四 夕食にて
「夕食ができました。皆様、どうぞ食堂へ」
黒ワンピースに白のエプロン姿の女――教えてもらったところによると、『メイド』と呼ばれる、召使であるらしい――に呼ばれ、ヴァレリア、中将、オーロラとトビーの三人は、邸一階の廊下に出た。
ちなみに中将は少し前、すでに応接間を離れている。
「いいのかしら。夕食なんて食べさせてもらう上に、傷の手あてまでしてもらって」
中将との面談を済ませた後、ヴァレリアは軽くオーロラに傷の治療をしてもらっていた。
先ほどの非礼を思うと、あまりに申しわけないのだが。
「いいんですよ、それくらい。当然のことですから。夕食もどうぞご遠慮なく。自慢ではないのですがこの邸の料理は美味しいんですから。ねえ、トビー?」
「……うん。勝手に食べて出て行ったらいいんじゃないかな、と僕は思うよ」
どこまでも寛容なオーロラに対して、トビーの敵意に近い言葉の鋭さは消えないままだ。姉弟でこんなにも違うものだろうかと、ヴァレリアは驚いてしまう。
そんなこんな言っているうちに、三人は金銀に彩られた立派な扉の前にたどり着いた。
そして、その両開きの扉を開き――ヴァレリアの菫色の瞳が、大きく見開かれる。
そこは、とても鮮やかだった。
優美に部屋を照らすシャンデリア、薄緑色の落ち着いた色調の絨毯。中央のテーブルや椅子はどれも金色に輝いている。
「綺麗だわ」
王城顔負けのその美しさに感嘆の声を漏らすヴァレリアの手を、先を行くオーロラが引いた。
「さあ早く行きましょう。せっかくの夕食が冷めてしまいますよ」
「ええ。わかったわ」
――食堂には、すべての顔ぶれが集っていた。
中将、その娘オーロラ、息子のトビー。
客人であるヴァレリアに、メイドまでも並円卓を囲んでいる。
どうやら邸にメイドは彼女だけらしく、たった一人でこの広い豪邸を掃除できるのかとヴァレリアは驚きつつ感心した。
それはともかくとして、最後の一人は――。
「はじめまして。あなたがお客様の人魚姫さんですのね。……あたくしはフルール・アンネと申しますの」
金髪を肩のあたりまで伸ばし、灰色のドレスを着こんだ麗人が、そこにいた。
フルール・アンネと名乗った彼女は、どうやらオーロラたちの母親であるらしい。
娘に似て、否、娘が似ているのだろうが、引き締まった容姿から顔まで、どこを見ても美しかった。
「さて。これで全員が揃ったことだし、夕食としよう」
フルール夫人に見惚れていたヴァレリアだったが、中将の声で我に返る。
「そうね。じゃあ、いただきます」
高価な円卓に並べられているのは、見たこともない深緑色のスープと、柔らかな乳白色の物。
「このスープは緑菜で作ったカレー、こちらはパンでございます」
と、メイドの女性が説明してくれた。
「本当にこんなのが美味しいのかしら」
人魚は主に貝やプランクトン、海老などを食べて生きている。だから、こんな食事が美味いのかと疑ったのだが――。
口に運んだ瞬間、その疑念は軽く吹き飛んだ。
「美味しいっ!」
こんなの、食べたことがない。
ほどほどの塩加減、舌触りのいい緑カレー。パンもふわふわで、絶品という他、なかった。
「地上にはこんな料理があるのね! 美味しいっ、美味しいわっ!」
「そうでしょう。喜んで頂けて光栄ですわ。さあ、どんどん食べてくださいまし」
大喜びするヴァレリアに、フルール夫人はなんだか嬉しそうだ。
あまりに美味しくて食べる手が止まらない。
緑菜のカレーを三回ほどおかわりし、パンもありったけ頬張った。
「よく食べるんですね、人魚って」
「よく食べるんだね、人魚って」
姉弟に同時にそう言われ、ヴァレリアは大きく頷く。
「まあね。人魚は人間よりずっと筋肉質だもの」
「じゃあきっと、力が強いんでしょうね。憧れます」
「じゃあきっと、怪力なんだろうね。ゾッとするよ」
姉弟にそれぞれ、真逆の反応を返されるヴァレリア。
と、彼女は、とあることが気になり、首を傾げた。
「先ほどもそうだけど、どうして声を揃えるの?」
「あら。そうでした、わたくしとしたことが、申し遅れましたね。わたくしとトビーは双子なんです。だからよく気持ちが揃うんですよ」
頭上の蝶々の飾りを揺すってそう笑うオーロラの言葉に、ヴァレリアは納得を得た。
トビーが姉のことを「オーロラ」と名で呼ぶのには少し違和感を感じていたのだ。だが、双子の姉弟なら納得がいく。
それ以外にも、言われてみれば顔立ちなどの部分が似過ぎていた。
「きっと、とても仲がいいんでしょうね」
「……そんなの、君には関係ないだろ」
トビーの塩対応を受け流し食べ続けていると、突然、中将から声がかかった。
「……貴殿は旅をしていると言っていたな。では、私にも何か力になれることがあるのではないか?」
そう言われ、ヴァレリアは一瞬固まる。
内心を見透かされていたような気がしたからだ。
「ええ、まあ。……でも、申しわけなさ過ぎるわ。助けてもらったこと、先ほどの無礼。お礼をしなくちゃいけないのは私の方なのに、何かを頼めだなんて言われても」
「いいんですよ、お気を遣わずに。……わたくしたちとて、現状を好ましいと思っているわけではありませんから、むしろ、お手伝いをしたいくらいなのです」
断ろうとした彼女は、だが、オーロラの宝石の如き緑瞳に射止められた。
「どういうこと?」
「つまりですね、元上将が皇帝気取りでいる今、この帝国は乱れているのですよ。彼がそのまま皇帝をやっていたら、きっとこの国は滅んでしまうでしょう。ですから父様は、皇帝を討とうと企むあなたに助力したいというわけです。……それに、わたくしはあなたを放っておけません。見たところ、あなたは無一文のようですから」
痛いところを突かれた。おっとりしているように見えてさすが中将の娘、観察眼が鋭い。
――どうしたものかしら。
ヴァレリアは少々のためらいの後、こうなれば仕方ないと、彼らの好意に甘えることに決めた。
「わかったわ。じゃあ……」
「ふざけないでよ!」
そこへ割りこんだ怒声に、食卓を囲んでいた全員が驚いて彼の方を見やる。
そこには、顔を赤く染めて激情を露わにする、金髪の美少年の姿があった。
「黙って聞いてれば、ちょっと待ってよ! ねえみんな、どうして変に思わないの!? おかしいよ! だってこいつ、人魚なんだよ! 人魚は禁忌の存在! 化け物! そう言い伝えられてるじゃないか。なのに、そんな奴のでたらめな話を信じこんで協力しようだなんてどうかしてる! 父様もオーロラもどうかしてるよ! そう思うでしょ、母様!」
息子に同意を求められた母親――フルール夫人。
しかし彼女は、「いいえ。あたくしも別にいいと思いますわよ?」と言って笑った。
「だって、『人魚伝説』なんて大昔の話ですもの。それだけで決めつけるなんて、よくありませんわ。だってこの方、一見したところ高貴な眼差しをしていらっしゃいますわ」
「でもこいつ、さっき、父様のことを!」
「聞きましたわ。でもそれは、仕方のないことだったと、あたくしは思って許していますの。……トビー、あたくしは、あなたを人を差別するような子に育てた覚えはありませんわよ?」
「ぬぐぅ……。で、でも……」
うつむき、呻き声を上げるトビー。
一方のヴァレリアは、彼らの会話についていけない。
「ちょ、ちょっと待って。『人魚伝説』って何のことなの? それが、人間が人魚を嫌う理由?」
「そうだ」彼女の問いに答えたのは中将のチャールズ・アンネだ。
「我が国には、古きより伝わる一つの伝説がある。……それは太古の昔の話。かつての皇帝の娘が魚と禁忌の恋をして、魚と交わり、子を孕んだことよりはじまる。その娘はなんと、上半身が人間、下半身が魚という『人魚』を産んだ。その『人魚』たちは地上で暮らそうとしたが、軽蔑され帝国を追い出され、人間の母と離れて海へ逃げこんだ。しかし地上を、母を諦めきれなかった人魚たちは数年後、帝国へ反乱を起こした。……これが激化し、結局は帝国が勝利したものの、帝国に甚大な被害を及ぼして海へと帰って行った人魚は『化け物』と呼ばれるようになり、数百年のときが経った今も恐れられているのだ」
「……まあ、そんな話が」
知らなかった。
かつての戦争の話は知っていたが、まさか人魚が、人間の娘と魚が恋に落ちた故に産まれた種族だなんて、思ってもみなかったのである。
もしその話が本当であれば、人魚も元を正せば人間ということになる。そう思うと、ヴァレリアは複雑な気持ちになった。
しかしそんな彼女の心情などかまわずに、金髪の少女はうっとりとした声音で言った。
「でも、わたくしは人魚を恐れてなどいませんよ。むしろ、たった数人で多数の帝国軍を圧倒したというその強さに憧れていたんです。その子孫の方が目の前にいるなんて……わたくしはなんと、幸せ者なのでしょうか」
オーロラの、得体の知れないヴァレリアへの憧れの気持ちはわかったが、赤い人魚姫は情けないと思いつつも首を横に振るしかない。
「残念だけれど、私にそんな力はないわ。見たでしょう、街で男どもに襲われている、私の無力な姿を。……人魚は弱い。弱いのよ」
数日前、イルマーレ王国で思い知らされた事実。
人魚は人間と比べ儚く、どこまでも弱い。大昔の人魚がどうであったとしても、ヴァレリアに特別な力はないのだ。
「でも私は諦めない。プリアンナを絶対に助け出して、皇帝の野郎をギタギタにしてやるのよ」
場の空気が一瞬静止するのを、ヴァレリアは感じた。
中将は瞑目し、夫人はこちらをじっと見つめている。メイドはあまり関心がないのか食器を片づけはじめ、トビーは悔しさに激しく歯軋りし、オーロラは微笑みをヴァレリアへと向けていた。
「先ほどの話に戻るわ。……お言葉に甘えて、言うわね。私、お金が必要なの。人魚の国の通貨ならあるんだけど、どうやら地上では使えないらしくて。このままじゃ食糧も何もかも買えないわ。だから、私の貝殻と帝国の通貨を交換して欲しいのよ」
貝殻をブラジャーの中から取り出して、懇願する。
もし断られたら……と思うと怖い。だが、そんなことにはならなかった。
「――いいだろう」
想定はしていたものの、あっさり承認され過ぎたのでヴァレリアは拍子抜けだ。
「本当にいいの、中将さん?」
「私に二言はない。その貝殻に価値を見た。貝殻十五枚と、金貨百枚で換金するとしよう。いいな?」
聞くところによると、金貨百枚は百万ロン(ロンとは帝国の通貨単位である)に相当し、かなり高額だという。
「もちろんよ! ありがとう、中将さん!」
それだけでも充分だというのに、オーロラとフルール夫人までこんなことを言い出した。
「それに、地上で生きていくにはお洋服も必要でしょう? わたくしの物でよければ、ドレスを差し上げます。きっとあなたに似合うこと間違いなしですよ」
「ならあたくしは、荷物を入れるバッグなどをあげますわ。袋がなくては、この先旅をなさるのに不便ですもの」
もうこの際だ。ヴァレリアは彼らの好意に甘えるだけ甘えて、全部を頂くことにした。
「オーロラは、優し過ぎるよ……」
そんな声が聞こえた気がしたそのとき、いつの間にかいなくなっていたメイドが姿を現した。
「皆様、デザートでございます。どうぞごゆっくり、お召し上がりください」
デザートはケーキと呼ばれる地上のスイーツで、それはそれは絶品だった。
ケーキの甘味を味わうだけ味わい尽くしたヴァレリアに、中将チャールズ・アンネ氏がこう提案してくれた。
「今夜は遅い。この邸で泊まっていくといいだろう」
そういえば、宿のことなんてちっとも考えていなかった。
もし彼が言い出してくれなかったら、ヴァレリアは邸を出て、どこで寝泊まりしようかと途方に暮れるところだ。
彼女は喜んで、アンネ家で一泊させてもらうことにした。
「すでに貴殿の部屋は決めてある。オーロラ、案内してあげなさい」
「はい、父様」
アンネ夫妻とトビー、メイドに「おやすみなさい」と言って、ヴァレリアはオーロラに続いて二階へ。
これまた立派な廊下を、優美な紅色の尾を弛ませながら歩いていると、先導するオーロラがこちらを振り返った。
「そういえば、ドレスのお約束がまだでしたね」
「――あ」
そういえば、すでに中将からは金貨を、夫人からは銅色に輝くバッグをもらっていたというのに、ドレスだけを忘れていたことを、ヴァレリアは思い出した。
「ここがわたくしの部屋です。どうぞ中へ」
緑色のドレスを揺らして笑う少女の後を追い、彼女の自室へ足を踏み入れた途端、ヴァレリアは息を呑んだ。
――そこは、なんというか、一見しては少女の部屋とは思えない感じに仕上がっていたのだ。
壁に吊るされたモーニングスター、いかつい鎧や兜、壁にかかった昔の偉人らしき人物の肖像画。
唯一少女らしさを出しているのは、机に並べられた蝶の髪飾りの数々くらいだろうか。
「こちらです」
オーロラはそう言って、自室の奥、ひときわ大きな箪笥を開けた。
そして中に詰められていた物を見て、ヴァレリアは驚きに声を上げる。
「綺麗。これ全部、あなたのなの?」
――箪笥の中に詰められていたそれは、色とりどりのドレスだった。
「ええ、そうですよ。でもわたくし、緑が好きなんです。ですから、他の色は特別なときにしか着ませんけれど。……ああ、これなんかどうですか?」
オーロラが箪笥から引っ張り出したのは、艶やかな真紅のドレスであった。
長丈で、袖はない。装飾はなく無地だったが、その美しさと言ったら。
「素敵。ちょっと着させてちょうだい」
「もちろんです」
頭からドレスを被り、着てみる。
そして差し出された鏡に映った自分の姿を見て――菫色の瞳を大きく見開いた。
自分はこんなにも美しいのか、と。
今まで自分の美貌にある程度の自覚はあるつもりだった。周りからよく「麗しい」と言われたし、プリアンナからも「お姉様、とてもお美しいわ」と毎日のように称賛されていた。
しかしここまでとは、思っていなかった。
整い過ぎた目鼻立ちに、燃え上がる炎のような長い赤髪。豊かな胸、色白の肌、すらりとした体型。残念ながら下半身は洋服にすっぽり隠されてしまっているが、真っ赤なドレスがヴァレリアの美貌をひときわ引き立てていた。
「イルマーレには鏡なんてなかったから知らなかったけど……私って、文句なしの美人じゃない?」
「あらあら。ご自分でそんなことを言ってしまうんですか? 容姿では、わたくしも負けないつもりですけれど」
「そうね。……ありがとうオーロラ。これで私、もう二度と「人魚だ!」って怖がられないわ」
「どういたしまして」
ヴァレリアは心からオーロラに感謝し、二人の美少女は微笑み合ったのだった。
「ここが、ヴァレリアさんのお部屋です」
オーロラの部屋を出てすぐ隣の部屋。
彼女が指差した豪華な扉の中が、ヴァレリアに充てがわれた寝室だ。
扉を開いてちらりと中を覗くと、部屋は綺麗に整っていて居心地がよさそうである。
「わたくしはそろそろ眠るとしますね。……おやすみなさい、また明日」
ふわあ、と可愛く欠伸をしながら、金髪の少女が手を振ってきた。
「今日は本当に、色々と助かったわ。オーロラ、おやすみ」
オーロラと別れて扉を閉めるとすぐさま、ヴァレリアはベッドにダイブする。
柔らかなベッドの上で思い返すのは、今日一日のことだ。
上陸早々、本当に様々なことがあった。
街へ行ったが金に困り、物騒な集団に襲われ、そこをオーロラとトビーの姉弟に救われた。
それから中将邸に招かれ、中将や夫人、オーロラにも色々とよくしてもらって。
――はじめて、こう思ったのだ。
「人間も、悪い奴らだけじゃないのね」
はらわたが煮え繰り返るほど、醜悪で憎い人間がいる。
でもヴァレリアは、人間とはそれだけの生き物じゃないのだと、この邸で学んだ。
だって、元々人魚は人間から生まれた、 親類みたいなものなのだから。
でも、悪人は必ず懲らしめる。そして絶対にプリアンナと再会を果たすのだ。
――さて、明日は一体どんな一日になるのだろうか。
早朝には邸をお暇する予定だ。そしてふたたびルデルークスにでも行って、改めて地図や食料品を買うべきだろう。
そして旅の足も必要だろう。地上では海のようにスイスイ泳いでは進めないからだ。地上にはどんな生き物がいるのだろう……。
そんなとりとめもない考えをしつつ、最後に、
「……明日はいい日になりますように」
と願って、ヴァレリアは深い眠りに落ちた。
――しかしそんな彼女の祈りは、届かなかったのだった。