僕らとどこかのこと 炎(かぎろ)うふたつの牙Ⅰ(6/6)
ディヴィーネの居室を退去する間際、ルカは主に呼び止められた。
「ねえ、ルカ。さっきのぼくの話、続きを聞きたい?」
ディヴィーネは、ルカがもはや忘れ果ててしまった、複雑な感情を綯交ぜにした顔つきをしている。深い色味の青緑が、じっとこちらを観察していた。彼が何を考えているのか、今のルカにはすべてを推測することはできない。いや、彼の考えが真に理解できたことなど、一度もないだろう。
「先ほどの話とは、何のことでしょうか」
「……うん。それでいいよ」
淀みなく答えると、主は満足そうに頷いた。
ディヴィーネの居室の出入口をくぐりつつ、彼の視線を背中に感じながら、ルカは考える。自分は、試されているのだろうと。さながらルカを自身の右腕として使う彼は、それでいて冷ややかな、透徹した目をこちらに注ぎ続ける。主人の言い付けをちゃんと守れる番犬かどうか。美しい双眸はそう推し測っている。
ルカには彼の思考は読めないけれども、彼が求めているものは呼吸をするように分かるから、ディヴィーネが忘れろと言ったらそのとおりにする。それだけだ。悩んだり、理由を問うたり、そんな愚行は断じてしない。
ルカの行動原理はひとつだけ。ディヴィーネこそが、自分の総てである。そのただ一点。
自らの居室へ向かい、黒い壁に筋状の青い光がいくつも走る廊下を進むと、前方から近づいてくる影があった。身長百九十cm近いルカと目の高さがほぼ同じ。そんな構成員は一人しかいない。女性にしてはかなりの長身のうえ、十cm以上のヒールを履いたポーラだ。
「ごきげんよう」という彼女の挨拶をルカは黙殺し、行き過ぎようとした。彼女とは同じ枢機卿――"罪"の研究者――かつ同じ異端審問官でもあるが、親しくする義理はない。実際ここに来て十年近く経つが、表面上の言葉しか交わしたことがなかった。
だのに、ポーラの方がルカの行く手に立ち塞がった。
「無視なんて非道くはありませんこと、ルカさま?」
眉尻を下げてほほえむ彼女は、廊下の壁に半身をつけて、小首を傾げる格好だ。抑えた照明の下で、狡猾な灰色の瞳と紅い唇とが濡れたように光っている。彼女はいつも通り枢機卿用の黒い上着を素肌に羽織っただけの服装で、毛先だけを朱色に染めたブロンドの髪が一房、半分ほどもあらわになった豊満な胸元にかかっていた。
「私に何か御用ですか」
迷惑そうな調子を隠さずに尋ねる。
「そんなに嫌そうな顔をなさるものじゃなくってよ。私たち、共に活動する仲間ですもの、挨拶くらい交わしたっていいじゃありませんこと?」
「私には仲間などありません。あるのは主人だけです。用がないのでしたら、あなたと交わす言葉もありません」
「うふふ。相変わらず冷たい人ですわね。でも、私だってあなたのこと、仲間だなんて思ってはいないですわ」
油断ならない微笑を浮かべながら、ポーラは平然と嘯く。自分の眉間の皺がどんどん深くなっているのが分かる。
ルカにとって、ディヴィーネ以外の人間など歯牙にもかけない存在だった。世界にはディヴィーネか、それ以外の人間しかいない。主以外にかける時間など、無駄以外の何物でもない。
「そうですか。私はこれで」
「お待ちになって」
ポーラの脇を通りすぎようとしたところ、不意に視界がぐるりと回転した。静止したタイミングで何かと見れば、ポーラがルカの体に密着し、壁際に押し付けているのだった。
甘ったるい香水と、化粧品の匂いが鼻を突く。真っ赤なマニキュアが施された手が、ルカの逃げ道を塞ぐように、顔の両脇に宛がわれている。間近に迫りすぎた両目には、底意地の悪い輝きが宿っていた。
こんなに近くで見ても、この女が何歳なのか予想がつかない。外見は二十代半ばから後半だが、ルカがここに来てからの十年弱で、ポーラの容姿は全くと言っていいほど変化していなかった。とはいえ、他人の年齢なんて知らなくても困らない。興味もない。
ポーラの腕を折り、細い首の内部を砕くまでに何秒かかるだろう、とちらと考える。相手が凡人ならばすぐさま行動に移しても良かったが、主にとっては彼女も大事な戦力の一人だろうことはルカも理解していた。加えてポーラには厄介な能力がある。ディヴィーネ以外の人間に触れられるのは不快の一言でしかなく、腹立たしいことこの上ないが、大人しくこの蛇に似た女が去るのを待つことにした。
「何がしたいのですか、あなたは」
「そんなに睨まないで。話をするくらいいいじゃない?」
ふふふ、と笑い声を漏らして、ポーラがさらに体を密着させてくる。柔らかいが弾力のあるふたつの脂肪の塊が、布を数枚しか介していないルカの胸の上でむに、と形を変形させた。内側から空気でぷっくりと膨らませたような双丘は、彼女の上着の袷を両側に引っ張る格好になり、見える肌の面積が一層広がる。薄い肌組織の下に、青い血管が通っているのまで伺えた。
あまりの不快感に、ルカは暴れだしそうになる両腕をぐっとこらえなければならなかった。
ポーラの片手の指がつ、とルカの頬を撫でる。背中がぞわっと粟立った。秘密を打ち明けるような囁きが、ルカの耳朶をくすぐった。
「ねえ、キスしてもいい?」
「……。それは、あの方のご命令ですか」
「ふふ、冗談ですわ。坊やには分からなかったかしら?」
「……」
どこまでも食えない女だ。そう思いつつ、眼前に迫るポーラの双眸を睨みつける。人を揶揄するような瞳の奥に、確かな敵意がちらついていた。眼差しで争うように、数秒間視線を交錯させる。端から見たら、火花が散って見えたかもしれない。
先に目を逸らしたのはポーラだった。もう興味を失ったように、ほほえんだままでするりと体を離す。嫌悪感が波が引いていくごとく遠くなって、やっとルカの思考から熱が引いた。
「坊やが取り乱すところを見たかったのだけれど。つまらないですわね」
「それは残念でしたね」
他人事のように言い返す。ポーラはふふっと笑みを深くして、後ろ手にひらひらと手を振る。
「それでは、ごきげんよう。ルカ様」
「……」
無言で女の後ろ姿を睨めつける。そういえば、こんな場所で人と出会すことは経験上稀である。ポーラが向かう先には主の居室しかないからだ。彼はむやみに他人に構われるのを嫌う。ルカだって、ディヴィーネに呼び出されない限り部屋を訪れるのは控えている。
それが気になって、遠ざかりつつある背中に問いかけた。
「あの方に御用がおありなのですか」
「あら? 私と交わす言葉はないのではなくって?」
振り返ったポーラは明らかに面白がっていた。ルカが黙りこくっていると、相手は肩を竦めてから妖艶な笑みを浮かべる。どこか勝ち誇った表情にも見えた。
「ディヴィーネ様にお願いしたいことがありますの。今日はそれのお許しを得に、と思いまして」
「お願い……あなたからの、ですか」
「そうよ」
「……良いご身分ですね」
皮肉を刺したつもりだったのに、何がつぼに入ったのか、ポーラはくつくつと忍び笑いを漏らす。
「うふふ……だって、あなたたちより私たちの方がずっと長くここにいるんですのよ。坊や、意外と面白いことを言うのね。――ここは、トゥオネラは、私たちの庭みたいなものなの。……いいえ、庭というより、私たちにとってはここがすべて。トゥオネラが世界のすべてなのですわ」
「……」
ポーラがすいと目を細める。凡人なら震え上がるほどの、凍てついた絶対零度の視線。血の色に染まった指先が、弧を描いた同じ色の唇に触れる。小首を傾げた女が、言葉を続ける。
「ね、ルカ様。あなたたちは外の世界から来たでしょう。でも、私たちにはここ以外に、行ける場所なんてありませんのよ」
――だから私たちは、坊やのことが嫌いなの。
それは、ぞっとするほどの色気を孕んだ囁きだった。
さしものルカも、彼女の害心に飲まれそうになる。じわじわと毒に侵されていくような気がした。その場に釘付けになったように、脚が動かない。
「それをゆめゆめお忘れなきよう。それでは」
ルカを尻目に、ポーラは慇懃に礼をしてみせた。不敵な笑みをこちらの網膜に残し、女は主の元へと足を向ける。
ルカはそれからもしばらくその場に佇んでいた。ハイヒールのたてるカツン、カツンという高い反響音が次第に遠くなっていく。しばしの間でも我が主があの女と二人きりだと思うと、胸のあたりがざわざわして落ち着かない。主の前では感情の起伏が薄くなってきたと自覚していたのに、このどろどろとした、反吐が出そうなほどに黒々しい感情は何なのだろう。
「私だって、ここ以外に居場所などありません」
呟く独り言は、トゥオネラの冷たい空間に霧散していって、跡形もなく消える。




