僕らとどこかのこと 炎(かぎろ)うふたつの牙Ⅱ(1/8)
―水城麗衣の話
高校の文化祭を一週間後に控えた土曜日の朝。その眠りと覚醒の合間のまどろみにあって、私の脳内では昨日あった最高の出来事が再生されていた。
思えば昨日、顔を合わせた時から、桐原先生の様子はどこか変だった。
いつもの通り、仕事終わりにお見舞いに行ったら、私が病室にいるあいだずっと彼がそわそわしている風で、けれど何事も起こらないまま、面会時間が過ぎていく。先生の様子が気になりつつも、私からは上手く切り出せずにいた。
とうとう刻限がやってきて、じゃあ帰りますね、と声をかけたら、
「待って下さい。……水城先生、お話があります」
そう、意を決した表情で引き留められたのだ。
ただならぬ気配に、思わずごくりと唾を飲み、私も立ったままで居ずまいを正す。どこまでもまっすぐで真剣な顔の桐原先生を見つめていると、世界がどんどん縮小していって、この病室に彼と私だけが二人きりで存在しているような、そんな不思議な感覚に襲われた。
そしてついに、桐原先生が口火を切る。
「水城先生。先日あなたは、私のことを好きだと言って下さいましたね。それに対して、自分の気持ちをはっきりと言葉にしてお伝えしていなかったこと、とても不実な態度だったと反省しています。私は……私も、あなたのことを大切に思っています」
そこで息を浅く吸い込んでから、
「私と、お付き合いして頂けませんか」
一瞬も目を逸らさないまま、張り詰めた表情の彼は言い切ったのだ。
あまりに突然の申し出に、何の反応もできない。投げられた会話のボールをがあまりにも大きすぎ、受け止めるだけで精いっぱいで、私は投げ返せずに呆然と立ち尽くした。このことを言い出そうとしていたから、そわそわしていたのかな。そんな彼の様を思い返しながら。
彼は思いの強さを証明するように拳を握りしめ、私をほとんど睨むように見つめていた。まだ理解が追い付いていない私は、「ええと……お付き合いというのは、どこかに同行してほしいとか、そういう意味ではない方の……?」と、小学生でも分かる念押しをしてしまう。
呆れられるかとも思ったが、桐原先生はそれどころか、ふふっと優しく破顔して首を振った。緊張した空気がやわらいで、彼の言葉がすっと入ってくるようになる。
「ええ。交際して頂けないか、という意味です」
ああ。そこで膝から崩れ落ちなかった自分を褒め称えてあげたい。こんな幸せってあるものか。桐原先生が私の気持ちを受け入れてくれたときも幸福を感じたけれど、今はそれよりも幸せだ。好きな人から、交際を申し込まれたのだから。
目頭が熱くなり、そこにいる彼の姿が滲む。私は深く何度も頷いた。
「嬉しいです……よろしくお願いします」
そして込み上げてくる歓喜の感情に突き動かされるまま、ベッドの上の桐原先生に抱きついた。先生は慌てるのと苦笑するのが半々くらいの様子で、それでも私を抱き止めてくれる。薄い入院着ごしに、確かな体温を感じた。
「良かった……ほっとしました。緊張していたもので」
「断るわけ、ないじゃないですか……。こんなに好きなのに……」
先生が自分の髪を何度か撫でてくれ、その手が頬の方へと降りてくる。はっとして顔を上げると、眩しいもののを見るみたいに目を細めた彼と目が合った。先生の無骨な手が顎に添えられるのを感じ、そっと目を閉じる。彼の手つきは少したどたどしく、まるで薄いガラスの入れ物を扱うようで。ほほえましい気持ちになりながら、触れてくる彼の唇を受け止めた。
桐原先生との二度目の口づけ。彼からキスしてもらったのは初めてだ。
私の胸の内は喜びでいっぱいで、心臓も駆け足でとくとくと脈打っている。優しい口づけの後、顔を見合わせた私たちは、どちらからともなくふふっと笑い合った。
――ああ、大好きだ。
二人の時間が名残惜しく、さっき彼がしてくれたみたいに、先生の髪を二度三度とゆっくり撫でる。彼はなんだかこそばゆいような顔をしていた。
実を言うと私は髪質フェチというか、桐原先生のさらさらで適度にコシがあり、ふわふわ感もツヤも持ち合わせた黒髪にずっと目をつけていたのだ。個人的な関係になれたら絶対彼の髪を撫でると決心していた。
桐原先生の髪は想像以上に手触りがよく、思わず気持ちいい……、と口に出して言ってしまう。
「? 撫でてる方が気持ちいいんですか?」
「はい……。私、ずっと先生の髪質に注目してて……触ったら気持ちいいだろうなと思ってたんですけど、予想以上でした……」
そこまで熱に浮かされたように言ってしまってからはっと我に返る。しまった、変態みたいなことを口走ってしまった。せっかく恋人同士になれた直後なのに、引かせてしまったのでは?
既に私の顔からは血の気が引いていたのだが、桐原先生は予想に反して口元をふっと綻ばせた。
「あなたは面白い方だ」
「あ……引きませんでした?」
恐る恐る伺うと、彼は不思議そうに小首を傾げる。
「引く? なぜです。むしろ、あなたと話していると、自分にも良いところがあるような気がしてきて――楽しいですよ」
しみじみとした言葉とは逆に、私の心臓はきゅっと締め付けられる。なぜそんなに自己評価が低いの? ずっと不思議だった。桐原先生くらい真摯で、気配りができて、まめで、優しくて、可愛らしくて、格好いい人なんてそうそういないくらいなのに。
たぶん、育った環境とか、これまでの人間関係とかに要因があるんじゃないかと思う。さすがに不躾に聞くことはしないけれど、彼の自己評価を少しでも覆したくて、病院には似つかわしくない強い語気になってしまう。
「良いところがあるなんて、そんなの当たり前じゃないですか! だって私、先生に初めて会ったときにすごく格好いいと思って……一目惚れで、それからずっと好きだったんですよ」
初対面から好きだった、と初めて伝えた。こんなことを言ったらまた彼は慌ててしまうのでは? と我に返るが、至近距離にある彼はただただきょとんとしていた。
「え、そうだったんですか? でも……以前、私の顔は変だと仰っていませんでしたか?」
「えっ嘘! 私そんなこと絶対言ってないですよっ」
ぶんぶんぶんと胸の前で手を高速往復させる。想像だにしていなかった言葉が先生の口から飛び出して、軽くパニックになった。だって、私が冗談でもそんなことを口走るなんて、冬と夏が一緒に来るくらい考えられないことだ。まさか、酒に酔ってそんな心にもない発言を? いやいや、この私が彼を貶すような物言いをするなんて、逆立ちしても脳をどれだけぎゅうぎゅう搾ってもありえない。
「私が言ってたって、それ、いつのことです?」
「うーん、あれは……ああ、春の飲み会の時です。歓迎会の席で」
腕組みをする先生と同じ格好で、私も必死に記憶を辿る。桐原先生を含む新任の先生の歓迎会か。確か桐原先生とまともに話す機会で、舞い上がってだいぶ酔っていた覚えがある。主に桐原先生と、私と、社会科の長谷川先生とで会話していた。
「あの時は長谷川先生に『俳優でもやったら』と言われたんですよね、なぜか。それで、私の顔の話になって」
「あ!」
思わずぽんと手を打った。そうだ、思い出した。その後、桐原先生に「私の顔、普通ではないですか」と尋ねられて、「全然普通じゃないです」と返してしまったのだ。しかも、何のフォローもなく。
それを彼は、私が「桐原先生の顔は変だ」と言ったと受け取ったに違いない。あまりよく覚えていないが、その時から先生は少し元気がなかった気がする。とんでもない誤解が生じていたんだ! 私はあわあわしながら弁解した。
「あれは変という意味ではまったくなくて……! 普通じゃ全然なくて、すごく格好いいって意味ですよ。それこそ、私にとっては世界で一番です。誰から見ても、先生は格好よく見えると思いますよ! イケメンですよ!」
語気とともに体にも勢いがついて、いつしか先生に肉薄していた。実に半年もの間、生じていた齟齬が解消したのだ。勢いこみたくもなる。
容姿を褒められた彼は明らかに戸惑っていた。くっ、困ってる先生も可愛いな。




