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青とエスケペイド  作者: 冬野瞠
第一部
99/137

僕らとどこかのこと 炎(かぎろ)うふたつの牙Ⅲ(4/5)

 さっと場に動揺の空気が流れる。俺も危うく声をあげそうになった。だって、ルカの様子ときたら、全く力を入れているようには見えないのだ。まるで、スナック菓子でも摘まむほどの気軽さだ。

 それでもヴェルナーは手を離さず、ルカはなおも口撃の手を緩めない。淡々とした語り口はむしろ恐怖を煽るのだと知る。いつの間にか、俺まで全身が震えてきている。


「利き腕で触れるなんて、迂闊でしたね。いくらあなたでも、慣れた指で引鉄ひきがねを引けなくなるのはこたえるでしょう。一本指の少ないご自分を想像してみて下さい。いかがですか……」


 人の搦手からめてをぐりぐりと無遠慮にまさぐっていくような声音に、ぞっとした。大きな魚に骨まで刃を入れ、ためらいなくざくざくと捌いていくのにも似た、的確な言葉のナイフ。恐怖感と嫌悪感とがぶわっと湧いてきて、毛細血管の隅々まで侵食していくようだ。

 この人は嫌だ。どうしてこんな人が、俺を歓迎するだなんて言う? 俺が知らないことって何なんだ? 頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。

 ヴェルさん。気持ちをこの場に繋ぎ止めようと、心の中だけで呼びかける。どうしてそこまでする? 俺が死のうが生きようが、あんたには関係ないはずだろ。あんたも、何か知っているのか?

 ルカの絶対零度の言葉をダイレクトに浴びているはずのヴェルナーはなんと、脂汗を額から流しつつも、にやりと剛毅に笑んでみせた。


「ったく、仕方ねえな。男相手にも被虐趣味を開花させられてたら、この状況でもよろこべたのによ」


 それが強がりだと、俺にだって分かった。ヴェルナーが浅く呼吸をひゅっと吸うと、どちらともなく手が離れる。離ればなれになった赤髪と黒髪の男の双方が、床を蹴って距離を取る。

 また、睨み合いになるのだろうか。ごくりと唾を飲み込むも、ルカが不意にひらりと身を翻して、面食らう。完全にヴェルナーにその背を見せたのだ。長い脚が体育館の側面の扉へと向けられる中、顔だけがこちらを振り向いて、俺はじっと見つめられる。


「余計な横入りがありましたので、興が冷めました。今回はこれにて失礼させて頂きます」

「ほう。逃げるのかい」


 やや顔を青ざめさせたままのヴェルナーが煽り立てるが、ルカは一顧だにしない。代わりに、俺への更なる挨拶が重ねられた。


「茅ヶ崎龍介。我があるじはあなたの力を待ち望んでおられます。我々ならば、あなたの能力を十全に活かすことができるでしょう」

「能力、って……」

「いずれ、再びお話しすることもあるでしょう。それでは、またいつか」


 背の高い影が左手を挙げ、押し黙っていた山羊頭たちが彼に追従していく。俺の中には焦りがあった。俺の知らない俺の情報を持つ存在が、今まさに去ろうとしている。それは影の面子すら、知り得ないことかもしれないのだ。

 それを知りたい。この衝動は、許されないものだろうか? 罰されるべき感情だろうか?

 俺は咄嗟に未咲をシャーロットに預けた。空っぽになった両手が急に心許なくなる。立ち上がった瞬間にスカートがひらめいてひやりとするが、もう形振なりふり構っていられない。

 ルカのことは怖い。かつて誘拐された夜に味わったすべての恐怖感を、彼一人で上塗りしてしまったくらいに。けれどその瞬間だけは、恐怖心を知識欲が上回っていた。もしかしたらもう来ないかもしれない、知る機会をここで失いたくない。立ち去ろうとする黒い背を、俺は必死に呼び止めていた。


「待てよ! 話って何なんだよ」

「坊っちゃん、よせ! 話が通じる相手じゃあないぞ」


 焦燥をあらわにしてヴェルナーが制止する。こんな行動に出るとは思わなかったのだろう。構うもんか。これは俺個人の問題だ。その時の俺は、教えてくれるなら誰でもいい、という死に物狂いに近い心境になっていた。だって、"罪"の人間の方が、俺の欲求を満たしてくれる可能性だってあるのだから。そうしてくれるなら、組織の名前なんて関係ない。俺は元々、どっちに属してもいないのだ。

 ルカがゆらりと体を反転させる。ぎらつく目からは生命の温かみは感じ取れない。男は薄い唇をゆっくりと開く。


「主はあなたをずっと見ておられます。これまでも、これからも、ずっと。それではまた、ゆっくりお話し致しましょう。近いうちに、ね」


 熱の一切こもらない、会話にならない言葉をこちらに投げかけ、それきりルカはきびすを返して遠ざかっていく。俺はその言葉をどう受け止めるべきなのだろう。渾身の問いは空振りに終わったのか、それとも血も涙もなさそうな彼の中に届いたのか。邂逅がこれっきりでないことを憂うべきなのか、喜ぶべきなのか。何にせよ、誰も致命的な怪我を負わなかったことは、手放しで喜ぶべきなのだろう。

 シャーロットの腕から、未咲の体を抱き渡してもらう。その穏やかな寝顔を見つめる。影の女性はぱたぱたとヴェルナーの元へ走っていって、背後で鋭い声が上がった。


「ヴェルナー! 指をせて」

「いやあ、もう何ともないよ。大丈夫」

「いいから診せなさい。無茶するんだから、もう……」

「君の前でいいとこ見せたくてさ」

「本当に……あなたって馬鹿ね」

「うん、ありがとう」

「褒めてないから……」


 そんな会話をぼんやりと聞いているうち、遠くの空から、バラバラバラとものすごい音をたてて何かが近づいてきた。乾いた校庭の砂が強い風圧で吹き飛ばされ、体育館に吹き込んできて、思わず手で顔を覆う。風が止んだ頃には、校庭に大きなヘリコプターが着陸しているのだった。一般的に見る形のそれではない。ごてごてとした、自衛隊が持っているような、いわゆる軍用ヘリだ。

 ルカと山羊頭と、未咲たちを眠らせたドローンが次々にヘリの中へ吸い込まれていく。ヴェルナーとシャーロットも、その一部始終を黙って眺めているようだった。全員を腹にしまい込んだヘリは、またも轟音を響き渡らせながら、あっという間に空のどこかへ点となって消えていく。

 そこに至ってようやく、俺はほっと胸を撫で下ろした。ふうっと息を吐いてから大きく深呼吸すると、酸素不足で枯れていた全身が生き返るような感覚があり、ずいぶんと緊張していたのだと遅れて理解する。感情の中の昂りも波が引くごとく消えていく。これで危機は去ったのだろう。ドローンも消えたことだし、寝入ってる皆もじきに目を覚ますはずだ。

 関係者以外の目に留まらないよう、また身を隠そうとしているらしいヴェルナーが、去り様にぽんと俺の肩を叩いた。


「なあ坊っちゃん。君がああいう勝手なことをすると、俺らの方でも守りきれなくなるぜ。火傷やけどしたくなかったら大人しくしててくれ。な?」

「……」


 ヴェルナーは彼にしては珍しく、ごく真面目な語調で諭してくる。が、彼にかけられた言葉をすんなりと受け入れられなくて、何秒か黙りこくる。結局、小さく頷き返すのがやっとだった。

 やがて生徒たちが一斉に起きだして、時計の針がいつの間にか進んでいることに少々ざわつきが起こったけれど、思ったより大きな混乱には繋がらなかった。

 なぜなら、ルカたちが襲来した一連の出来事は、ほんの十数分に過ぎなかったからだ。

 皆首をしきりに捻り、口々に不思議だと囁きあったけれど、特に害は無かったことが幸いして、その件はうやむやになった。どちらにしろ、それ以上掘り下げることはできないのだ。学校関係者に真実を知る者はいないのだから――俺自身を除いては。

 皆の時計の針がまた動きだしても、個人的にはルカの言葉の意味について考えていたかったのだが、急に訪れた騒乱によってそんな落ち着ける時間はなくなってしまった。群衆が目覚めた際に、未咲を抱き抱えた格好のままだったのが原因で、そのあとしばらく逆ヒーローだの何だのと囃し立てられ、校内で一躍有名人になってしまったのだ。

 けれど、人生で一番と言える騒がしい日々に身を置いていても、心の隅の石炭みたいなくすぶった感情は、片時も消えることがなかった。体感としては信じられないが、ルカと相対したわずかな十数分。それが俺の内面をわずかに、しかし決定的に変えた。

 彼の言う、俺の能力とは何なのだろう。俺にも分からない何が、自分にできるというのだろう。進路調査票を手に、鬱々と無力感に苛まれた夜を思い出す。あの夜の俺と今の俺は、己にできることが分からないという意味では、本質的には変わっていない。ただ、"罪"との関わりによって、そこに小さな可能性の光を見たような気がした。俺自身の何かが、変わりそうな予感がしていた。

 もちろん、彼らは国際的なテロリストで、そんな危険思想を持とうなんて気持ちは毛頭ない。情報を仕入れるために何でもするとか、そんな捨て鉢な気持ちになっているのでもない。

 ただ、俺は知りたいだけだ。自分自身が一体何者で、何ができるのか。それくらいの願望を持っても、咎められるわけじゃないだろう?

 俺の心に、今まで一度も感じたことのない、内面をじりじりと焦がす反骨心めいたものが芽生えてきていた。

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