僕らとどこかのこと 炎(かぎろ)うふたつの牙Ⅲ(3/5)
誰も指一本動かさない。僅かな刺激でこの膠着状態は崩れるだろう。そうすればきっと取り返しのつかない事態になる、そんな一触即発の雰囲気だ。将棋で次の一手を考える時間のような、自分の動悸さえ外に聞こえていそうな、張り詰めた緊張が空間を支配する。
おもむろに、ヴェルナーが左手を上げて軽く手を振った。何事かと焦ったが、ヴェルナーが緩やかに銃を下げ、シャーロットの方からもわずかな金属音と衣擦れの音がしたことで、おそらくハンドサインだったのだと理解が追いつく。
「埒が明かねえな」と目前の青年がぼやく言葉は、不思議と明瞭に聞き取れた。
「なあ、"罪"のお坊ちゃんよ。ここらでひとつ、追いかけっこでもやらねえか」
「……というと」
わずかに不審が滲むルカの声。それは俺の心境を代弁したものでもある。突然、何を言い出すのだろう、この突拍子もない男は。
ヴェルナーは身振り手振りを交えつつ、自らのアイデアを話し始める。
「あんたが逃げて、俺が追いかける。飛び道具はなしでだ。六十秒あんたが逃げ切れたら、お坊ちゃんに言いたいことがひとつ言える。俺があんたを捕まえたら、訊きたいことがひとつ訊ける。ってのはどうだ?」
沈黙。
ドローンの低い音だけが聞こえる時間は、そう長くは続かなかった。
「分かりました」
「そう来なきゃな」
ルカの肯定は割合気軽で、俺は無意識に目を見開いてしまう。相手が提案を受け入れるとは思わなかったのだ。
そこからの手合わせの準備は速やかに進められた。手出し不要ですので、と微動だにしない山羊頭たちにルカが指示するあいだに、ヴェルナーが金髪の女性に歩み寄る。彼女に銃を預けつつ二言三言言葉を交わしていたようだが、内容までは聞き取れなかった。
俺は眠り続ける未咲を抱えて、ぎしぎしいう体に鞭打ち、絨毯の脇に移動した。その際にシャーロットがワンピースの裾を股までたくし上げ、そこにベルトを巻きホルスターを吊るしているのを目撃してしまい、目が点になる。見てはいけないものを見てしまった。
この勝負は一体どんな結末を迎えるのだろう。さっきまで俺がいた場所では、腰をやや落とすヴェルナーと、自然にすらりと立つルカが真っ向から睨み合っている。
俺の横に立つシャーロットが、腕時計に目線を落とし、涼やかな声を放つ。
「それじゃ、両者とも用意はいい?」
やがて、五秒前からのカウントダウンが粛々と始まる。俺は思わず生唾を飲み込んでいる。
その後のことはもう、俺には把握不能だった。
唯一見えたのは、ヴェルナーが勢いよくルカへ突っこんでいったこと。それきりどんなに顔を巡らしても、二人の姿を切れ切れにしか捉えられなかった。特に俺を歓迎するとか言った"罪"の男の方は、明らかに人の動きの域を凌駕している。例えば、普通に立っていると思った次の瞬間に、予備動作なしで体育館の天井近くまで跳躍しているだとか。
本能的で根元的な恐怖に、いつしか鳥肌が立っていた。もし人間じゃないとしたら、あれは何なんだ? 青年の得体の知れなさに、未咲を抱く指先がすうっと冷えていく。
「ごめんなさいね」腕時計を見つめたまま、金髪の女性がぽつりと呟いて、すっと現実に引き戻された。
突然の謝罪にどう対応するのが正解か戸惑い、反応はぎこちないものとなる。
「なんで、あなたが謝る……んですか」
「君も含めて、この学校にいる人たちを危険な目に遭わせてしまった。それは私たちの落ち度だから」
「落ち度? どうして」
「君は、予見士という存在のことは聞いているのよね。私たちは予見士の出す未来予見に従って行動を決めているの。でも今日、影の予見士は"罪"の襲撃可能性をゼロとしていた。ヴェルナーや私が学校に潜入していたから良かったようなものの――これは重大な失態よ」
「予期できなかったのは、なぜ」
シャーロットは首を横に振る。
「分からないの。私たちは予見の結果しか聞かされていないから。こういう時、戦うことしかできないのが悔しいわ」
「……身近に、ヴェルさん以外の影の人がいるとは思わなかったです」
「あらそう? 意外とすぐそばにいるものよ。ミスター桐原……あなたの桐原先生だって、影の一員でしょう?」
「先生を知ってる……?」
「ええ、まあ……昔の、ちょっとした知り合いよ」
ほほえみ混じりの答えを返され、相手のシャープな横顔の輪郭をまじまじと見てしまう。桐原先生とこんなモデルか女優みたいな人が知り合い? なかなか想像できなくて、呆気に取られた。
シャーロットが再び、時計に視線を落とす。
「そろそろ、タイムリミットね」
彼女と話して若干ほぐれた緊張がぶり返した。このままルカが逃げ切れば彼の勝ちだ。あの体の動きを見たら、ちょっとヴェルナーが捕まえられるとは思えない。五、四、三、と残り時間がみるみる小さくなっていって、勝負は刻限ぎりぎりに決した。
二つの影が静止して、ルカの手首を、ヴェルナーががっしりと掴んでいる。
俺たちのいる地点から十メートルと離れていなかった。思いがけない結末に目を見張る。勝利を宣言するようなヴェルナーの低い声が、こちらまで聞こえてくる。
「……捕まえたぜ」
対して敗者であるはずのルカは、虫けらでも睨めつけるような冷めきった瞳で、手首にまとわりつく手を見下ろしている。
「あなたの身体能力は非常に素晴らしい。生身の人間で、それは特筆すべきことです。……が、所詮はそれまででしかない。あなたの国の言葉で言うところの、"Übermensch"である私たちの相手ではない」
「負け惜しみかい?」
「……。ご質問は」
俺の耳には、"罪"の青年の冷然としたそれらの見解が、負け惜しみであるようには聞こえなかった。不敵に笑うヴェルナーがわずかながら息を乱しているのに反し、ルカは先ほどまで激しく動き回っていたのが嘘のように、完璧に整った呼吸と冷ややかな表情をしているからだ。端から見ると、勝敗は逆のようにも見える。
――ともすれば、ルカがわざと捕まったようにも。
しかし、勝負に勝ったのがヴェルナーであるのは事実だ。彼はぴりつく空気を纏いながら、
「なあ、あの龍の坊っちゃんは……何者だ?」
そう、相手に顔を肉薄させて囁く。
自分の話をしている。俺のことが訊きたくて、ヴェルナーは勝負を持ちかけたのか。喉の奥がぐっ、と詰まるような感覚があった。
茅ヶ崎龍介は何者か。それは今の俺が、最も知りたいことと一致していた。自分が一体誰なのか、固唾を飲んでルカの答えを待つ。
体育館の広い空間に染み渡っていくような返答は、ほとんど間を置かず返ってきた。
「彼は我々の、貴重なブルジョン――"蕾"です」
ブルジョン、という不思議な響きだけ、訳されずにそのまま伝わってくる。誰も、咄嗟には何も言わない。
意味が全く掴めない答えに、俺も混乱を来した。我々。貴重。蕾。それは一体、この場面でどういう文脈を持つのだろう。
混乱しているのは俺だけではないらしく、ヴェルナーも気圧されたのか、上体を起こし気味にして眉をひそめる。
「蕾? そいつぁどういう――」
「質問はひとつだけとあなたが仰いました。お離し下さい」
「今のが答えになるとでも? もっとちゃんと理解できるような……」
ルカの反応はにべもない。ヴェルナーへの興味を完全に失っているように見えた。俺の方へ体を向けようとするルカの手首を、ヴェルナーがさらにぐっと強く引く。
ルカは一旦ヴェルナーに向き直ると、手首にかかるヴェルナーの人差し指を、すっと自然な動作で軽く摘まんだ。かと思うと、時を置かずしてヴェルナーの顔に歪みが生じ、顔面全体が鬱血して赤くなる。背筋を丸め、歯を食い縛り、酷い痛みに耐えているような様子で、顔色はそのうちに蒼白へと転じていった。ルカはただ二本の指で触れているだけ、そう見えるのに。当人たち以外に、誰も何が起きているのか把握できない。
不意に、死神のような男がヴェルナーの耳元に口を寄せ、宣告でもする調子で囁く。
「離しなさい。でないとこのまま指を引きちぎります」




