六 血と涙の悲劇
逃げる。逃げる。逃げて逃げて、ただ一心に逃げていた。
ヴァレリアはやはり、どうしようもなく無力だった。何もできなかった。だから今、また逃げ続けている。
――憎き下将が、すぐそこにいたというのに。
中将邸を襲った下手人――それは帝国下将、イルマーレ王国を荒らし、プリアンナを連れ去ったあの男だったのだ。
下将が百の兵を引き連れて邸を狙った理由は一つ。
「皇帝様に、『ボクに反抗的な中将の口を塞いでくれないかなぁ』って言われたんだぜ、中将の旦那。恨むなら皇帝様を恨みなよ?」
今すぐにでも殺してやりたい、そうヴァレリアは思った。
だが百を超える敵に対し、こちらの手勢はあまりにも少なかった。だから、「ここは任せろ!」と言って不利な戦いに臨んだ中将を一人残し、ヴァレリアたちは逃げるしかなかったのだ。
「裏門へ行きましょう!」
そう言って皆を先導して走るのは金髪緑眼の美少女、オーロラ。
そして彼女にフルール夫人が続き、トビー、最後尾がヴァレリアである。
ヴァレリアはちらちらと背後を振り返りながら、やるせない怒りにはらわたを煮えくり返させていた。
あの男がいるのに、逃げるしかない自分が情けない。
「もしかしたら、いやきっとあの野郎がプリアンナの居場所を知っているに違いないのに……!」
そうヴァレリアが唇を噛み締めていると、前方のオーロラが声を上げた。
「阻まれました! 母様お願いします!」
見ると目前に、赤々と燃え盛る炎が揺らめいている。
ヴァレリアが目覚めてからすでに三十分近くは経っているはずだ。時間とともに火勢は増し続け、息が苦しくなってきていた。
それはともかく、オーロラに言われてフルール夫人は頷き、前に出る。
そして手にしていた金の扇を一振りした。
――直後、あたりに爽やかな風が吹き荒れ、あんなにも勢いのよかった火がすべて消え去っていた。
「母様、すごい……」
息子のトビーですら感心するその腕のすごさと言ったら、さすが中将夫人といったところか。
「これでいいですわ、先へ進みましょう」
それから何度も炎を薙ぎ払い、ヴァレリアたちは進み続ける。
そして一行は、ようやっと裏門へ到着した。
「やあ!」
業火に包まれる裏門をトビーの小斧が打ち砕く。
そして飛び出た先、ぐるりと周囲を見回して――ヴァレリアは唖然となった。
だってそこには、武装した、三百はくだらないであろう帝国兵団が待ち構えていたのだから。
前門の虎、後門の狼。そんな言葉が脳裏に浮かぶ。
ヴァレリアはあたりへ視線を走らせるが、どうやら抜け道はないようだ。背後には炎が迫っていて、後戻りもできそうになかった。
「どうしたら……」
思考を巡らせる。
こちらはたったの四人。なのに相手は三百以上。
勝てるはずがない。だが、他に何が――。
「仕方がありません。ここはわたくしとトビーに任せてください。隙を作りますから、皆さんは逃げて」
そう言って前に出たオーロラが、細腕にモーニングスターを構えた。
「オーロラ、だめだよ。たった一人でこんな数、無理だ」
トビーが泣きそうな顔で反論するが、オーロラはもう、決心を固めてしまっていた。
「いいえ。大丈夫です。後で必ず合流しますから――行きなさい」
そして襲いかかってくる兵士たちへ向けて、それを大きく旋回させた。
直後、血の花が咲き、あたりに兵士だった人間の肉片が飛び散った。
それでも負けじと剣を向けてくる敵に、少女は鈍器を叩きつける。
鈍い音とともに頭が割れ砕け、鮮血が舞う。一気に五人ほどの男どもが死に伏した。
「今のうちに、あたくしたちは逃げますわよ」
夫人にそう手を引かれ、ヴァレリアは赤いドレスを揺らして走り出す。その後に悔しげなトビーが続いた。
オーロラのおかげで、隙間なくひしめいていた兵士はこちらから意識を逸らしている。今なら楽勝に突破ができるはずだ。
一方オーロラは、敵兵と本格的な戦闘に入っていた。
鈍器を振り回し敵を砕きつつ、軽い身のこなしで攻撃を避ける。その姿は見事の一言で、すでに敵の半数ほどは潰していた。だが――。
彼女の背後に、無数の凶器が迫っていた。
殺気を感じて振り向くオーロラだが、遅い。
そのまま敵の槍や剣が少女の細身を貫通する――その直前だった。
「黙って逃げられるわけ、ないでしょうが!」
兵士たちの首が、赤い宝剣によって根こそぎはねられていたのである。
「ヴァレリアさん!」
やはり人魚はすごい、とオーロラは憧れるような気持ちでそう思ったのだった。
逃げながら、ヴァレリアはオーロラの姿を横目で見つめていた。
あんなに華奢な少女が、独りで敵に立ち向かっている。
その様子は気高く健気で美しい。しかし、ヴァレリアはわかっていた。――ジリ貧、なのだと。
逃げなくてはというのはわかっている。
ジリ貧とわかっていながらも、オーロラが挑んだのであろうことも知っている。
でも、背後に敵兵が迫り、今にもやられてしまいそうな少女を見て、ヴァレリアは思ったのだ。
今度は私が彼女を助けなきゃ、と。
その瞬間、ヴァレリアは夫人の手を振り解いて、今までとは別の方向――金髪の少女の方へと走り出していた。
人魚の尾は走るのに不向きで、地上にきてからというものずっと困らされっぱなしだ。でも今はそんなことは気にしない。駆けて、駆けて、駆けて、駆け続けて、
「黙って逃げられるわけ、ないでしょうが!」
叫び、紅色の宝剣で兵士たちの首を、一気にはね飛ばした。
「ヴァレリアさん!」
危機一髪助かったオーロラが、澄んだ緑瞳でこちらを見つめ、そう声をかけてくる。
彼女が無事でよかった。……でも敵は、ヴァレリアに安堵の息を吐くことすら許してはくれない。
性懲りなく突撃を繰り返す敵兵、その胸を宝剣で貫き、上半身と下半身を引き裂くヴァレリア。
けれども攻撃は止まらない。モーニングスターが無数の甲冑の男を割り、それでも追いつかず、隙ができる。
「ねえ君たち、僕のことも忘れないでよね?」
だがそのとり漏らしは、小斧を振り下ろすトビーがカバーしてくれた。
「トビー!」
「オーロラ!」
姉弟は呼び合い、そして声を揃える。
「さあ、踊りましょう。邸を燃やしてくださった無粋の輩を懲らしめるために」
「さあ、踊ろう。邸を燃やしてくれた野郎どもをやっつけるために」
そして、血の舞踏がはじまる。
跳躍を繰り返し、ヴァレリアは美しく身を翻す。次々と迫りくる敵兵の剣から華麗に逃れつつ、赤い宝剣を振りかざして相手の腹を刺した。
オーロラはにっこりと微笑むと、手にしていたモーニングスターを回転。それだけで周囲の兵士はなすすべなく弾き飛ばされ、骨を砕かれ地面に激突、落命する。
トビーは徹底して援助に回り、陰ながらこちらを狙ってくる敵を一人逃さず小斧で銅を真っ二つに。
気がつくと、生きて立っている帝国兵は、腕の立ちそうな五人だけになっていた。
「よくもやってくれたな、小娘ども。我が帝国軍の名において、貴様らを地獄へ葬っ」
上官らしい男が叫ぶ。が、言いきる前にその首から上がなくなっていた。
それを成した少女が、穏やかに微笑む。
「気持ちよく喋っているのは結構ですけれど、まわりが疎か。それでも栄えある帝国軍ですか?」
「この女っ!」
激昂し、大柄な男が長剣を手にオーロラの首をはねんと飛びかかる。
だがそんなことはヴァレリアが許さない。
「相手は私よ、兵士さん。……私の剣の練習に少しだけつき合ってね?」
長い赤髪を靡かせ、ヴァレリアは男の目前へと割りこむ。そして赤い宝剣を振るい、男の頭部を狙った。
カン、と甲高い音がし、宝剣を己の長剣で受け止める兵士の男。
「剣の練習だって? 笑わせてくれやがる。お前、剣の熟練者だろうに!」
「剣の熟練者? そんなわけないでしょう。私はそこら辺の強盗にすら勝てないわ。まあこれは、鍛冶場の馬鹿力っていうのと――」
言いながら、互いの剣がふたたびぶつかり合う。
「私がこの剣に愛されているってだけね」
そして瞬きの後、赤い人魚の尾っぽに強打された男の体が軽々と吹き飛んでいた。
「ありがとう。いい練習になったわ。……さようなら」
宝剣が深々と喉に突き立ち――男は、死んだ。
「ふぅ」
安心し息をついた、そのときだった。
「ああああああああああああああああああ」
ヴァレリアの耳に、フルール夫人の甲高い悲鳴が届いたのは。
忘れていた。酔いしれていた。ヴァレリアがもっとしっかりしていれば、どうにかなったかも知れないのに。
血が流れて、流れて、流れ続けている。
そしてあたりには悲痛な涙声だけが響いていた。
「母様っ、母様母様、かあ、さま。母様母様母様、ああ、母様!」
「母様、母様っ……! しっかりしてよ、母様ぁ!」
地面に座りこみ、縋りつくように涙を流すオーロラとトビー。
そしてその傍に、地面にぐったりと力なく倒れる、フルール夫人の姿があった。その灰色のドレスを着た腹部には、ポッカリと穴が空いてしまっている。
ヴァレリアたちが戦闘を繰り広げている間、傍でそれを見守っていたフルール夫人。しかし彼女は、兵の一人によって槍で腹を刺し貫かれてしまった。
その兵士はトビーが瞬殺したものの、夫人から流れ出す血は止まることを知らない。流れ、流れ、魂までもが流れ出してしまっているかのようにヴァレリアには思えた。
注意していれば、気をつけていれば、なんとかなったかも知れない。けれど、ヴァレリアはそれを怠ってしまった。だからまた失い、失う姿を目にしてしまうのだ。
「オーロ、ラ。ト、ビー」
夫人が、すれた息を漏らす。
「母様、喋っちゃ、だめ。だから……」
「い、えトビー。あ、たくしは、もう。だから、いいので、すわ。ごめ、ん。ごめん、ごめんね。許し、て。……二人とも、父様のこと、頼みました、わよ」
そう微笑んで――彼女、フルール・アンネ中将夫人は死んだ。
「母様ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
「母様ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
双子の絶叫が、炎の邸を揺らしたのだった。
「……オーロラ」
しばらくして泣き止んだ彼女へ、ヴァレリアはそう小さく呼びかける。
なんと言っていいのか、わからない。
慰める言葉がわからない。謝罪をするべきなのだろうか。はたまた、何も言わない方がいいのか。
何を言っても、彼女たちの心を削ってしまうような気がした。
「大丈夫です、ヴァレリアさん」
だが、オーロラは立ち上がり――迷いのない瞳で言った。
「わたくし、決めました。父様のところへ戻りましょう」
「オーロラ、でも中将さんは」
「わかっています。わたくしたちは、このまま逃げるべきなのだと。……でも母様は言いました。父様を頼むと。ならわたくしは、それに応えるまでです」
その決意が固いことが彼女の表情でわかったから、ヴァレリアはそれ以上反論しない。
「ヴァレリアさん、申しわけありませんがわたくしと正門の方へきてください。トビーは小屋の方を頼みます」
「わ、かった……」
たどたどしく返事をしたトビーもよろよろと立ち上がり、『小屋』とやらへ向かって歩き出す。
「行きますよ」
「ええ」
そして、少女二人は、依然として炎に包まれる邸の正面玄関へと向かうのだった。
その様子を、物言わぬ尸たちがただじっと見つめていた。
そのとき、もう事態はすべて収束してしまっていた。
赤黒い血の海に沈む無数の死体、死体、死体、死体。
そしてその中央に、その姿はあった。
「……父様?」
中将、チャールズ・アンネは身体中に傷を負い、口から大量に血を吐いて――息絶えていた。
その死に様は、百の兵に抗い、下将に痛めつけられた結果を表していて。
「あの、糞野郎!!」
どこまでも悪辣な下将の行いに、ヴァレリアは反吐が出そうだ。
ヴァレリアを受け入れ、困窮から救ってくれた恩人。その命までもを無残に奪って行ったなんて、許せない。
――絶対に、許さない。
それからオーロラは、宝石のような緑瞳を恐怖に震わせて、うわごとのように呟いた。
「嘘。嘘です。こんなこと、嘘、嘘、嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘っ。ありえない……、ありえません、父様まで……」
地面に崩れ落ち、すっかり力をなくしてしまったオーロラを見て、ヴァレリアはまたもやどうすることもできない。
そこへ、トビーがやってきた。
「……トビー」
「こっちは大変だったよ。小屋に火が燃え移っててさ。助け出せたのはチェルナだけだった。そっちも無事で……オーロラ?」
彼は姉の異常に気づき、そして、状況をやっと認識する。
「まさか……」
「遅かった、んです。何もかも、手遅れで。母様も父様も守れず……。わたくしは、一体何を」
結局、彼女は何も救うことができなかったのだ。
それは彼女に限った話ではない。それはこの邸にいながらまごつくしかなかったヴァレリアも同じこと。
しかし、オーロラは怯むことを知らなかった。
「――わたくし、決めました。あの男に復讐してやります」
立ち上がり、そう宣言する彼女を見て、ヴァレリアは驚愕するしかない。
「復讐って、あなた、本気なの?」
「ええ。本気も本気です。父様と母様の仇を討ちます、必ず」
その緑瞳に宿された覚悟は、もう決して揺るぐことがないのだと、誰が見てもわかる。
「お、オーロラ、落ち着いてよ。ちょ、ちょっと待って。僕、僕……」
「トビー。慌てふためいているのはわかります。でもわたくし、やられっぱなしは嫌なんです。……ヴァレリアさん、お願いがあります」
父の亡骸を前にして、少女は懇願した。
「わたくしを、旅の仲間に入れてくださいませんか?」
旅の同行。
その願いは、ヴァレリアの心を震わせた。
今の状況で何を、という気持ちもある。
その一方、オーロラの心情はよくわかった。……だからヴァレリアは、受け入れたいとも思う。
でも、だ。
ヴァレリアと一緒にいれば、危険が、惨事がつきまとう。考えたくはないが、中将邸の悲劇はもしかするとヴァレリアが訪れたからかも知れないのである。
だからこれ以上は彼女たちを傷つけたくない。この旅につき合わせては、ならない。
――そう、わかっていたのに。
「……わかったわ」
ヴァレリアは、オーロラの手を握ってしまっていた。
だって、彼女の固い決心を無碍にできるわけがないではないか。
「ありがとうございます。絶対、お力になりましょう。――トビーはどうしますか?」
投げかけられる問い。
金髪の少年は俯き、しばらく肩を震わせていた。
彼が何を考えているのかはわからない。きっと彼の中には、ぐるぐると色々な考えが渦巻いていたことだろう。
しかしトビーは、大きな覚悟を決めたようだった。
「ぼ、僕はオーロラについて行く。癪だけど、君の仲間になるよ」
「ありがとう」
炎の邸を背景に、三人の少年少女はそう言って互いに微笑み合う。
――こうして、ヴァレリア、オーロラ、トビーは旅の仲間となったのである。
それからしばらく後。
ヴァレリアたちは今、黒い雌豹にまたがって、薄明るい明け方の道を進んでいる。
ちなみにこの黒豹の名前はチェルナ。トビーがあのとき『小屋』からたった一頭だけ助け出してきたらしく、双子姉弟が幼い頃から可愛がっている雌豹だという。
この旅の足となってくれるということなので、ヴァレリアは大いに期待を寄せている。
「これからよろしくね、チェルナ」
可愛く尻尾を揺らすその様子が、大型動物でありながらなんとも愛くるしい。
一行が向かうはルデルークスの街。これから必要な物を買わなくてはならないのだ。
チェルナの背の上で揺られながら、ヴァレリアは誓う。
何があっても、あの憎き下将どもを、この仲間全員で裁きを下してやる。だから――。
「待ってなさいよ。目にもの見せてやるんだから!」
そう叫んで、赤い人魚は血の色の笑みを浮かべたのだった。