一 王国の惨劇
血が、肉が、あたりを舞い散っている。
あんなに美しかった海が赤黒く染まり、凄惨な光景へと変貌していた。
「どこだ!」
「どこなんだ!」
「探せ!」「探せ!」
止まぬ怒声を聞きながら、ヴァレリアは妹と、小さな洞穴で身を寄せ合っていた。
「お姉様、これ、いつ終わるの?」
妹のプリアンナが不安げに訊ねてくる。
果たしてこの惨劇がいつ止むのだろうか、ヴァレリアにはわからない。が、彼女はなるべく元気な笑顔で言った。
「大丈夫。きっと大丈夫だから。静かに、大人しくしていてね」
「うん」
ヴァレリアたちのいる洞穴の外、そこでは激しい戦いが繰り広げられている。
甲冑を被った人間の兵士と、海の王国の中でも腕が立つ者たちの戦闘だ。しかしそのほとんどは人間側が勝ち、人魚の煌びやかな鱗が弾け飛ぶ。
「野蛮な人間たち、よくもこんな惨いことしてくれましたね。ぼくが許しませんよ」
豊かなワカメの中から、一人の細身の人魚の青年が飛び出してきた。
「ジョン!」
彼は王城執事のジョン。ヴァレリアたちは彼と非常に親しい仲だ。
「醜悪な半魚の化け物めぇ! 殺せ、殺せぇ!」
一度に十人ほどの甲冑の人間が、ジョンに飛びかかる。
しかし人魚の青年は彼らを一瞬にしてねじ伏せた。
「ジョン、すごいわ!」
小さく叫び、ヴァレリアがもしかすると勝てるかも知れないと考えたそのとき――。
突然、ジョンの腹部を剣が貫通した。
「……!?」
あっという間に、青い海に深紅の血が広がる。
そして、ジョンの腹を差し貫いた張本人がゆっくりと現れた。
「元気な人魚野郎にしては、意外と弱っちいなあ。もっと期待してたのによ」
銀色の鎧を身にまとった、大柄な男だ。
その男は不気味な笑みを浮かべ、身悶えるジョンを片足で思いきり踏んづけた。
「じゃあ大事なことを聞かせてもらうぜ。……桃色の人魚はどこだよ?」
投げかけられる、問い。
だが、男の足の下で身を捩る人魚の青年は首を振り――。
「人間なんかに、教えて、たまるもんですか。……プリアンナ様は、決して渡したり」
その瞬間、ジョンの首が、男の手にする大きな剣できり落とされた。
「――――――――ジョン!!」
ヴァレリアは、一瞬己の心臓が飛び出したかと錯覚するほど驚き、硬直した。
思わずといった様子で、隣のプリアンナが絶叫を上げたのだ。
それは当然のこと。五年以上つき合っていた人物が、目の前で無惨に殺されたのだから。
でも今だけは、その叫びは禁物だった。……のに。
「そこにいるのは誰だ!」
気づかれてしまった。今しがたジョンの首を落としたいかつい男に、気づかれてしまった。
ゆっくりと、男がこちらへ近づいてくる。
「ごめんなさい、ごめんなさいお姉様……」
怯えた顔をしたプリアンナが、震えながらそう呟く。
この上ない最悪の事態――、しかし諦めるのは、まだ早い。
「逃げるわよ!」
ヴァレリアはさっと妹の手を掴み、全速力で洞穴を飛び出し、広い海へと泳ぎ出した。
「赤い人魚と――、あ、桃色の人魚じゃねえか! 待て! 逃がさねえぞ!」
男が追いかけてくる。
逃げなくては。逃げなくては逃げなくては逃げきらなくては。死力を尽くし、ただひたすらにヴァレリアは泳ぎ、泳ぎ、泳ぐ。
彼らの目的は桃色の人魚――、プリアンナだ。彼女だけは、絶対に守らなくては。その考えだけが、姉であるヴァレリアの脳内を駆け巡っていた。
逃げる。逃げる。ただひたすらに、逃げる。
水の中の追いかけっこでは、人間より人魚の方が幾分も有利なのだ。
振り返れば、だんだんと背後の男の姿が遠くなっていた。
「このままなら、逃げきれるわ――」
そして前を向いたヴァレリアは、愕然とした。
目の前に、無数の兵士の姿があったのだ。
「だから言ったろ? 逃がさねえってな!」
背後の男も追いついてきて、得意げに嘲笑う。
四方八方を敵に囲まれた人魚の少女たちは、どうすることもできなかった。
男が砂地を蹴りこちらへやってきて、人魚二人のすぐそばに立った。
「てめえが桃色の人魚かよ。で、そっちがてめえの姉ちゃんか。……へえ。おれだったら、姉ちゃんの方が好みだがな。まあ、これで目的は果たせたってわけだなあ」
男の歪んだ笑顔に、背筋がぞくぞくする。しかし恐怖を必死に堪えて、ヴァレリアは彼を睨みつけた。
「あなたたち! どういうつもりか知らないけど、今すぐプリアンナから離れなさい! さもないと、殺すわよ!」
「活きのいい姉ちゃんじゃねえか。……てめえにおれが殺せるかよ? おれはこれでも、地上で有数の将軍なんだぜ?」
ゆっくりと、男の剣がヴァレリアの喉へ向けられる。
抗うことはおろか、みじろぎ一つすらできない。
「わかった。……おじ様、わたし、おじ様について行く。だからお姉様を殺さないで」
桃色の人魚が、必死でそう乞うた。
「へえ。賢いじゃねえかよ。てめえの勇気に免じて、姉ちゃんは殺さずにいてやらあ。……もっとも、おれが連れ帰って遊んでやるんだけどよ」
固く、固く結んでいた姉妹の手が、離れる。
本当なら、今すぐにでも目の前の男を殺してやりたい。でもヴァレリアには、何の武器も、何の力もなかった。
「お姉様。お願い、わたしのことはいいから、逃げて。……さようなら」
笑顔で、頭上の濃紫色のリボンを揺らす桃色の人魚が、そう別れを告げた。
妹が何を言っているか理解できない。――そんなヴァレリアに直後、衝撃がもたらされる。
なんと、プリアンナが桃色の尾でヴァレリアを突き飛ばしたのだ。
水の流れに乗って、ヴァレリアの小柄な体はどこまでもどこまでも、飛ばされて行く。
「どうして」
わからない。何が起こっているのか、意味がわからない。
遠くに、手を振る愛しい妹が、男たちの手で檻の中に捕らえられるのを見て――。
「プリアンナぁぁぁぁぁぁぁぁ」
美しき人魚姫ヴァレリアは、高く絶叫を上げたのだった。