僕らとどこかのこと 炎(かぎろ)うふたつの牙Ⅱ(4/8)
我が主と出会ったばかりの頃。
ろくにものを食べていなかったルカをレストランに連れていき、好きなだけ食べるんだよ、と優しげに促してくれた彼。一緒に召し上がらないのですか、とルカが訊くと、ぼくはおなかが減っていないから、と痩せた手首も隠さずにほほえんでいた。
たっぷり栄養を摂るようになったからかルカの身長が急激に伸び、小柄なディヴィーネを追い抜いた頃。
河畔に座り、手帳にびっしりと細かい文字で何かを書き付けていた彼。何を書いているのですか、とルカが尋ねると、一瞬の逡巡のあと、自分が覚えていることを書いているんだよ、と穏やかに答えた彼。
「……そうですか」
「詳しく聞かないのかい」
「ディヴィーネ様が話したくないことなら、僕は聞きません」
「そう……。君は良い子だね。君は……」
そう言って、どこか寂しげな笑みをたたえながらルカの頭を撫でてくれた。
それから――。
あれは宿泊するホテルの部屋が足りず、初めてディヴィーネと同室に泊まった夜のことだ。
あの頃は放浪の旅とでも言うべき生活を送っていて、いつも小綺麗なホテルに宿泊していたのだが、主と同じ空間で寝泊まりするのはかつてない事態で、ルカは否応なしに緊張した。二人が床に就くまでは何事も起こらなかったものの、深更、ルカは物音で目を覚ますことになる。
ルカの隣のベッドで、うなされるように呻いていた彼。それまで彼の口から聞いたことのない、切羽詰まった悲痛な叫び。
「違う、ぼくじゃない、ぼくはこんなの望んじゃいない、ぼくじゃない、ぼくじゃない……ッ」
ルカが呆然と取り乱す主の様子を見ていると、顔を覆う指の間から、不意に両眼がぎょろりとルカを捉える。そのぎらつき。そこに潜む獣じみた警戒感。
ルカの視線を遮るごとくがばりと手をかざし、脂汗を額に滲ませ、焦燥に染まった叫びを上げる。
「やめろッ、ぼくをそんな目で見るな!」
ルカはそんな彼の様子を見るのも、いつも抑制的な調子で話す彼の絶叫を聞くのも初めてで、体は驚きで硬直していた。どのくらいの時間が経ったろう、ディヴィーネの瞳からすうっと狂気の色が霧散していく。はっとしたように目を見開き、弱々しくルカに笑いかける彼。
「ごめん、どうやら良くない夢を見ていたみたいだ。外の空気を吸ってくるよ……」
ふらつく足取りで暗い部屋を出ていく彼を、少年だった頃のルカはただ見送ることしかできなかった。
そして夢の中の追想は、つい昨日の追想に追いつかれる。
出立直前のルカは、主たるディヴィーネに報告するため、彼の居室を訪れた。
「もう行くんだろう?」
「はい」
「じゃあ、頼んだよ」
「は。我が命に代えましても、任務を遂行して参ります」
腰を深く折るルカに対し、主はつかつかと歩み寄り、それじゃ困るな、と返した。面を上げて前を見やれば、深長なほほえみを湛えたディヴィーネが、すぐそこに立っている。
かと思うと、彼の華奢な体がルカの胸の中にとさり、と飛び込んできた。
そのあまりの軽さと、突然の接触に衝撃を覚え、くらりと視界が揺れる。
「あの――」
「君がいなくなったら、ぼくはどうすればいい?」
くぐもった囁き声。からかっている調子にも、切実な響きにも聴こえ、ルカの思考は変調を来す。困惑し当惑し、その場に棒立ちになるばかり。
「……必ずや、帰って参ります」
やっとそれだけを絞り出す。美貌を上向けた主は、空間すら華やぐ麗しい笑みを浮かべた。
「うん。気をつけてね」
ディヴィーネの青緑の目を、そんなに近くで見つめた日は、昨日以上にはなかった。
瞼を引き上げると、様々な思惑を乗せて空を行く機内の現実に引き戻される。
彼はどんな意図であんなことを口にしたのだろう。ルカがいなくなっても、穴を埋める人員はいくらでもいる。代わりになる人間はすぐにでも見つかるはずなのに。
ルカは自らが特別な存在だとは微塵も思ったことがない。自分はただの裏社会の歯車であり、組織のナイフであり、主人の犬だ。だからこそ、困ると言った主の考えが分からない。
そんなルカの思考とは無関係に、飛行機は極東の島国へと着々と近づいていく。
* * * *
―茅ヶ崎龍介の話
いよいよ文化祭の朝が来た。
クラスメイトからのある指令のせいで、なんとなく違和感がある脚をてくてく動かし、俺はいつもよりのんびりと登校した。そして校門に着くなり、普段とは違った学校の雰囲気に目を見張る。
校門の傍には美術部が作った巨大な看板が立ち、校庭では何人もの生徒が駆け回っている。校内でも人影が慌ただしく行き交っているのが窓から見えた。空気もどこか浮わつき、華やぎ、見慣れたはずの光景が非日常のもののように感じられる。いや、見慣れているからこそ、いつもと違う部分が日常の中の非日常感として、浮き立って見えるのかもしれない。
一般解放までにはまだ一時間以上ある。浮かれた空気の中、校舎の上を指差しながら、二人でわいわい盛り上がっている女子の後ろを通り過ぎていく。
「ねえねえ、あそこに飛んでるの、ドローンじゃない?」
「あ、ほんとだ。上から撮影してるのかな?」
「すごいじゃん! 撮ってもらお」
そちらをちらりと見やると、低くぶうんと音をたてて黒っぽいドローンが校舎の上でホバリングしていた。ポーズを決めている女子の他は、あまりドローンを気に留めていないようだ。というか、みんな忙しすぎるために、そんなものを気にする暇はないようだった。
生徒たちが最後の追い込み作業をしている廊下を行き過ぎ、開け放されていた自分のクラスのドアをくぐるなり、俺は熱烈な歓迎を受けた。拍手まで巻き起こり、生まれてこのかた経験したことのない歓迎ぶりだ。その理由はひとえに、俺がミスコンの主役の一人だからである。到着次第すぐ、俺は女子たちによって化粧を施される手筈になっていた。遅めに登校したのは、その審判の時をできる限り遅くしたいという後ろ向きな気持ちの表れだった。
暗幕が引かれ、深海生物の模型やらぬいぐるみやらがそこらじゅうに配置されている教室ではメイクはできないと、着のみ着のままの体で空き教室へと連行される。メイク担当の女子だけでなく、他の女子や男子たちもなぜかぞろぞろと着いてくる。クラスメイトは接客用のメイド服や執事服に既に着替えている者が多く、本来の役割とは逆の出で立ちに身を包んでいる人もちらほら。その中で一番機嫌が良さそうなのは、執事姿の幼なじみ、輝だった。
うわこいつ、めちゃくちゃ執事姿似合うな。
「さあ龍介、可愛くしてもらいなよ」
「うっせー。どうせそんな変わんねえよ」
「あ、言ったな? あたしたちの腕舐めてたら後悔するよ?」
唇を尖らせたところに、脅しめいた高い声が割って入ってくる。メイクポーチを手にしたメイド姿の女子たちが、目を爛々と輝かせていた。どうやら輝への軽口で、彼女たちの闘争心に火を付けてしまったようだ。内心「ひええ……」と恐々《きょうきょう》としながら、空き教室の真ん中に設えられた椅子に腰を下ろす。
この状況も心境も、まるで被告人になったみたいだな。そう思った。




