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四 船出

『惑い森』の騒動から西へ進み続けること三日。

 ヴァレリアたちは、東の大陸西端の街、ペディヌへやってきていた。


「あれが、西の大陸へ渡る橋なのね」


 そう言ってヴァレリアが指差すのは、真っ青な海にかかる漆黒の橋。

 ――黒大橋と呼ばれる、西へ渡るための唯一の橋らしい。


「ええ。あそこは人通りが多いですから、きっとわたくしたちが歩いていても目立ちません」


「それに橋に見張りなんかいないから、楽勝で渡れると思うよ」


 それなら安心だ。一行の乗る黒豹は朝一番の活気に溢れる街の中を駆け抜け、黒大橋へと向かった。





「だから私たち急いでるの! 通してちょうだい。お金なら三十万ロン払うわ!」


「だめと言ったらだめなのだ。俺だって好きでこんなところを塞いでるんじゃないのだ。おふれだから仕方ないのだ」


「でもそれじゃ困るの! お願いだから!」


 漆黒の美しい大橋の傍、そこで言い合う二人の人物。

 一人は赤い美少女、ヴァレリア・イルマーレ。もう一人は皮の鎧を着た門番の男だ。

 二人はもう五分以上、言い争っていた。


 ヴァレリアたちはあれから、まっすぐに黒大橋へやってきた。しかしそこには、トビーがいないと言っていたはずの見張りがいたのである。

 事情を聞いてみると、この橋は数日前から閉鎖され、帝国兵等の特別な人間以外誰も通れなくなってしまったのだという。

 でもここが西の大陸への唯一の出入り口。ヴァレリアは必死になって抗議していたが、男はびくともしない。


「僕からもお願いだよ。僕たち、西に大事な用事があるんだ」


「その用が何であれ、皇帝陛下が通過を許可なさっていないのだ。確認を取り了承されれば、五日後には通れるが」


「ぐぬぬぬぬ……」


 皇帝に用件を言ってももちろん、通してもらえるはずがない。皇帝へ挑もうなどという者を通すような馬鹿皇帝でない限りは。


「その線もないではないけど……、五日はかかり過ぎるわ」


 その間にプリアンナがどうなってしまうのか――想像するだけで恐ろしい。

 どうしたものか、とヴァレリアが思案しようとしたそのときだった。


「……仕方ありませんね。ではわたくしたちは、ここで撤退させて頂きます。お時間を取らせて申しわけありませんでした。さあ、帰りますよ」


 そう言ってオーロラが、男に向かって頭を垂れ、手を振ったのだ。


「お、オーロラ。待ってよ、だって」


「いいんです。――なんとかしますから、今は戻りますよ」


 おどおどするトビーに、オーロラはそう言った。

 その表情はあくまで笑顔。しかし妙な強制力があり、ヴァレリアたちは悔しいが頷かざるを得ない。


「とっとと失せるのだ。しばらくは西に渡ろうなどと思わないことなのだ」


 背後に男の冷たい視線が突き刺さる。

 そのままチェルナはオーロラに従い、橋とは反対の方向へ走って行った。





「どうするつもりなの、オーロラ?」


 ――ペディヌの街の片隅、公園広場にて。


 ベンチに腰かけるヴァレリアは、隣のオーロラへそう訊ねた。

 オーロラなら何かいい案があるかも知れない、と思ったのだが――。


「生憎ですが、わたくしにも良案はないですね」


 と美しい緑瞳を伏せて俯いた。


 ――困ったことになった。

 どうしたものかと頭を悩ませるが、ヴァレリアの中に何もいい考えは浮かんでこない。

 ヴァレリア一人なら海を泳いでいけばいいだけの話。だが、人間であるオーロラとトビーはそうはいかないのだ。

 一体どうしたら、西の大陸へ行けるのだろうか。


「じゃあ、案を言ってみてよオーロラ。きっと思いついてるんでしょ?」


 そのとき突然、トビーがそんなことを言ったのでヴァレリアは驚いた。


「オーロラは案はないって言っていたじゃないの」


「良案は、ね。……でも一応、策ならあるんだよね?」


 二人の視線が金髪の少女に集まる。

 彼女は「はぁ」と小さくため息を漏らしてから、説明をした。


「本当は避けたい方法なのですけれど。……この街で船を買い、西の大陸まで行くのはどうかと思いまして」


「そのどこが悪いの?」


 ヴァレリアにはオーロラの口にした案が最良に思えた。

『船』というのは見たことがないのだが、母親のアントニオ女王に昔、聞いたことがある。

 人間が海渡りのときに使用する乗り物で、大昔の戦争のときはそこから人間に攻撃され、色々と困ったのだとか。

 それなら人間も、楽々で海を越えられるだろう。


 しかし、金髪の少女の表情は明るくないままだ。


「この案を避けたい理由。……それは、この海域が今、『暴海季』に入ってしまったからなんです」


「ボウカイキ? 何よそれ」


「波が荒れる季節のことです。この海域で『暴海季』中、いくつもの船が転覆し、その行方をくらましています。……暴れ海に投げ出された人間は、命がありません」


 『暴海季』の危険性。

 それを聞いて、背をそっと冷たい汗が伝うのをヴァレリアは感じた。

 船が転覆してしまえば、最初から泳いで行くのと同じ。彼女以外溺死してしまうのが目に見えている。


「それは困るわね、なんてタイミングの悪い。……じゃあ他に何が」


「……僕は、この案でいいと思う。多少の危険性はあるけど、それしかない。それに僕たちには悩んでる暇がないんだから」


 緑瞳でこちらを見据えてトビーが放った言葉に、頭を抱えていたヴァレリアは顔を上げる。


「え、でも」


「トビーがそう言うなら、そうしましょう。危険はあります。でも、弟が覚悟を決めたんですもの、わたくしが怯んでいるなど選択肢にありません」


 どうやら双子姉弟は、もう腹を括ってしまったらしい。

 不安はある。でもそれなら仕方ないと、ヴァレリアも大きく頷いた。


「船を買いに行きましょう。どんな船旅になるかわからないけれど、運に賭けるとするわ」





 と、いうことで、一行が今いるのはペディヌの街の中でも海岸に近い場所だ。

 周囲には素朴な民家が立ち並び、活気のある街の中心部とは対照的に人気がない。


「このあたりに船を売っているお店があるの?」


 首を傾げるヴァレリア。パッと見たところそう言った物を扱っている商店は見あたらないからだ。

 そんな彼女に、オーロラは小さく肩を揺すって笑う。


「いえ。そういうわけではありませんよ。漁師の方に船を譲って頂こうと思っているんです」


「へえ。ところで、猟師って何?」


「深海の国の出身のくせして、漁師も知らないのかい? 漁師は船で海に出て、魚を獲る人たちのことだよ」


 トビーの説明を聞いて、ヴァレリアは思わずポンと手を叩く。

 そういえば上陸初日の朝、魚をたくさん手にしている人間を見たのを思い出した。あれが漁師だったのであろう。


「魚を捕まえるなんてむかっ腹が立つけど……、それはともかく、その家へ行けば船があるかもってことなのね」


「そういうことです」


 そのままチェルナに連れられて、ヴァレリアたちは木造の民家の前までやってきた。

 黒豹から降り立ち、戸を叩く。すると中から、一人の若い女性が現れた。


「誰だい? あたい今、忙しいんだけど」


「ごめんなさい、忙しいところ。私はヴァレリア・イルマーレ。それで後にいるのが私の仲間よ。……あなた、漁師さんよね?」


 前に出たヴァレリアが、女性にそう訊ねかける。


「ああ。あたいは漁師だけど……。どうしたんだい?」


「あのね、私たち、船を譲って欲しいのよ。詳しい話をしたいから、中に入れてちょうだい」


 かなり強引に押してみる作戦。それは意外に効果があったようだ。


「……図々しい娘っ子だね、はぁ。仕方がない、爺ちゃんに聞いてきてやるよ」


 そう言って、女性は背を向け、部屋の中へ消えて行く。そしてしばらく後、木戸から顔を突き出した。


「いいってよ。中へ入りな」


 チェルナを外に残し、ヴァレリアたちは女性の後に続いて家の中へ。

 そして「ここだよ」と案内された場所は、リビングのようだった。


「まあ、質素だこと」


 装飾品やらシャンデリアはもちろん、ソファや優美なテーブルすらなく、木の椅子が二つと木机が一台置かれているだけである。

 それが庶民のあたり前なのだが、一行が皆金持ち娘・息子であるため、三人ともが同じような感覚を得た。

 そんな風に部屋を見回すヴァレリアに、咎めるようなしわがれ声がかけられた。


「……人の家に上がりこんで、第一声がそれかのう。空いた口が塞がらないとはこのことじゃ」


 声の主、それは木の椅子に腰かける老人だ。女性の言っていた『爺ちゃん』で間違いないだろう。


「あらごめんなさい、気を悪くしたなら謝るわ。私はヴァレリア。ヴァレリア・イルマーレよ。……あなたに、少し話があるの」


「……ほぅ。聞かせてもらおうじゃないか」


 白髪の老人が大きく息をつき、こちらを見つめてくる。

 彼に頷きかけ、ヴァレリアは事情を説明した。


「――だから船が必要なの。お願い、譲ってちょうだい」


「そうは言うがねお嬢さん、わしらの船はたったの一艘しかないんじゃ。これを売っ払ってしもうたら、孫娘の職業が成り立たんくなる」


「それに今は『暴海季』だぜ? こんな季節にわざわざ海を渡ろうなんざ、死にたがりもいいとこだ。漁師のあたいらですら、今時期は漁に出られねえぐらいなんだ」


 反論を受けるが、そんなことに屈するヴァレリアではない。


「わかってるわ。その上でのお話よ。……船が一艘しかないのなら、代わりを買えるくらいのお金で船を買い取るわ。これで足りるかしら?」


 そう言って老人たちへ差し出したのは、金貨三十枚。

 今の持ち金の約半分であり、かなりの大金であることはわかっている。けれど今は、出し惜しみはしていられない。


「三十万ロン!? あんた正気かよ!?」


 叫び、目をひん剥く女性。老人も驚愕し動揺を隠せない様子だ。


「正気も正気ですよ。……わたくしからもお願い申し上げます。どうしても、どうしても船が必要なんです。どうぞお譲りくださいませ」


「僕からもお願いだよ。どうしても、どうしても船が必要なんだ」


 三人がかりでお願いされて、女性は困ったような顔で祖父の方を見る。

「うむぅ」思案げに唸っていた老人は、だがやがてパッと顔を上げると、こう言いきった。


「こちらに不利益はない。今は幸いにも『暴海季』で船は必要ないし、あのボロ船と大金を天秤にかければ、大金を選ぶのが賢い選択というものじゃろう。決めた、その商談に乗るとしようではないか」


「やったわ!」


 思わず飛び跳ねて、ヴァレリアは大喜びをする。……危ない、赤いドレスが巻き上げられて尾っぽが露出するところだった。

 双子姉弟も、胸をなで下ろしてほっと一安心である。


 それはともかく、こうして無事に商談は成立したのだった。





「そういうことなんだったら話は早い。あたいが船んとこ連れてってやるよ、ついてきな」


 そう言う漁師の女性に導かれるままに、ヴァレリア、オーロラ、トビーの三人は、チェルナに乗って海辺へ移動してきた。

 一面は真っ白な砂浜で、陽光に照らされて輝いている。

 そしてその砂浜の中央、目を引く物があった。


「すごい……」


 目前にそびえる山のような木造の建物を見上げて、ヴァレリアは思わず呟く。――いや、それは建物ではない。これこそが船なのであろう。


「わたくしも船を見るのははじめてですから、驚きです」


「僕も船を見るのははじめてだから、驚きだな」


「ミャーァン」チェルナまで興奮し、黒い尾をぶんぶん揺らしていた。


 船を前に、女性は自慢げに胸を張った。


「だろ? オンボロ船だけどすげーだろ。ささ、乗ってみろよ」


 漁船とあって屋根がなく、カヌーのような形をした小型船に、四人と一匹で乗りこむ。

 すると見渡す限りの広大な海が目に飛びこんできて、ヴァレリアは懐かしの磯の香りを胸いっぱいに大きく吸った。

 潮風が彼女の長く美しい赤毛を揺らし、吹き抜けていく。


「ああ、本当に海って最高だわ」


 やはり人魚は陸なんかより海が好きなものだ。今すぐにでも飛びこみたい衝動をグッと抑えなければならないほどに。


「それは同感だけどよ、こんなに海が荒れてちゃ形なしってもんだぜ?」


 確かに女性の言う通り、白波を立てて激しく音を立てる海は、決して優美とはいえない。

『暴海季』と呼ばれるのも頷ける荒れ様だった。


「……でもこれでこそ挑み甲斐があるというものです」


「そうだよ、早速出港しよう」


 そう急く姉弟だが、すぐさま女性に制された。


「あんたら、船運転できんのかよ? 見たところあんたらは金持ちのお嬢様とお坊っちゃまで、全然船には精通してなさそうだぜ?」


「え、船って運転いるの?」


「いるに決まってんだろ。しゃあねえなあ、あたいが一緒に行ってやるよ。……と、言いてえとこなんだが、さすがのあたいも『暴海季』の海へ乗り出すつもりはねえ。だから、操縦の方法を教えてやんよ。ただし、結構時間かかんぜ?」


「ありがとう。じゃあお願いするわ」


 ということで、ヴァレリアたちは漁師の女性に船の操縦を手ほどきをしてもらうことになった。


 船を運転するというのは意外に難しいもので、オールの使い方はもちろん、操縦係の双子姉弟が息を合わせることや、見張り係のヴァレリアが常に状況を確認することなど、様々な注意を欠かさぬようにしなくてはならない。

 それでも必死に練習し、なんとかかんとか「これで大丈夫だろ」と認められた頃には、もうすっかり黄昏どきになっていた。


「よし、こんなけ腕が上がりゃあ上等だ。でも気をつけろよ、ここは内海だからましだけども、外海行ったらこんな波では済まねえぜ?」


 その荒れ具合を想像するとゾッとする。だが、その海域を乗り越えないことにはどうにもこうにも西の大陸へは行けないのだ。


「心得たわ。気をつけるわね」


「よし。じゃ、あたい帰るわ。せいぜいいい船旅をな!」


 そう言うなり軽い身のこなしでパッと船から飛び降り、手を振る女性。


 なんだか妙な名残惜しさがあるのはきっと、また人間の優しい部分に触れてしまったからだろう。

 そんな感慨をふりきってヴァレリアも手を振る。


「改めてありがとう。頑張るわ!」


「さようなら。お元気で」


「さようなら、元気で!」


 別れを告げ、女性の姿が遠くに見えなくなると、オーロラが微笑んで言った。


「さあ。いよいよ出発するとしましょう。時間は有限ですからね」


「そうだね。疲れたけど、行こう」


 前を向き、海を眺める。

 茜色に染まる空と海。そのはるか彼方、そこに陸地が見えた。――きっとあれが西の大陸に違いない。


「あの陸目指して、いざ出港!」


 ヴァレリアの威勢のいい叫び声とともに船が動き出し、砂浜を離れて海へと漕ぎ出す。

 真っ赤な夕陽の見守る中、一行の船旅が幕を開けたのであった。

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