二 惑い森の遭難
それから丸二日、一行はただひたすらに旅を続けた。
何度も何度も街を抜け、夜の間もなるべく走って、宿を取り、そしてまた進み出す。
道中に困ったことといえば、鱗が乾燥しヒリヒリと痛くなってしまうことくらいなものだ。それも、日に一度は湿らせておくことでなんとかなった。
そうして幸いにも大きなトラブルはなく、三人がたどり着いたのは、東の大陸の中央に位置する、大きな森林地帯だった。
「ここはアーデバガスの大密林。別称、『惑い森』と呼ばれている場所です」
「『惑い森』?」
首を傾げるヴァレリアに、オーロラが説明してくれる。
「そうです。この森を抜けるのは至難の業で、多くの者が森の中で迷い、帰らぬ人となったとか。ですから普通は、森を避けて大きく遠回りをするのですけれど」
「僕たちには時間がない。でしょ?」
「もちろんよ。一刻も早く、プリアンナを助け出さなくちゃならないんだから。……行きましょう」
チェルナが、そのしなやかな体をくねらせて、そっと『惑い森』に足を踏み入れる。
――その瞬間、あたりの空気が変化した。
南東の空に輝いていた太陽は鬱蒼とした木々で隠されてしまい、空気の感じも明らかに違ったものとなった。
殺気。ヴァレリアの脳裏を、そんな言葉が掠めた。
「慎重に行かなくちゃ。……オーロラ、ライトをお願い」
カバンから取り出したランプを、一番前にまたがるオーロラに手渡す。
受け取った彼女は、前方を眩い光で照らした。
真っ暗だった森の景色を一度見て、ヴァレリアは驚く。
紅葉樹、針葉樹、小さな木から大木まで。様々な樹木が入り乱れて生えており、道なんていうものはどこにもない。……確かに『惑い森』と言われても何の不思議もなかった。
そのとき突然、黒豹が猛スピードで走り出した。
走り、四肢を伸ばして跳躍し、木々を避けて、ふたたび突っ走る。その姿は、傍から見ていればなんとも美しいことだろう。
しかし――。
「うわ、ちょ、チェルナ! ひゃあ、振り落とされるぅ!」
「しっかり捕まらないと、振り落とされたら二度と会えない事態になりかねませんよ」
「笑顔でそんなこと言わないでよ! きゃっ、ちょっと、この豹本当に躾けられてるの!?」
ぎゃあぎゃあと騒ぐ三人をよそに、チェルナは駆け続ける。
だがそのうちヴァレリアたちの方が慣れてきて、普通に乗れるまでになった。
「チェルナはきちんと躾けられていますよ。そもそも人間を食べない時点でそうですし、彼女が本気を出せば二倍のスピードは出るはずですから」
「え、豹って人を食べるの!?」
衝撃の事実に目を丸くするヴァレリアだが、双子姉弟は――否、地上人にとってはごくごく常識のことなのだろう。
「当然だよ。だから街の人たちは、僕たちを遠巻きにするんじゃないか。野生の豹だったら、僕たちなんか一呑みさ」
「ああ、怖い!」
それを考えると確かに、姉弟の愛豹は温厚な方である。
「それはともかく……本当に、このままで大丈夫なのよね?」
「ええ、多分。地図によればまっすぐ西に行けば抜けられるはずです。案ずることはありませんよ」
――それから順調に進み、三時間ほどが経過した。
時刻は昼過ぎ、今は昼食を取り、ひとまず休憩である。
「『惑い森』と物騒な名前にしては、ずいぶんと楽勝だったけど……、後どれくらいで森を抜けられる予定なの?」
「そうですね、夜になるまでには出られると思いますよ。……さて、もたもたしている時間はないことですし、そろそろ行きましょうか」
「そうだね。こんな森、一秒でも長くいたくないよ」
ヴァレリアもトビーに同意で、こんな不穏な森、早く抜けてしまいたい。
未だに刺すような殺気は消えておらず――否、増しており、息が詰まりそうな感じだ。
一方のチェルナは休んだおかげで元気いっぱい、尻尾をぶんぶん振っている。
そんな黒豹にまたがった三人。ヴァレリアは天へと指を突きつけると、叫んだ。
「さあ、しゅっぱ……」
「――何かきます。危ないっ!」
言いきる前、オーロラのやけに低い声が重なり――、直後、突如として吹き荒れた暴風がヴァレリアの赤髪を揺らした。
「何!?」
目を見開きそちらを見るが、暗くて何も見えない。
そのときだった。
「ガルルルルルルル」
「ガルッ。ガオ――!!」
二つの獣の咆哮が重なって、ヴァレリアの耳に届いたのは。
一つは、尻の下の黒豹チェルナ。
そしてもう一つは。
「よりにもよって、豹か!」
光が向けられてその正体が明らかになる。……声の主は、黄色の体に黒の斑点が目立つ、一匹の豹だった。
「チェルナ、逃げますよ!」
オーロラの声がして、チェルナが猛スピードで駆け出す。
それは朝の速度とは比べ物にならず、二倍、いや三倍は速い。振り落とされぬようしがみつきながら、豹の底力恐るべしだとヴァレリアは驚かずにはいられない。
一方の名も知らぬ豹は、驚異的な黒豹の速度と同じか、速いくらいでこちらへ迫ってきていた。
「もっと速くです、チェルナ! 追いつかれてしまいますよ!」
逃げる、逃げる、旋回する、全速力で逃げる。
追う、追う、叫ぶ、追う、荒い息、追う、追う、咆哮する、追う。
このままではだめだ。追いつかれてしまう。何かいい方法はないか――。
そう思ったとき、ヴァレリアは突然、大きな衝撃を受け、軽々と吹っ飛ばされていた。
何が起こったのか、わからない。
そのまま赤い人魚の体は宙を舞い、地面に激落。全身を強打した。
「う、うぅ……」
痛みに、意識が遠のいていくのを感じる。
ぼんやりと聞こえる獣の声、悲鳴、悲鳴。
それすらも聞こえなくなり、やがて――。
ヴァレリアの意識は、暗黒に落ちた。
――目を開けてすぐ、視界に飛びこんできたのは闇だった。
「ここは……?」
横たわっていた体を起こし、ぐるりと周囲を見回す。
すると一面、闇、闇、闇。何も見えない、漆黒の闇だ。
状況が呑みこめない。
確かヴァレリアは、仲間たちと『惑い森』、アーデバガスの大密林へやってきていた。
しばらく進んだ先の森の中、三人で昼食を食べ、そして出発しようとし――。
「――ぁ。そうだわ、私たち、豹に追われて、それで」
「やっと起きたみたいだね。ねぼすけ人魚」
そのとき、背後から声がしてヴァレリアは振り返る。
やはり何も見えない。だが、その声が誰のものかはすぐにわかった。「トビー……?
「そう、僕だよ。……一応、無事でよかったとでも言っといてあげようか」
彼の声に、ヴァレリアは一安心。
しかし次に湧いてくるのは、様々な疑問だ。
「私が気を失った後はどうなったの? オーロラは? チェルナは? あの豹野郎は? ここはどこなわけ?」
「次々と質問を投げかけないでよ。許容量オーバーになるだろ? はぁ。君が吹っ飛ばされた後、僕も一緒に叩き落とされた。どうやらあいつとは別の豹が現れて、僕たちを狙ったらしいんだ。でも二匹の豹をオーロラとチェルナが引きつけてくれて、僕たちは助かった。――ただ困ったのは、オーロラたちとはぐれたらしいってことだよ」
驚愕の事実が告げられる。
「はぐれたって、こんな真っ暗な森の中で? ランプはあるの?」
「いや、ないよ。オーロラが持ってるはずだ」
つまり――。
「私たちは迷子で、しかも真っ暗な森の中で二人きり!?」
という、最悪の状況らしいということだった。
「――トビー!!」
叫び、オーロラは背後を振り返る。
しかしそこは一面の闇で何も見えなかった。
ときは、ヴァレリアとトビーがチェルナから突き落とされた直後まで戻る。
無我夢中で駆け続けるチェルナ。その背の上、オーロラはどうしたものかと思案した。
本当なら今すぐにでも戻りたい。
でも背後、そこに二頭の大型動物の荒い息遣いを感じる。――戻ることはできない。後にいるであろう二人から危険を遠ざけるため、自分が囮になるべきだとオーロラは決断した。
「豹さんたち、わたくしの方へいらしてください。ほら!」
手を叩き、二頭の巨獣に自分の居場所を知らせる。すると獣らはすぐさまこちらに注意を向けて、追いかけてきた。
逃げる。逃げる。逃げる。逃げる。
追いかけてくる足音。重なる咆哮。足音。こちらへ迫る気配。足音。
どんどん近づいてきている。オーロラはモーニングスターを構え、細腕を振るった。
風をきる音がして、鉄球が背後の闇中を旋回する。
しかしその鉄球は豹の頭部を砕くことなく、すれすれを通り過ぎ、オーロラの手に戻ってきた。
「わたくし、争いごとや暴力は嫌いですので」
直接傷つけないように加減された攻撃。しかしそれは、豹たちを怖気づかせるのには充分だった。
「ガルルルルル」
「ガルルルルル」
悔しそうな吠え声を上げて、豹は遠ざかっていく。
その様を肌で感じたのだろう、チェルナは尻尾を振って喜んだ。
「あの豹さんたちが怖がり屋さんでよかったです。最悪、血の惨事になっていたでしょうから」
薄く微笑み、オーロラは一息。
しかしすぐに姿勢を正して、呟く。
「早くトビーとヴァレリアさんを探さなくては。……きっとお二人とも、わたくしのことを探しています。チェルナ、戻りましょう」
長い金髪を闇の中で揺らめかせ、オーロラは愛豹にそう命じたのだった。




