一 上陸
海から顔を出すと、広がる漆黒の空の上、白金色の満月が輝いていた。
その美しい光景に菫色の瞳を細めながら、ヴァレリアはそっと陸の砂浜に手をかけた。
「よいしょっと」
そして、腕に力をこめて、自分の小柄な体を引き上げて、周囲を見まわす。
あたり一面、月光に照らされ銀色に光る砂浜が広がっている。
――人生初の、上陸だった。
絶景に感嘆の息を漏らしつつ、ヴァレリアは上陸早々、夜のうちにと大事な作業をはじめることにした。
砂浜に打ち上げられた紅色の海藻、それを拾い集める。そしてヴァレリアは、それを下半身に巻きつけた。
海面に映して見てみると、そこには深紅のブラジャーと、海藻の赤いスカートを身に纏った、美しい少女の姿がある。
陸上ロンダ帝国は人間の住まう国。人魚だとばれてはいけないので、人魚独特の尾をしっかりと海藻のスカートで隠し、人間に変装しておいたのだ。
「よし。これで大丈夫ね」
変装が完了すると、ヴァレリアは海の反対側へと歩き出す。
とりあえず、人間の暮らしているらしい『街』へ出なければ、何ごともはじまらないからだ。
海藻のスカートを引きずって歩き去る少女を、白金色の月がそっと見送っていた。
歩くのには不利な魚の尾を必死で動かして動かして、なんとか街へたどり着いた頃には、すっかり朝になっていた。
海から顔を覗かせる朝陽は、なんと眩しいのだろうか。目が焼けてしまいそうだわ、とヴァレリアは思った。
「これが地上というものなのね」
そしてやってきたのは、ロンダ帝国の海辺の小さな街ルデルークス。
街へ入ろうと門に差しかかり、門越しに中を覗いたヴァレリアは、目を見開き、立ちすくむしかない。
街としては小規模だが、陸上の都市をはじめて目にするヴァレリアとしては、ずいぶん驚愕の光景が、そこには広がっていた。
人間たちが道を行き交い、道の左右に立ち並ぶ商店からは威勢のいい声が飛び交っているのだ。
「すごい……」
イルマーレ王国にも城下町というものがあるが、それに匹敵する人口。その上、見たこともない動物がたくさんだ。
人間に連れられて荷車を引く四つ足の生き物。あれはなんというのだろうか、少しタツノオトシゴに似ている気がするが。
「そこのお嬢ちゃん、邪魔だよ。どいたどいた」
と、突然、背後から声がして、ヴァレリアの体が押しのけられた。
そして彼女の横を平然として通り過ぎて行くのは、たんまりと死した小魚を手にする男。
後で知ることとなるのだが、その男は『漁師』と呼ばれる、魚にとって大きな脅威である人間だった。
「ひどい……。魚をあんなに殺して!」
やるせない怒りに、声を上げるヴァレリア。
人間はやはり野蛮だ。どうしてあんなに殺した魚を手にして、嬉しそうにしているのか。魚は海を綺麗に保つために重要だというのに、とことん人間というものは反吐が出そうな生き物だ。
「プリアンナをこんな国で長居させていたくないわ。急ぎましょう」
街へ足を踏み入れると、やかましさと人通りはさらに増した。
ヴァレリアがまず向かうのは、飲食量品の店だ。イルマーレ王城から持ってきていないため、旅の生命線はここで手に入れる必要があった。
「いらっしゃい、お嬢さん。見かけない顔だね、どこからきたんだい?」
店主の男の言葉に、ヴァレリアは素気なく答える。
「どこからでもいいでしょう。これとこれとこれをちょうだい」
人間となんて、一瞬たりとも話したくない。人間は嫌いだ。
店主から商品を受け取り、通貨として貝殻を払って立ち去ろうとし――、呼び止められた。
「おい、これは何のつもりだ?」
店主が怖い顔をして、ヴァレリアに今支払ったばかりの貝殻を突きつけてきたので、彼女は驚いた。
「何のつもりって、見ての通りの代金よ?」
しかし店主は顔を真っ赤にして怒鳴った。
「これのどこが代金だ、あぁ!? ふざけてるのかい、お前さんよぉ。金を支払わねえってんなら、商品返しな!」
その言葉でヴァレリアは、大事なことに気づく。
なんてうっかりしていたのだろう。ここは地上ロンダ帝国。深海のイルマーレ王国とは通貨が違ってあたり前である。
でもあいにく、ヴァレリアはこの貝殻しか持っていなかった。
「お願い。私、この国のお金は持っていないのよ。きっとその貝殻、お金に換えればかなりの額になるわ。だから」
「だめだ。これが本当に、お嬢さんの言う通り高価な貝殻とも限らねえし、こっちはちゃんとした金じゃねえと困るんだよ! とっとと失せろ!」
――そうして、弁明する暇すらなく、ヴァレリアは商品をひったくられ、追い払われてしまった。
それから数十軒の店をまわったヴァレリア。
だが彼女は、食糧屋と同様に何も得られなかった。
「ああ、どうしましょう……」
大小の家々が立ち並ぶ、ルデルークスの街の裏路地にて。
赤い人魚の少女は頭を抱え、地面に座りこんでいた。
一体どうしたらいいのだろうか、ヴァレリアにはわからない。
お腹は減ったのに何も食べるものはなく、旅をするために必要な地図なども手に入れられず、目的地である場所がどこか知れない。
こんなのでは、地上へきた意味がないではないか。
「プリアンナが待ってるのに」
このままでは、プリアンナはずっと一人だ。ヴァレリアが無謀だったがために。
必死で頭を回転させる。何か解決策はないものか、と。
貝殻をこの国の通貨に換金できさえすればいいのだ。
しかし雑貨の店では「綺麗だけどうちの店では貝殻は扱ってないよ」と言われ、それならとヴァレリア自身のネックレスやサークレットといったアクセサリーを売ろうと思ったら、どうやら宝石商の店はこの街にはないらしい。かといって別の街へ行く体力が残っていなかった。
人間の心は醜い。まるで寛容という言葉を知らないかのようだ。もちろんイルマーレ王国を好き勝手に荒らすくらいだから当然なのだが。
イルマーレ王国が懐かしくなる。王女であるヴァレリアの言うことを聞かない者はいなかったし、こんなに辛い思いをすることもなかったのに。
「どうしたら……。馬鹿だわ、私は!」
自分への怒りにそう叫んだその時だった。
突然、背後から声がしたのである。
「何に悩んでるんだい、姐ちゃん。そんなことしてないで、俺たちと遊ぼうぜ」
振り返ったヴァレリアは、目を見開き、身を固くした。
だってそこには、いやらしい笑みに顔を引き歪め、包丁を手にした男たちが立っていたのだから。