僕らとどこかのこと 炎(かぎろ)うふたつの牙Ⅲ(1/5)
目の前にいる男は手を差し伸べたまま、微動だにしない。こんな危機的状況にあって、自分は女子の格好かつ化粧もしているなんて、あまりにも間抜けだった。体は硬直したまま、たくさんの疑問が縦横無尽に脳内を駆け巡る。
――この人は何者なんだ?
――俺を何だって?
――あの山羊頭との関係は?
――どうしてみんな眠ってしまったんだ?
固まった全身をよそに、脳細胞だけが目まぐるしく発火を続けている、そんな自覚があった。
何も反応できない俺を見かねたか、黒い青年はこちらに伸ばした手を引っ込め、背筋を伸ばす。値踏みするような目が、じっとこちらを見下ろした。ややあって、再び相手が口を開く。
「"罪"という、我々の組織はご存じですね」
ここに至って、俺は気づいた。相手の声が二重に聞こえることに。おそらく、本当は外国語を話しているのだが、どういう仕掛けがあるのか、抑揚のない合成音めいた日本語が、喉あたりからリアルタイムで流れてきているのだ。と同時に、元の言葉も極めて平坦な調子であるのを耳が拾う。今時、携帯のバーチャルアシスタントですら、もっと人間的に喋っているだろう。
からからな喉を唾で潤してから、何年ぶりかに発声するような心持ちで、疑問を返す。
「俺を……殺しに来たんじゃ、ないのか?」
「違います」
否定の声は素早かった。
俺はさらに混乱した。それじゃ、何だっていうんだ? さっき、歓迎するだとか意味の分からないことを言われた気がする。"罪"についてはヴェルナーから、彼らが世界的なテロリスト集団であり、「命を狙われる可能性がある」と聞かされているだけだ。鵜呑みにしていた説明と違う点があるとするなら――俺には分かることは少しもない。
ルカは言葉を重ねる。
「通称、影と呼ばれる組織はご存知なのでしょう。我々とあなたとの関係性については、いかがですか」
関係性? 意味が分からなくて、口だけがぱくぱくと動く。これまで得た情報から、俺を昔誘拐した山羊頭たちが"罪"の一員であることは決定的だったが、あの夜の一件に「関係性」という言葉を持ち出すのはそぐわない気がする。まだ他に、何かあるのか。俺の知らない、俺の情報が。
ルカと名乗った敵であるはずの男は、そのぎらぎらする双眸で、高い位置からただただ俺を眺めている。
「可哀想に。何も教えられていないのですね」
そう、ため息のように漏らされた言葉。語義とは裏腹に、微塵も可哀想とは思っていない口ぶりだった。
――可哀想って、何だ。敵であるはずの人間が、どうして俺にそんなことを言う?
意味深長な呟きに、胃の奥底の方がすっと冷えていく心地がした。得体の知れない負の感情が、ひたひたと迫ってくる。自分はこの感情を知っていた。影という組織に触れてから、何度も何度も味わったから。
ずっと前から自分の人生は決められていて。罪という組織に狙われていると分かっても、俺にできることは何もなくて。
そんな諦念。そんな無力感。
ついさっきも輝の前で、彼を含んだ日常との隔たりを噛み締めていた。今まででも打ちのめされるには十分だと思っていたのに、それ以外に――それ以上に、何かがあるっていうのか?
不意に、近くで金属の触れあうやや重い音がした。
「そこまでだ。そのお坊ちゃんから離れな」
続いて発せられた凄みのある声は、聞きなじみのあるもの。しかしいつもの軽薄な調子ではなく、張り詰めた硬い響きを帯びている。
左後方に目をやると、すぐ近くにヴェルナーが仁王立ちしていた。前方を睨みつけ、構えた拳銃の暗い銃口は、ルカに迷いなく突きつけられている。
赤毛の青年は顔を固定したまま、流し目で蹲ったままの俺に視線を寄越し、
「やあ、ずいぶんと扇情的な格好だねえ。龍のお坊ちゃん」
軽口を叩き、片目を瞑ってにやりと笑う。その合間にも、銃の照準はびたりと黒い男に合ったままだ。重苦しい雰囲気を振り払うかのような、力強い彼のほほえみに、強張った手の力が少しだけ抜けていくのを感じた。
ヴェルナーは前方に目線を戻し、じりじりとルカへの間合いを詰める。反対に黒い青年は、じわじわと後退して距離を取る。
そのあいだにも赤髪の男の口は働くのをやめない。口ぶりは飄々として常のようであったけれど、よく耳を澄ませばやはり、緊張したものが混ざっている。
「知ってるぜ。あんた、ルカってんだろ」
「ヴェルナー・シェーンヴォルフ……」
「はっ、ボスの右腕たるあんたにまで名が知れてるたあ、光栄だね」
「ご謙遜を。我々の中であなたの名前を知らない者などおりません」
「敵に持ち上げられても嬉しかねぇなァ。ところで"罪"のお坊ちゃんよ、こんな極東の国まで優雅にお散歩かい?」
「そこの彼と話をしに来たのです」
ルカはヴェルナーの放言には取り合わず、その声遣いはごく淡々として起伏がない。二人とも声量は静かだが、空間には主導権争いの透明な火花がばちばちと散っている。会話の内容は日本語だったけれども、予備知識の少ない俺に意味を汲み取ることは難しかった。
上背のある二人が睨み合うのを横目に、俺はヴェルナーが現れたことで、多少は落ち着いてこの状況を把握し、思考も回るようになっていた。
現実感が薄れ、どこか虚構を眺めるような心持ちで、鍔迫り合いめいた無言のやり取りを注視する。ヴェルナーが銃を構えるのを見たときは、いきなり発砲するのかとひやりともしたが、周りに大勢の人間が身動きできない状態で密集しているのだ。少し考えればそんな蛮行はできないと分かる。
俺はルカにぶつけられた、冷たい言葉を反芻していた。
――可哀想に。何も教えられていないのですね。
何も。教えられていない。俺は影の人たちに、何も教えられてないということか? 何か、まだ隠し事があるとでも?
その言葉が心の芯まで浸透したとき、見えるものの形が変容したように感じた。俺はヴェルナーと会ったあの夜から、影の人たちが自分側に立っていて、相容れぬ対岸に"罪"があるのだと解釈していた。それは物事の本質を捉えたものではなかったのでは?
俺は本来、どちら側にも属していなくて、影と"罪"との対立のあわいに立つ存在なのではないか。獣の牙のように鋭い影の思惑と"罪"の思惑、そのふたつが交錯し、摩擦熱で陽炎が立つほどの境界線。そここそが俺の立ち位置なのではないだろうか。
――だったら、俺はどうすべきなんだろう?
そこまで滔々と考えを巡らせて、
「ヴェルナーだけじゃないわよ」
唐突に場に割り込んできた、凛とした女性の声にはっと我に返る。俺とヴェルナーとルカが音の源を見るのが、ほぼ同時だった。
今度は俺の右後方だった。すらりと背の高い、眩いばかりの金髪をひとつに結った女性が、小さめだけれどごつごつした印象の拳銃を構えている。光沢のある濃紺の膝丈のワンピースを着ていて、それがなぜか、一部が銀色の銃に妙に似合っていた。
その女性に見覚えがなくて戸惑う。それよりも、ヴェルナーがひゅうっと口笛を吹く方が早かった。
「ロッティちゃん! どうしたの、その服。すごく似合ってるね、素敵だよ」
「今は目の前のことに集中しなさい、ヴェルナー」
いきなり口説き始めた軽薄男を、ロッティと呼ばれた女性が構えを崩さぬまま、ぴしゃりとたしなめる。ヴェルナーははーい、と素直に受け入れて体勢を整えた。女性に軽口を叩くあいだにも、銃口が全くぶれないのはさすがというべきなのか。
見知らぬ女性が何者なのか、深く考える脳のリソースは今の俺にはなかった。どうやら影側の人間ではあるらしい、というだけの浅い理解で精いっぱいだ。思ってもみないことが起きすぎて、驚きの感覚も徐々に麻痺し、逆に何にも無感動になってきている。
次に声を発したのは、こちら側の男女のやり取りを静観していたルカだった。やや緩んだ空気も凍てつかせるような、極度に冷めた声音。
「あなたがシャーロット・エディントンですか」
「そうよ。顔は覚えていなかった? 一応、こっちの赤毛の彼よりもたくさん、あなたたちを捕まえているのだけど。覚えていた方がいいんじゃない?」
「これはこれはご丁寧な挨拶、ありがたく頂戴します」
シャーロットというらしい女性の挑発めいた発言にも、ルカは眉ひとつ動かさない。慇懃無礼に胸に手を当てて小さく会釈する様は、圧倒的な余裕を感じさせた。




