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五 炎の中将邸

 何か妙な感覚を得て、ヴァレリアは目覚めた。

 何だろうか。嫌な胸騒ぎがする。


「…………?」


 ベッドから身を起こし、見渡してみると、そこは昨夜眠ったままの中将邸の部屋。

 窓の外はまだ暗く、草木も眠る丑三つどきだった。


 しかし、明らかな違和感がある。――部屋の中が、異常に暑いのだ。


「……臭い。嗅いだことのない匂いだわ」


 それに加え、激しい異臭がしていた。


「オーロラたちは、どうしたのかしら」


 ベッドを立ち、紅色のドレスを揺らめかせて、必死にドアまで走る。

 そしてノブに手を触れ――ヴァレリアは思わず小さく悲鳴を上げた。


「熱っ」


 これまた、異常な熱を持っていたのだ。

 仕方がないので彼女は、夫人からもらったカバンの中に隠し持っていた宝剣を取り出し、分厚い木戸をきり裂いた。

 直後、破られた扉の向こう側を見て、ヴァレリアは戦慄するしかなかった。


 ――だって、中将邸二階の廊下一面に、真っ赤な炎が燃え上がっていたのだから。


「ひっ」


 逃げなくては、と思う。しかし体が竦み、固まってしまっていた。


 炎はどんどん火力を増し、燃え広がる。やがて倒された木戸を侵食し、ヴァレリアの足元まで――。


 直後、爽やかな風が吹き、目前に迫っていた赤い舌がすべて消え去るのを、ヴァレリアは見た。


「危機一髪でしたが、間に合ったようで何よりです」


 そして隣に、そう柔らかに微笑む金髪の少女の姿があった。


「……オーロラ?」


 無理解に声を上げるしかない人魚の少女の脳裏を、様々な疑問が駆け巡る。

 どうして炎が邸を覆っているのか。どうして目の前に彼女がいるのか。どうして先ほどまでなんともなかった横壁にぽっかりと穴が空いてしまっているのか、どうして炎がかき消されたのか。


 しかしヴァレリアはすぐにわかった。――オーロラは隣室から、あの鎖の鈍器を叩きつけて壁を破壊し、ヴァレリアを助けるためにここまで駆けつけてくれたのだ、と。


「……あり、がとう」


「どういたしまして。……ヴァレリアさん、なぜこの業火が邸を包んでいるのか、ご存じですか?」


 真剣な目でそう問われるが、そんなのことはわからないとヴァレリアは首を振った。


「……そうですか。今は急を要します、一刻も早くトビーや父様たちに合流しなくては。ヴァレリアさん、わたくしについてきてください」


「ええ」


 ヴァレリアとオーロラは壁の大穴をくぐり抜け、オーロラの自室へと駆けこむ。

 この部屋の扉もぶち壊されていて、業火が部屋中を舐めまわしていた。


「ある程度はモーニングスターで叩き消したのですが、どうにも間に合いません。先を急ぎましょう!」


 そう言うなりオーロラはふたたび壁を殴りつけ、元々入ってきたのとは反対の壁に大穴をこじ開ける。


「行きますよ!」


 彼女の後を追って穴へ入ったヴァレリアは、その光景を目にして一瞬唖然となる。

 ベッドに横たわるトビー。その四方八方を業火が包みこみ、彼の身を今にも焼き焦がさんとしていたのだ。

 逃げ場はなく、彼は絶体絶命だった。


「トビー!」


 慌ててオーロラが叫び、助け出そうと走り出すが、炎の海に阻まれてしまう。――モーニングスターを振り回したが、その鎖はぎりぎりのところで届かず、火力をわずかに弱めて地面に落ち、床を砕いただけだった。


「オーロラ、助けて。あ、熱い、ひっ。あ、あ、助け、あ、誰か!」


 そう、トビーが泣き叫んだそのときだった。

 なんと、ヴァレリアは炎の海へと一直線に走り出していたのだ。


「ヴァレリアさん!」


 オーロラの声など、もはや聞こえない。

 痛い。痛い。痛い痛い痛い。全身が炎の舌に舐められ、激しい熱が痛みとなってヴァレリアを襲う。

 でも彼女は走るのをやめない。痛みに耐え、熱に耐え、走り、走り、走る。

 ヴァレリアがなぜ、そんな無謀なことをしているか。その理由は、たった一つだ。


「――助けなくちゃ」


 トビーのことは、正直、ヴァレリアはあまり好きではない。

 ヴァレリアのことを恐れているし、嫌っている。ごくごく平凡な、ヴァレリアの嫌悪する人間の一人だ。

 でも、ヴァレリアはこうも思うのだ。

 助けてもらったのに見殺しにするなんてできない、と。

 昼間、トビーはヴァレリアのことを強盗立ちから救ってくれた。――ヴァレリアを人魚だと知らなかったとしても、その事実だけは変わらないから。


「――よし」


 火の海を抜けた先、ヴァレリアは少年の腕を掴んだ。

 そして、「えいっ」と思いきり、尻尾を壁に打ちつけて空中へ跳躍。トビーの小柄な体を抱えたまま、ヴァレリアはオーロラの頭上へと落下。それを金髪の少女は難なく受け止め、ヴァレリアは無事、トビーを救出したのである。


「すごかったです、ヴァレリアさん。火傷一つしないであの業火の中を戻ってくるなんて、やはり人魚は強く勇ましいのですね、感動しました!」


 ヴァレリアの活躍っぷりに興奮し、跳ねて喜ぶオーロラ。

 一方、ヴァレリアに抱えこまれたままのトビーは頬を赤くして、


「は、離してよ!」


 と叫んだ。

 腕の中でジタバタ暴れ出す彼だが、人魚姫の怪力によって抜け出せない。するとヴァレリアはにっこりと微笑んで、可愛らしく小首を傾げて見せた。


「いいけど……、何か言い忘れてること、ないかしら?」


「………………。わかったよ、ありがとう。助かったことは素直に認める。でも僕、君に心を許したわけじゃないからね。――ほら、早く離して!」


「はいはいわかりました」


 ようやっとヴァレリアから解放されたトビーは、今度は思いきり抱きついてくる姉に雁字搦めにされた。


「トビー、どこも怪我はありませんか? ああ、よかった、無事で。本当にヴァレリアさんがいてくださって助かりましたよ。ああ、よかったです」


「オーロラ、やめてよ。……もう」


 そんな微笑ましい姉弟を見つめていたヴァレリアは、背中に激しい熱を感じて、我に返る。


「そうだわ。中将さんと早く合流しなきゃ」


「そうでした。こうのんびりしている場合ではありませんね。急がないと」


 どうやらこの状況がまったくもって呑みこめていないらしいトビーへ、少女二人は簡単にわかる範囲で事情を話した。


「わかった。じゃあ早く父様たちのところへ行かなくちゃね。……でも、どうしよう?」


 気づけばあたり一面が、燃え盛る炎に囲まれていた。

 オーロラの部屋もそこら中に火が揺らめいているし、トビーの部屋なんて炎以外何も見えないくらいだ。

 ――つまり、逃げ道を塞がれていた。


「……大丈夫です。そう怖がることはありませんよ」


 だが、オーロラはあくまでも微笑んで、余裕を示した。


「トビー、ヴァレリアさん。少し下がっていてください。少しばかり手荒なことをしますので」


 そして直後――、彼女は鉄球を振り上げ、邸二階の床を、砕いた。

 もろもろと床板が崩れ、大穴が開いて一階が丸見えになる。

 ヴァレリアもトビーも、その光景に目を丸くするしかない。

 先ほど壁を砕いたのを見ただろうにどうして、と思うかも知れないが、壁と床では話が違う。

 壁は木板一枚のようなものだったが、床板は分厚く、頑丈だった。しかし細腕の少女が、それを何でもないことのように砕き落としたのだ。ヴァレリアにしてみれば驚愕の一言である。


「何を驚いていらっしゃるんですか、さあ、早く入りますよ」


「入るって……。地面まで、かなりの距離、あるわよ?」


 大穴から下を覗いてみると、一階床までの距離は約五メートル。落ちたら大怪我をすること間違いなしだった。


「大丈夫です。ほらっ」


 そう言ってオーロラはなんと、地面へ向かってまっすぐモーニングスターを垂らした。


「この鎖を掴んで一階まで降りればいいんですよ。……では最初にトビー、行ってみてください」


「えっ、僕が……?」


「当然ですよ。男の子は勇敢であれ。さあ!」


 双子の姉に激しく促されたトビーは、渋々といった様子で鎖伝いに地面へ降りはじめる。

「ひぃっ」とか「落ちる!」とか悲鳴を上げながらも、彼はなんとか地面へたどり着くことができた。


 次はヴァレリアの番だ。身が竦むが、「トビーがやったんだもの。私がやらなきゃ、イルマーレ王国次代女王の名が泣くわ!」と

を噛み締め、一思いに鎖に体を委ねた。

 超巨大な三つの鉄球を支えるにしては頼りのない細い鎖。それをゆっくり、ゆっくり慎重に降りていく。

 後もう少し、そのときだった。

 うっかり、鎖から手が離れてしまったのである。


「きゃああああ」


 どんどん落ちる、落ちて、落ちて……。


「格好つけておいて、情けない人魚だね」


 そうため息を漏らす金髪の少年に、受け止められていた。


「……トビー」


「勘違いしないでよ。僕はオーロラならこうするだろうと思っただけで、君を助けようとしてやったわけじゃない」


 その言葉だけで彼の隠しきれない人のよさは丸見えなのだが、ヴァレリアはあえて指摘せず、素直に感謝することとした。


「……わかってるわ。でもありがとう」


「別に、感謝される謂れはないよ」


 そうこうしているうちに、深緑色のドレsを揺らしてオーロラも軽やかに降りて――なんと鎖を使わずに、五メートルの距離を難なく飛び降りてきた。


「ヴァレリアさん、どうやらお怪我はないようですね。ああ、安心しましたよ」


「え、何この状況。もしかしてオーロラって不死身だったりするの?」


「そんなわけはありません。わたくしだって人間ですから死にますけど、これくらいの距離、なんともないですよ?」


 驚くヴァレリアに、当然のように笑う金髪の少女。

 彼女はあたり前のように言うが、明らかに常人の域にない。


「昔からオーロラはすごいんだよ。……僕もオーロラみたいになれたらいいのに」


 最後の言葉は、彼自身以外の誰にも聞こえなかった。


「さあ行くわよ!」


 ヴァレリアは気を取り直し、前を向いて走り出す。

 この炎の惨状から恩人たちを救い出すため、ただひたすらに。





 ――一階もかなり炎が回り、足の踏み場もないとはこのことだった。

 せっかくもらったばかりの赤いドレスや金色のバッグが焼け焦げてしまわないよう注意して、走り、走り、走り続ける。


「父様!」

「母様!」


 ヴァレリアのすぐ隣を走る双子姉弟は、必死で両親を呼んでいた。

 しかし返事はない。……一体どこにいるのだろうか。


「中将さん! どこにいるの!」


 ヴァレリアも叫びながら、思考を巡らせてみる。

 この火の海の惨状。これはきっと、自然発火とかいうものではないと思われる。

 ずっと海の王国で暮らしていたので炎とは無縁だったヴァレリアだが、書物などから多少の知識はある。

 それによれば、これはただの炎ではない。……油の匂いがするのだ。

 火に油を注ぐとよく燃える習性があるらしい。つまり邸を焼いているこの業火は人の手によるもの――。


「放火犯がいるに違いないわ!」


 走る。応接間に飛びこんだ。

 しかしそこには誰もいず、これでもかというくらいに焦げ臭い匂いが漂っているだけだ。


 踵を返し、次は食堂へ。

 立派だった扉は焼けただれ、触れるだけでもろもろと崩れてしまった。

 中を覗く。やはりもぬけの殻だ。


「ここにもいない……。そうだ、二階へ行ってみようよ!」


 食堂から出てすぐ、トビーが二階への階段を指差したその瞬間だった。

 ヴァレリアたちの耳に、聞き覚えのある声が届いたのは。


「オーロラ、トビー、無事でしたのね!」


「母様! それに父様も!」


 なんと、中将夫妻が二階から降りてきたのである。

 中将チャールズ・アンネは腰に長刀を差し、夫人は大きな扇を手にしている。


 合流できた母娘は抱き合い、再会を喜び合った。


「貴殿も無事で何よりだな」

「ええ、もちろんよ。中将さんの方こそ生きていて安心したわ」


 互いの無事を確認し合い、一安心。――と、ヴァレリアは一つ違和感を覚えた。


「あら? メイドさんは?」


「……誠に申し上げにくいのですが、ときすでに遅しでしたわ」


 夫人の言葉に、ヴァレリアはなんと反応していいかわからない。

 あの昨夜の絶品料理を作ってくれた彼女は、炎の中で苦しみながら死んだのだろう。そう思うと、なんとも哀れでならなかった。


「……可哀想に」


 俯くトビーの表情は暗い。

 それはそうだ、一緒に暮らしていた家族のような人が死んだと知らされれば辛いのも悲しいのも当然。その気持ちは、ヴァレリアには痛いほどよくわかった。


「だが、今は悔やんでいる時間がない。とにかく逃げるのが先だ」

「そうですね。とりあえず玄関へ急ぎましょう」


 だが、中将とオーロラはあくまで平静だった。

 今もヴァレリアたちに炎の魔手は迫っている。一刻の猶予もないのは事実だ。


 色々な気持ちを振りきって頷き、ヴァレリアたちは玄関ホールへと全力で駆け出す。

 炎のアーチをくぐる。倒れたドアを飛び越し、道を塞いでいた業火を協力して薙ぎ払って、やっとの思いで玄関ホールへの扉までたどり着いた。


「……開けるぞ」


 先導する中将が、ノブに手をかけ、ドアを開く。

 そしてその先の光景を見て、一同は全員息を呑んだ。


 玄関ホールに、びっしりと並んだ甲冑姿の男たち――その数百以上。

 そして開け放たれた玄関ドアの奥、気色の悪い笑みを浮かべる男が、いた。


「お、やっと出てきたかよ、中将の旦那。ずいぶん遅いから、おれがジジイになっちまうかと思ったぜ」

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