、申し訳ありません。……重い、ですよね?」


(重いと言ったら殺す。重いと言ったら殺す。重いと言ったら殺す)


 胸の中の殺意は隠しつつ、相手の反応を窺う。ノクスが「そんなことないよ」と苦情を返してくれたことに内心安堵する。


「モンルージュ公爵。どうぞ、こちらへ――横になるのにちょうどいい部屋を知っております」


 先ほどまでノクスが持っていた本を抱えたシセルが、少し前を先導し始めた。


 そうして、シセルが案内してくれたのは謁見者用の控室だ。

 許可なく使うのは――とは思わなくもないが、ここにはモンルージュ公爵(謁見者)もいる。いくらでも誤魔化しが利くだろう。


 ノクスはアニエスをソファの上に下ろす。それから、心配そうにこちらを見つめる。


「気分はどうかな? まだ、胸は痛む?」


「……ありがとうございます。先ほどよりは少し良くなってきました」


「そう。でも、無理はしないほうがいい。さあ、横になって。――何か、毛布の代わりになるものはあるかな」


 しかし、控室にめぼしいものはない。ノクスは自身の外套を脱ぐと、横になったアニエスにかける。


「すまないが、これで我慢してもらえるだろうか?」


(ひゃ、百点満点の対応だわ……!!)


 アニエスは「ありがとうございます」とお礼を言い、ありがたく外套を毛布代わりにさせてもらう。


 そうしている間にシセルは素早くお茶の用意をする。それから、本を抱えて立ち上がった。


「モンルージュ公爵。私は本を図書室に返してきます。その間、お嬢様を見ていていただけませんか?」


「ああ、分かったよ。いってらっしゃい」


 一礼して、シセルは部屋を出ていく。扉の閉まる音を聞きながら、アニエスは思う。


(『二人きりになるチャンスを与えて差し上げたんですから、何とかしてください』……ってことよね)


 言われずとももちろん、せっかくのチャンスを最大限生かさせてもらうが――アニエスはチラリとノクスを見る。


 一人掛け用のソファに座ったノクスが、手元無沙汰からか、シセルの用意したお茶に手を伸ばす。それから、ふーふーと息を吹きかけてから、慎重にカップを傾ける。


 ――子供か。


 アニエスは気づかれないように、そっとため息を吐く。


(噂とは違う見た目に、“悪霊公爵”っぽくない性格。……家柄も良い。顔も良い。性格もいい。あの逸話さえなければ、きっとモテモテだったでしょうに)


 だからこそ、アニエスにとってこれ以上なくモンルージュ公爵というのは都合のいい人物だ。しかし、彼の人となりを知れば知るほど不憫に思ってしまった。


 少し考えてから、アニエスは体を起こす。ノクスが慌てたように言う。


「もう起きて平気なのかい?」


「はい。大分楽になりました」


 借りていた外套を返すと、彼は笑った。


「それは良かった。でも、あまり無理はしないほうがいい。そうだ、お茶でも飲むかい? ――と言っても、君の侍女が淹れてくれたものだけど」


「いただきます」


 アニエスも笑みを返し、ティーカップを受け取る。一口飲んでから、ノクスを見上げる。


「モンルージュ公爵はお優しい方ですね」


「え――!?」


 彼は目を見開き、驚いたように固まる。それから挙動不審な態度で反論する。


「そ、そんなことないと思うけどな。――突然、どうしたんだい?」


「その、……社交界ではモンルージュ公爵のよくない噂ばかり流れているものですから。もう少し、社交界に顔を出されてはいかがですか? 皆さんの誤解も解けるのではないでしょうか?」


 貴族社会でうまく生き抜くには敵を作らないこともその一つだろう。


 伯爵令嬢でありながらグランヴィル公爵嫡男の婚約者になり、多くの女性から反感を買ったアニエスが言うことではないが――少しでもマイナスな噂は打ち消したほうがいいのではないかと思う。


(本来の性格を知ってもらえば、少なくとも不気味に思う人は減りそう。……でも、モンルージュ公爵ほどの地位があれば、周囲の相伴なんて気にしなくてもいいのかしら? 

 関わり合いになったら呪い殺されるかもって恐怖が、変なちょっかいの抑止にもなりそうだし)


「ハッ――!」


 そんなことを考えていると、ノクスが笑った。


 どこか自嘲的な、暗い笑み。はじめて見る“悪霊公爵”らしい顔だ。


「それは、“悪霊公爵”の二つ名の話かな? 誤解も何もないだろう? 僕の両親が早逝したのも、三人の婚約者が不幸な目に遭ったのも、間違いなく僕が原因だよ」


 今度はアニエスは目を見開く。


「社交界に顔を出すなんて、とんでもない。不必要な犠牲を増やすだけさ。

 ――君も。何を考えてるのかは知らないけど、これ以上僕に興味を持たないほうがいい。他の人の二の舞になるよ」


 それは先ほど廊下で言われた以上の拒絶の言葉。


 アニエスはしばらく黙り込んで考える。それから、カップを置き、立ち上がった。


 ノクスの前に寄ると、彼は怪訝そうにこちらを見上げる。アニエスは彼を見下ろしたまま、その手を掴んだ。


「モンルージュ公爵――いえ、ノクス様。わたくし、あなたに一目惚れしました」


「…………………………………………え?」


 たっぷり十秒。彼が反応するにはそれほど時間がかかった。アニエスは畳みかける。


「世間の噂なんて、わたくし気にしません。あなたに関わり合いになったら不幸になるなんてのも。悪霊も呪いも信じておりませんもの。

 ――全部、全部、真っ赤な嘘。勘違いだって、わたくし証明してみせますわ」


 ニッコリと微笑む。


「だから、わたくしと結婚してくださいませんか?」



 ――こうして、玉の輿を狙うポンコツ策略家令嬢と、“悪霊公爵”との攻防戦が幕を開けたのだった。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました!


本作は単発の短編として執筆しましたが、読者の皆様からの反響があれば連載化を検討しています。

感想・レビュー・評価などいただけますと、大変励みになります。


どうぞよろしくお願いいたします!

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