僕らとどこかのこと 炎(かぎろ)うふたつの牙Ⅰ(5/6)
「未咲さん、君にはわたしがいないと駄目なんだって言ってた。俺はそれがすごく羨ましかった」
「はあ……」
「知らないかい? 本当は未咲さんは、君を……。いや、これは俺が言っていいことじゃないな。とにかく、俺は彼女の隣にはいられなかった。俺が言えた義理じゃないけど、未咲さんへの気持ちは本当だったから、彼女には笑っていてほしいんだ。だから、茅ヶ崎くん、よろしく頼むよ」
元気が取り柄の幼なじみへの熱い想いを口にする目の前の人が、何を言っているのか全然飲み込めなかった。
なぜこんな完璧な人間が、俺を羨ましがるんだ? 俺が羨ましい? いつもあいつにお節介を焼かれているだけの俺が? 笑っていてほしいからよろしくって、どういうことだ?
九条悟が無理やりほほえむと、縁でぎりぎり耐えていた涙が筋となり、すうっと一直線に流れ落ちた。その様子があまりに綺麗で、慌てるのが遅れた。
――いや待て、もしかして、俺が泣かせたみたいになってないか?
先輩が手の甲で滴を拭う。傷ついたような笑みを浮かべながら。
「ごめん、みっともないよな。後輩相手にこんな姿見せて……」
「これ、どうぞ」
「いや、ハンカチ持ってるはず――」
「使って下さい」
鞄から出したティッシュをずいと押しやる。俺は良かったが、彼の泣き顔を同じ学校の生徒には見られたくないと思った。学校の最寄り駅であるから、どこに学校関係者の目があるか分からない。
九条悟がありがとう、と小さく言って受け取ってくれる。目を押さえる彼に、自分が思ったことを伝えようとした。
「みっともないなんて、別にそんなことないと思いますけど。俺なんかに気を遣わなくてもいいし、誰だって、泣きたいときは泣けばいいんじゃないですか。……さっき言われたこと、あんまりよく分かんなかったけど」
こんなときでさえ、優しい声音を作ることができない俺は、本当に人を慰めるのが下手だ。
それでも生徒会長は――幼なじみの彼氏だった人は、淡く表情を和らげた。
「君は優しいね。男らしくもあるし……。未咲さんが……うん、分かるよ」
そんな状態の彼に更なる説明を求めるのも酷だと感じられ、俺はしばらく先輩の気が済むまでコーヒーをちびちび飲み進めることに徹した。
帰りの電車は先輩の方が先だったから、流れでホームまで見送りに行った。
一回り小さくなったように見える彼を、放っておくのもやや気が引けたからだ。
「誰かに言う? 俺がぼろぼろ泣いてたって」
「言うわけないでしょう」
乗車列の後方で、そんな後ろ向きな発言を食い気味に否定する。
彼が笑うが、もうその目尻から涙がこぼれることはなかった。
「そっか。……ありがとう。なんかすっきりしたよ」
「そうすか」
ありがとうと人に言われるのはまだ慣れず、照れ臭い。思わず視線を落とし、自分の靴先をいじいじと動かしている間に、電車ががやって来た。
じゃあ、また、と電車の内側ぎりぎりで九条悟が片手を上げる。
「今日みたいな方が、人間味があっていいと思いますよ」
相手がびっくりしたように目を丸くしたところで、電車のドアがちょうどよくぷしゅうと閉じた。
遠ざかっていく電車を眺めながら、未咲のことを考える。
――未咲が? 俺をなんだって?
あいつには俺からも、まだ言えていないことがある。間近に迫った文化祭で、二人きりになれる時がチャンスだ。きっと。
自らを奮い立たせるようにしながら、自分の路線のホームを目指して、階段を一段一段降りていく。
* * * *
―ルカの話
ルカたちが過ごすその場所は、トゥオネラと呼ばれていた。
トゥオネラとは、フィンランド神話に登場する、死者が眠る凍てついた国の名である。そこは暗く冷たい冥府で、流れる川には白鳥が泳いでいるという。
トゥオネラの名を冠した闇の底。死者の代わりに蠢くのは、"罪"の名を標榜する組織の構成員たちだ。光ある社会から自身を抹消することを選び、世界の裏で暗躍する亡霊たち。
ルカは、その名は自分たちに相応しい、と思う。
主の広々とした居室で、ルカは上半身をひんやりとした空気に曝していた。上着はきちんと畳まれて、傍らのテーブルの上に乗せてある。剥き出しの腕や胴のそここにはクリップが取り付けられ、そこから線が伸びている。幾筋もの線は、ディヴィーネの手元にある機械――モニタを備えた箱のようなもの――へと繋がっていた。
モニタから顔を上げたディヴィーネが、美しい顔立ちをにこりとほほえませる。
「数値に問題はなし、だね。どう? 眠らなくてもいい体になった気分は」
「これで自分の時間を全てあなたのために費やすことができます。喜ばしいことです」
「そう。嬉しい?」
主が凪いだ目をして問う。
嬉しいとは、どんな感情だったろうか。ルカは考えてしまう。自分にとって、主のためになることと喜びや嬉しさはイコールで繋がれるものであって、その逆もまた真である。すなわちディヴィーネの益になるから嬉しい、と言うのは、嬉しいから嬉しい、と言うのと微塵も変わらず、それはトートロジーに等しい。
ルカ自身は、感情の波が薄れていっているのは良い兆候だと感じていた。ルカの体の三分の一ほどはもはや、無機物に置き換わっている。喜怒哀楽の薄れが、そのことによるものなのかどうか、当のルカには判断がつかなかったが。
今回も、睡眠を取らずともよい体になるために、幾度目とも知れぬ外科手術を受けた。体にメスを入れた回数など、とうに忘れている。
ややあって、主の問いに応える。
「……はい」
「ふふ。嘘はよくないね。今、君の感情はちっとも動いていないはずだよ」
「私は……」
「いいんだよ。ねえ、ルカ。君はどんどんヒトから遠ざかっていくね」
こちらへ歩み寄りながら、ルカの主たるその人は呟く。
ふいに、利き手の左手が、ディヴィーネの両手にそっと掴まれた。わずかに冷たく、さらりとした、その掌に。
「ねえ、ルカ。もし君が、完全にヒトじゃなくなったら……その時はぼくは……君を……」
主は、その完璧に整った麗貌を、苦しそうにも見える形に歪ませる。眉尻は垂れ下がり、目元に力が入り、目は細められて、泣き出す直前に似ていた。
しかし、薄く色づいた唇は、それ以上何事も紡ぐことなく閉ざされる。
「……ううん、何でもない。忘れて」
「はい」
ふるふると何かを振りきるように頭を振る主に対し、ルカは従順に頷いた。
服を着ていいよ、と告げたディヴィーネは身を翻らせ、居室の壁一面を埋めるスクリーンの前に立つ。スクリーンは数十にも分割され、トゥオネラのほとんどの部屋の様子が映っている。ちらちらと発光し動く映像を背にしたディヴィーネの顔は逆光で見にくいが、ルカの目に埋め込まれたデバイスが自動で光量を調節し、主の口元が動くのをルカに見せてくれる。
「君に頼みたいことがあるんだ」
「どうぞ、なんなりとご命令下さい」
衣服を纏い直したルカは、夥しくケーブルが這う黒々とした床に跪いた。
ディヴィーネが手元を操作する。瞬間、スクリーンの表示が切り替わり、様々なアングル、様々なシチュエーションで撮られた一人の少年の映像が現れた。同一人物が何十人も平面上で動き始め、顔だけを上げてそれらを見るルカは、しゃがみこんだままで軽い眩暈に襲われる。
その少年。目付きが多少鋭い以外に取り立てて特徴のない、拗ねたような表情ばかりの、日本人の高校生。
どこにでもいそうな容姿の彼を、しかしルカは知っていた。
――茅ヶ崎龍介。
彼は、"保種者"だ。
主がスクリーンの前で、しずしずと両手を広げ、厳かに告げる。神託のように。啓示のように。
「頼みたいのは、彼のこと」
「何をお望みですか、我が主よ」
「彼の全てを」
その声はいっそ密やかであるのに、ルカの耳にははっきりと届いた。
平伏して御意、と答えると、さあルカ、顔を上げて、とディヴィーネの軽やかな言葉が促す。ルカが面を上げると、主がこちらへ歩み寄ってくるところだった。そのまま眼前に達したディヴィーネは、ルカの手をふわりと取って立ち上がらせる。
目の前にある美しい顔には、誰の心をも蕩かしてしまえるような、柔和でいて意味深なほほえみが湛えられていた。
「土壌は整った」
なめらかな両手が、ルカの利き手を包む。
ディヴィーネは満面の笑みを浮かべる。
「さあ、ぼくらの蕾を迎えに行こう」
はい、とルカは深く首肯した。




