僕らとどこかのこと 炎(かぎろ)うふたつの牙Ⅰ(3/6)
学校についてのとりとめもない会話を交わす。
「文化祭の準備は順調かね」
「ああ、はい。でも先生が来られなくて残念です」
「そうだな、君のコンテストの姿も見てみたかった」
「いや、それは見なくていいです……」
相手が冗談めかして言うのへ、がくりと肩を落として答える。自業自得といえばそうだが、俺は嵌められて出場するようなものだ。当日のことを考えると壮絶に気が重い。ランウェイ(と言っていいのかどうか)を一緒に歩く相手が、お盆の一件以来関係がぎくしゃくしたままの未咲であることも、憂鬱な気持ちを加速させた。
「それよりも、クラスのみんなが残念がってますよ、先生が来られないからって」
「それは……そんなことはないだろう」
目の前の端正な顔に、若干の戸惑いが生まれる。俺は小首を傾げた。
「もしかして知らないですか? 先生がけっこう生徒に人気あるの」
「なに……?」
面食らった丸い目で見返され、自分の方がびっくりする。どうも、受け持ちの生徒たちにどう思われているか、先生は知らないようだ。
俺は手持ち袋から、真四角の硬い紙を取り出す。今日病院に来たのは、これを先生に渡すためでもあるのだ。
「これ見てみて下さい。クラスのみんなの寄せ書き」
「寄せ書きだと? 皆書くこともないだろうに……」
困惑しながらも、骨張った大きい手がそれを受け取る。
この色紙は、先生の入院早々に輝が呼びかけて皆で書いたものだが、入院場所が分からなくて今まで行き先無沙汰になっていた色紙だ。
思い思いの場所に、色とりどりのペンでメッセージが書き込まれており、俺も全部読んだわけではないが、「早くケガが治ることを祈っています。お大事にして下さいね。」というごく真摯なものから、「桐原先生の授業じゃないと分かりにくくて困ってます!! 早く帰ってきて下さい!!」というユーモア混じりのものまで内容は様々だ。クラスメイトは特段悩むこともなくすらすらと書き込んでいた――未咲以外は。
当の桐原先生は、それをやや硬直した顔つきで読んでいる。
しばらくしてふと目線を上げると、ふっと表情を和らげた。
「まさかこんなものを受け取ることになるとは思いもしなかった。みんな私がいなくなってせいせいしているかと思っていたからな」
「いや、そんなことないです。先生の授業は分かりやすいってみんな言ってるし」
桐原先生が病室の窓の方へ視線をやり、どこか遠い目をする。つられて外に目をやると、まだ色づくには早い、しかし水分を失い始めている葉を繁らせたイチョウの木があった。先生と出会って、もう半年になる。
先生の次の一言は、独り言のようだった。
「……私は、結局……いや、こういうのも悪くないかもしれないな。私も、焼きが回ったということかな」
「……?」
「前の学校にいたときまでは確かに嫌われ役に徹していたと思うんだが――君や水城先生に会って、私は変わったのかもしれない」
桐原先生が不意にこちらを見た。
内省的なその言葉。
今の文脈で自分が出てきたことには嬉しい気持ちが湧いてきたが、もう一人の名前の方が気にかかった。水城先生といえば、俺がしばしば授業をサボるのに、妙ににこにこしながら話しかけてくる人だ。また、直接的な表現をしてしまうと、少なくない数の男子生徒を、その胸のラインで日々悶々とさせている先生でもある。彼女については生徒のあいだで囁かれている話があるが――。
「水城先生といえば、桐原先生と水城先生が付き合ってるって噂はほんとなんですか」
我ながらもっと気の利いた言い方はできないものかと思いながらストレートに尋ねる。と、いつもクールな桐原先生の頬にうっすらと朱が差した。瞳が揺れ、視線が逸らされ、おや、と思う。
「いや、それは……どこで噂を聞いたんだ」
「うーん、学校中で、ですかね」
「なんだそれは……あいつか? ヴェルの仕業なのか? くそ、やはりあいつは後でこってり搾ってやらねばならん」
ぶつぶつと呟く先生がいつもとうって変わって可笑しくて、密かに笑いを堪える。
「つき……交際しているのかと訊いたな。それは……まだ、そういう段階にはない。それ以上噂を広めんでくれ」
「まだ……?」
「ああ、まだというのは、その、だな……」
狼狽する先生に追い打ちをかけるような返しをしてしまったことを反省しつつも、俺は彼の反応に目を離せないでいた。普段は落ち着いた大人の男性といった雰囲気なのに、今目の前にいる彼は自分とそう年齢の変わらない、まだ物事に動じやすい年頃の青年に見えたからだ。
もはやあからさまに頬を染めた先生が、ぱたぱたと手で顔を扇いでいる。
「すまん、こういう話題はあまり得意でなくてな……。深く突っ込まないでくれると助かるんだが」
「ああ、はい。俺もそんな、得意な方じゃないのにすみません」
「いや、不甲斐ないところを見せてしまって申し訳ない」
「そんなことないです。桐原先生って」
けっこう可愛いですね、ととち狂ったことを口走りそうになり、口をつぐむ。自分の二倍近く長く生きている立派な男性に向かってそれはないだろう。
空気を切り替えるように、先生が真剣な目をする。
「彼女は――水城先生は気に病んだりしていないか? 私との噂が立ったりして……」
「いやあ、水城先生が桐原先生を好きだってことは、ずっと前からみんな知ってますし」
「何だと?」
「だいぶ分かりやすかったと思うんですけど……」
「そうなのか?」
水城先生から桐原先生好き好きオーラが放たれていたことは、おそらく遍高校の一年なら前から誰でも知っている。俺でも分かるくらいだから本当に誰でもだ。みんな分かっていて知らないふりをしているのだ。公然の秘密というやつだ。
桐原先生は今までに見たこともない驚愕の表情を浮かべ、絶句してしまった。
桐原先生の珍しい表情が見られたのは良いことだが、俺は本来こんな話をしに来たのではなかった。
おほん、と咳払いして、話題を軌道修正する。
「あの、先生、その怪我のことなんですけど……やっぱり、影が関係してるんですかね」
すると相手はベッドの上で居ずまいを正し、そうだと頷く。
やはりと納得する。学校側に伝えられた話は目眩ましだったのだ。
そして俺は、一番訊きたいことを尋ねた。
「やっぱりそれって……俺のせい、ですか」
言葉は自然と歯切れの悪いものになった。答えを聞くのが少し怖かったからだ。
"罪"という組織の人間が俺を襲う可能性がある、という説明は以前受けていた。ヴェルナーは可能性は五分五分だとか言っていたが、自分を狙う奴らが現れ、俺を守ろうとしたとかそんな理由で、先生は巻き込まれたのではないか。そんな予測を立てていた。
俺は教師として桐原先生が好きだし、尊敬もしている。そんな人が自分のせいで大怪我をしたのかと思うとたまらなかった。
桐原先生がベッドの上で背筋を伸ばし、いや、と一言否定する。それだけで俺の両肩からどっと力が抜けた。
「この怪我は、君とは別の件だ」
「そうなんですか……それなら良かったというか、いや怪我してるんだから良くはないけど……」
前にもこんなやり取りがあったなと思い出す。どうも俺は自意識が過剰なのかもしれない。俺の周りに影の大人たちがいる。そんな風につい考えてしまうけれど、大人だって一人一人が中心であり、事情を抱えているのだ。
先生がやや目を細めて俺を見上げる。
「君に話していなかったことがひとつある。私は以前、影に身を置いていたことがあると言ったな。今現在も、また影に籍を置いているんだ。教師としての仕事を優先させてはいるが……。訊かれたら答えるつもりではあったが、黙っていてすまなかった」
言われて、驚きはなかった。俺の護衛が桐原先生の家を拠点に行われていると聞いたときから、ぼんやりと予想していた。
「いや、なんとなくそうかなとは思ってました。あまり色々なことを言って、俺を混乱させないようにしてくれたんじゃないですか?」
「ああ……そうなんだ。さすが察しがいいな」
先生がそこでわずかに唇を笑ませる。尊敬している相手に褒められて嬉しくなった。
しかし、その笑みはすぐに引っ込んでしまう。




