二 平和な日常
この世界には、二つの国がある。
一つは、地上を統治する帝国ロンダ。そしてもう一つは、深海の王国イルマーレだ。
イルマーレ王国はひっそりとしていて地上との関係はなく、帝国の人々にはすっかり忘れ去られていた。
――ときは、惨劇の一時間ほど前まで遡る。
陽の光が降り注ぐ、濁りのない真っ青な海。
その中を優雅に泳ぐ、長い赤毛を揺らす美しい人魚の姿があった。
ヴァレリア・イルマーレ。それが彼女の名前だ。
彼女はイルマーレ王国の第一王女。今日は王城を飛び出して、外海に出ていた。
「真珠はどこかしら? あ、あったわ。ええと、これで四十粒目ね」
ヴァレリアは今、真珠を拾い集めているところだ。見つけたそれを一つ一つ紐に通していくと――。
「……できたわ!」
キラキラと光る、美しい真珠のネックレスの完成である。
「よし、これをプリアンナにあげましょう。あの子、きっと喜ぶわ!」
そう言うなり、ヴァレリアは嬉々として王城へと泳いで行った。
人魚は、魚と人間の禁忌の恋で生まれた種族だとか、魚が進化した形態だとか、逆に人間が下半身を魚にしたのだとか、その誕生には色々な説がある。
海に適応できるというその性質から、人魚たちは深海に国を築き、選ばれた一族が代々イルマーレ王国を平和に治めていた。
現女王の娘――第一王女であるヴァレリアは、次代の女王。
もう十六歳の彼女は、女王へ向けてのさまざまな勉強をしなくてはならないのだが、一日中城に閉じこもるのなんて活発な彼女には耐えきれず、こっそりと城を抜け出したというわけだ。
城へ戻ったヴァレリアは、赤い鱗で覆われた綺麗な尾をたゆませながら廊下を歩いていた。
向かうのは抜け出した自分の部屋――、ではない。
廊下の隅へ着くと、ヴァレリアは目の前の黄金色の立派なドアをノックした。
「プリアンナ、いるかしら? 開けて欲しいのだけれど」
「うん。開けるね、お姉様」
声がするなりドアが開き、可愛らしい少女が現れる。
赤毛を肩のあたりまで伸ばした、桃色のブラジャー姿の人魚だ。
整った顔立ち、色白の肌、桃色の鱗で覆われた魚の尾の下半身。頭上には赤紫色のリボンが揺らめき、可憐さを引き立てている。
彼女はプリアンナ・イルマーレ。イルマーレ王国第二王女であり、ヴァレリアの、十二歳になる愛妹である。
「プリアンナ、今日もとろけそうなくらい可愛いわね」
「お姉様もとてもお美しいわ。……ところでお姉様、またお勉強をさぼったの?」
無邪気に首を傾げる妹の言葉に、ヴァレリアは赤いブラジャーを着た豊かな胸を張って答えた。
「さぼったとは人聞きの悪い。後できちんと済ませるわ。……プリアンナにプレゼントよ。これ、外海で集めてきて、作ったの」
ヴァレリアが背後に隠していた物を見せると、途端にプリアンナが菫色の目を丸くし、叫んだ。
「わあ、綺麗!」
それは先ほど、ヴァレリアが集めた真珠で作ったネックレスだ。
「わたし、ずっとこれが欲しかったの! ありがとう!」
「どういたしまして」
ネックレスを細い首元に着けてみるプリアンナ。
白く輝く真珠が、彼女によく似合っていた。
「まあ可愛い!」
「えへへ。可愛いでしょ?」
踊るように身をまわし、大はしゃぎの妹を見て、ヴァレリアは思わず微笑んだ。
――そんな、いつもと変わらない楽しく平和な日常。
だが突然、その平穏は破られることとなる。
開けっぱなしのドアの向こうから声がかかったのだ。
「大変です! 城に不届き者たちがやってきました! 今すぐお逃げください!」
ヴァレリアが振り返るとそこには、鱗を剥がされ、腕を折られた血まみれの召使い人魚が立っていた。