わたし
批判的なものは頂けません
すみません
私のエッセイ的なものです
私は
一人娘で大人ばかりの環境で育った
幼い頃からADHDで
保育園ではお昼寝の時間に友達を起こして
小学校ではなぜみんな机があり椅子にしっかりと着席しているのか意味がわかりませんでした
学校が勉強する場所だと分かるまで授業中金魚と遊んでいました
母は何回か呼び出させていたような気がします
それで、病院に行って、箱庭など
体験しました
中学校は母が学校が辛かった早く卒業したかった話ばかりするので私も同じような気持ちになり女優になった気分で笑わないことを心がけていたら寂しい青春になっていたきがします
そして、中学時代にイカの入ったパスタを食べた時喉に詰まってその感覚が忘れられなくて怖くなって食べ物を飲み込めなかった時期がありました
その頃五キロくらいは一気にやせてしまい、現在も通院している精神科の先生に初めて会いました
高校は前期で合格してあまり受験という感覚は無かったです
なんとか高校では勉強について行きましたが
高校2年になり友人関係でなかなかうまくいかなくて、なぜかすべて嫌になり自転車で縁石にぶつかり救急車に運ばれてしまいました 忘れもできない17歳の誕生日に転びました
顔を擦って、あたまを打ち足を擦りむいて初めて救急車に乗りました
顔から小石を取る作業が一番痛かったです
それでも3日くらいで学校に行きました
それほど心配をしてくれるような友もいないのでまあ悲しくなりした
ついでに同級生には顔の包帯をとったらもっとすごいのかと思ったと言われたほどでした
当初はすごかったんですよ
若さで治して、いまはほとんど顔の傷は目立ちません
あとと言えば両手に傷が残りました
はじめはすごく気になったけど今はそれほど気にならなくなりました
大学は高校3年の時の担任の勧めで色んなところを受けましたが行きたいところには合格できなかったので地元の私立の大学にいきました
今でも高校の三年生のときの担任が一番まともな先生だったとよく母と話しています
大学は勉強を頑張り奨学金も少しもらえました
友達ができ海外フィールドワークにもいく事ができ
ました
が
大学3年のゼミにはいって少し経った6月くらいの頃すごく暑い日があり、車の運転をしていたらふらふらと目眩と動悸がしました
そこから何回か動悸が続くようになり病院に行きパニック障害と診断されました
ADHDとの2次障害でとても苦しいです
現在も精神科に月に一度は通っています
就活では34社くらい受けて2社内定までいきました
やっと入れた会社では
入社前のオリエンテーションの上司の部下への平手打ちを見て
怖くて忘れられなくて
2ヶ月ですぐやめてしまいました
それから2年くらいハローワークの資格を目指せる教室や就労支援センターに行き
やっと今の会社で
障害者雇用で働いております
それでも辛い日々です
だからといって諦めた訳ではなく
小さな小さな幸せを大事にして生きていくしかないのかと思ってます
辛い現実をやり過ごすために
母を救うために私は生まれてきたと思いました
これからは自分のために生きたいです
平和に穏やかな世界が続く事を祈ります
生き続けます
どうかよろしくお願いします
苦手でしたらブロックしても構いません
お読み頂きありがとうございます
生き続けましょう