三 中将との面談
「これが、お邸なの……?」
――あの海辺の街ルデルークスから歩いて三十分足らず。
目の前にそびえる巨大な建物を見て、ヴァレリアが思わず漏らした言葉がそれだった。
あの海辺の街ルデルークスから歩いて三十分足らずでたどり着いた金色に輝く屋根、銀色の壁面。それはイルマーレ王城に負けず劣らず――いや、それ以上の立派さだったのだ。
「すごいでしょう? さあさあ、どうぞ中へ入ってください」
オーロラたちに導かれて、ヴァレリアは中へと足を踏み入れる。
そして、またまた彼女は息を呑んだ。
銀に輝く内壁はもちろん、玄関ホールの左右の棚に並べられた彫刻の数々と言ったら。
「……人間の世界って、こんなに素晴らしい物もあるのね」
侮っていたと、ヴァレリアは少しばかり反省する。
こういった芸術的作品、帰ったら王国にも取り入れたいものだ。
そんなことを考えているとき、突然、ドアが開いて何者かが現れた。
それは女だった。黒のワンピースに白いエプロンドレスを着こんだ彼女は恭しくお辞儀をすると、
「オーロラ様、トビー様、おかえりなさいませ。……? あのう、そちらの方は――人魚!?」
と言って、驚愕に目を見開いた。
「この方ですか? この方は、ルデルークスの街の裏路地で強盗たちに襲われていたところを、わたくしたちが通りかかったので助けた次第ですよ」
「なんだか、海の国の王女様だとか言ってさ。オーロラが話をしたいからって、無理やりに連れてきたんだよ。……早く父様を呼んできて」
柔らかく笑む姉に対し、鋭くヴァレリアの方を睨みつけるトビーが、女にそう命令する。
女はまだ驚きを残しつつも、「はい」と頭を垂れ、そそくさとドアの中へ走り戻って行った。
そしてその様子を見届けるとオーロラは腰に手をあてて、「トビー」と緑瞳で弟を見据えて――突然、叱りつけた。
「そんなにあからさまに威圧的な態度はいけませんよ。そんなのをどこでしろと、あなたは習ったんですか? この方に失礼ではありませんか」
叱りつけると言っても、あくまで声音は静かだ。しかしそこにこめられた鋭さはまるで刃のようであった。
「だって、僕は……」
「言いわけ無用ですよ。次から気をつけるように」
「…………」
場に、少しばかり気まずい沈黙が落ちる。
やはり私は邪魔者だったのかしら、と思い、ヴァレリアはなんだか申しわけなくなる。人魚が人間を嫌うように、人間が人魚を嫌うのも道理というもので、それを責められる筋合いはない。――悪いのはきっと、勝手に地上へやってきてしまったヴァレリアの方なのだから。
「ごめんなさい、私……」
お暇するわ、と言おうとしたその瞬間だった。
ふたたび扉が開いて、立派な礼服を身に纏った、たくましい体つきの、金髪の中年男性が姿を現したのは。
「よくぞ戻ったな、オーロラとトビー。……そちらの方がお客様だな?」
「はい父様。ルデルークスの街でわたくしたちは散歩をしていたのですが、路地裏で物騒な輩に囲まれていたこの方を見かけ、助けてここへ連れて参りました次第です」
「それでオーロラが招きたいんだってさ。僕もね、普通ならいいと思うよ。でも……」
言葉に詰まる金髪の少年の跡を引き継ぐヴァレリア。
「私は人魚なの。あなたたちに迷惑はかけたくないわ」赤い鱗で覆われた下半身を見せつけた。「だから」
絶対に拒絶されるだろう。
でも、それでいいのだ。
この邸へ客人として招かれ、もてなされ、うまくいけば金までもらおうと目論んでいる気持ちはあった。でも彼らにはすでに一度助けられている身だ。高望みはするべきでない。
金はなんとかしよう。お腹は減ったが、これ以上彼らに頼るわけには――。
「いいだろう。面白そうだ、貴殿を客人として認めよう」
だがしかし、ヴァレリアの覚悟は何の意味もなさなかった。
邸の主と思われる彼が、すぐに承認してしまったからである。
「え、でも」
「なに。遠慮することはない。貴殿がもし誠に人魚なのであれば、私は興味がある。なので招こう。理由はそれ以上でも、それ以下でもない。……さあ、中へ。早速準備させるとしよう」
そのとき、ヴァレリアははじめて思った。
人間も捨てた物じゃないわ、と。
――応接間にて。
ヴァレリアたちは今、柔らかなソファに腰かけている。ふかふかで心地いいが、ヴァレリアは下半身が魚であるためなんとも座りづらい。
「私はチャールズ・アンネ。オーロラとトビーの父親であり、この邸の主にして、帝国の『中将』だ」
純金の机を挟んだ向かい側、中年の男性がそう名乗り上げた。
そしてその名を聞いたヴァレリアは、強い驚きと恐怖に身をすくませるしかない。
だってそうだろう。イルマーレ王国を滅茶苦茶にした首謀者と同じ将軍だと知らされれば当然だった。
同時にヴァレリアの中で、先ほど覚えた友好的な感情がすべて吹き飛び、激しい怒りの炎が燃え上がった。
「あなた、将軍なのね! じゃあプリアンナの居場所を知っているんでしょう。……答えなさいよ!」
急に怒鳴り出した彼女を見て、周囲はたじたじとなる。
「しらをきってもわかってるんだからね! 早く、今すぐにプリアンナを返しなさい!」
ブラジャーの中に隠していた宝剣を引き抜き、中将の首に――。
「そこまでにしてくださらないと、困りますよ?」
そのとき、紅色の宝剣が鉄球――モーニングスターによって絡め取られていることに、ヴァレリアは気づいた。
「驚きましたか? いざというときのために、いつでも隠し持っているんですよ。……わたくしたちは、あなたがどうしてそんなにも怒っていらっしゃるのかが理解できません。どうぞおかけになって、事情をお話しくださいませんか?」
柔和でありながら、直後に人を殺しても何の不思議もない少女の微笑が、ヴァレリアに向けられる。
――これ以上は危険だわ。
ヴァレリアの本能が自身の怒りを抑制し、彼女はふたたびソファに座りこんだ。
「私はヴァレリア・イルマーレ。深海の王国イルマーレの第一王女よ。……突然に怒ったりしてごめんなさい。でもこれには深いわけがあるのよ」
いいのだろうか、と一瞬迷った。
人魚の王国のことを、敵かもしれない目の前の中将に明かすこと――これが正しいのかどうか、ヴァレリアにはわからない。
しかし今はこれしかない。早まったツケを払うしかなかった。
「へえ。それは面白そうだね。じゃあ聞かせてもらおうじゃないか、人魚のお嬢さん」
抑揚のないトビーの鋭利な棘のような言葉を受けて、ヴァレリアは話しはじめた。
話していて、悲しくなかったと言えば嘘になる。
辛かった思い出が、失ったことの哀しみが、ふたたびヴァレリアの心をかき乱す。
――でも、ヴァレリアはもう決めたのだ。それだけは、なんとしても揺るがない。
「だから私、プリアンナを――妹を助けるって、誓ったの。そして地上へやってきたのよ。一つ、あなたに問うわ、チャールズ・アンネさん。――あなたはプリアンナの、桃色の人魚のことを、知っているんじゃないの?」
問いを投げかける。
もしも彼が頷けば、ヴァレリアは力づくでも交渉でも何でもしてそれを聞き出す。
だが。
「期待されているところ悪いが、私は知らない」
はっきりと、首を横に振られた。
「そんな、嘘つかないでよ!」
彼の言葉に赤い人魚の少女は机をドン、と拳で叩き、ふたたび激昂する。
「知らないなんて、白々しい! だってあなた、中将なんでしょう!? 将軍なんでしょう? 皇帝と近しい立場……あいつ、下将とだって知り合っている仲のはずだわ! そうでしょう!?」
「私は知らない。……あの皇帝とも下将とも、私は親しくないのでな」
しかし、答えは変わらなかった。
そしてヴァレリアは悟ってしまう。彼が嘘を言っていないだろうということに。
「しかし、噂程度なら知っている。皇帝が桃色の人魚を探している、と……。いいだろう、では貴殿に、私の知る限りのことを話してやるとしよう」
ヴァレリアはもちろん、オーロラとトビーの姉弟の視線が集まる中、中将チャールズ・アンネはゆっくりと語り出した。
――すべてのはじまりは、三ヶ月前まで遡る。
中将の邸に、こんな知らせが届けられたのだ。
ロンダ帝国皇帝崩御。老衰だった。
そして次の皇帝を決めるべく催しが行われた。
それは、武闘大会を開いて皇帝の息子・娘たちが集って戦うというもの。
しかしその大会前日に、事件が起こった。
皇帝の息子・娘たちが、何者かによって一人残らず惨殺されたのである。
武闘大会は中止、次代皇帝候補がいなくなってしまった。
そこで手を挙げたのが上将のディムだった。
彼は「皇帝の役目はボクが務めますぅ」と言い出したのだ。
上将は、下将・中将・上将と三つの将位がある中で、ロンダ帝国で最も強い将軍。誰も、地上で二番目の強者である中将のチャールズさえも逆らえず、彼は皇帝となった。
問題はそれからだった。
割合平和的だった政治は独裁的になって治安が極端に悪化。それに抗議の意を示した中将は、上将――新皇帝ディムにこう言われたのだ。
「キミ、ボクに反対するつもりぃ? へえ、そうなんだぁ。じゃぁ、将位を取り上げちゃぉっかなぁ?」
黙らざるを得なくなった中将は、それからどんどん悪化する状況を見守るしか無くなってしまった。
そしてその頃巷で流れはじめたのが、『桃色の人魚』の噂。
『桃色の人魚』を、皇帝が花嫁にしたいと求めているという話だった。
「そんな馬鹿な、と思っていたが、実際に人魚を目の前にしてみるとその考えは失せた。ディムの言っていたことは、少なくとも嘘ではなかったのだろうな。……私が知っていることはすべて話した。期待に添えず、申しわけない」
「いいえ。ごめんなさい、疑ってしまって。……少し残念だけれど、大丈夫。得られたこともあるわ」
――それは、
「まだ十二歳のプリアンナを花嫁にしようなんて異常者、私は許さない。……きっと皇族たちを殺したのもそいつなんでしょうね。ますますむかっ腹が立ってきたわ。安心して、中将さん。私、そいつを絶対に殺してやるわ!」
そう、決意を新たにしたのだった。
そんなヴァレリアの姿を、中将はじっと、オーロラは優しく、トビーは無感情な緑瞳で、見つめていた。