彼らのこと スプレーマムの告白(7/7)
「……言ってみなさい」
「あなたはあんなことがなければ、最後まで僕に"英雄"の正体を教えるつもりはなかった……そうですよね?」
「……。そうだ」
「"英雄"は、尊敬を集めるのは好まないと?」
「大切な人一人守れない人間が、英雄であるはずがない」
ひとつ息を吐く。めくっていたページを閉じ、サイドテーブルに本を重ねる。
ハンス君も知ったのだろう。己が尊敬していると豪語していた人物の正体が、目の前にいる男だと。
私自身は、自分が英雄だなどと、一度も思ったことはない。大切な人と引き換えに集めた称賛など、塵芥ひとつの価値さえないから。さらに言えば、英雄という呼び方には皮肉の意味合いしか感じられなかった。ハンス君と初めて顔を合わせた夜、英雄を尊敬している、との話を聞き、胸中に生まれたのはただただ苦々しい思いのみだった。
しかしながら、今は若干の心境の変化がある。
英雄であるはずがない、という台詞を吐きつつも、心はあまり波立ってはいない。少し前までは英雄とルネの話題がちらつく度に、激情が迸っていたのに。現在はそれどころか、凪いだように落ち着いた気持ちの状態なのだ。
彼女に、きちんとお別れできたからだろうか。背にラベルの付いた本を書架から取り出してくるように、ルネのことを、自分とは切り離したものとして考えられていることに自分で驚く。それが忘却でないことを信じたい。
今ここに至り、ひしひしと感じるのは水城先生への恩の感情だ。彼女が心を砕いてくれなければ、自分の心をこの状態まで持ってこられることはなかっただろう。そして、ほんの零コンマ何パーセントかだが、ヴェルナーの力添えも無視はできない。本当に、ほんの零コンマ何パーセントにせよ。
正体を知って幻滅したかね、と問うと、自分でもよく分かりません、との答えが返る。
ヴェルナーさんも人が悪いんですよ、とカーゴパンツのポケットに手を突っ込んだハンス君が続けた。唇は弓形になっているが、双眸はまったく笑っていない。
「全部知っていたくせに、桐原さんに接触するのが決まった段階になってからですよ、あの人が英雄の名前を持ち出してきたのは。その時なんて言ったと思います? "英雄のことは錦が知っているから、会ったら訊いてみろ"ですよ。それまで何年も、英雄の見聞を匂わせることすらなかったのに。笑っちゃいますよね」
「それは、おそらく――」
「分かってますよ。桐原さんの心情を慮ってのことでしょう。英雄のことを訊かれてあなたがどう出るか、その態度と対応を窺おうとしてたんでしょうね。勝手に自分の口から話すことはせず」
そう言われて、今さらながらはた、と思い当たる。奴が――ヴェルナーが全てを知っていてなお、ハンス君に問いかけをさせた理由を。
――桐原さんは、"英雄"のことをご存じなんですよね。
――ヴェルナーさんから、桐原さんが"英雄"について知っていると伺って。
あれは、ルネとの別れから八年を経た私の気持ちがどういう状態にあるのかを知るための、ヴェルナーなりの手探りだったのではなかろうか。ヴェルナー自身の口からルネと英雄についてどう思ってる、などと問われれば、私は素直な答えなど返してやらなかったに違いない。だからあれは私を苦しめるための行為というわけではなく、本音を引き出すために選択した行動だった――そんな可能性も考えられないだろうか。
だとしたら、奴のあの言葉は。
――お前は目を背けてるだけだ。ただ逃げたいだけだろ。生きることから。
――俺ァ軽蔑するね。死ねないから生きてるってだけの奴をよ。
私を貶めるのが目的ではなく、発破をかけるのが目的だったとしたら。
そこまで考えて、頭を振る。あいつが私に対して、そこまで殊勝な振る舞いをするとは思えない。
思考の渦の中から、ハンス君の声が私を現実に引き戻す。
「ヴェルナーさんね、今、ちょっと寂しそうなんですよ。あなたがいないから」
「あいつが? まさか」
「本当ですよ。あの人のあんな拗ねた子供みたいな顔、初めて見ました。桐原さんが年上だから、ヴェルナーさんも甘える気持ちがあるんでしょうね」
「ヴェルに甘えられても嬉しくないな」
そうでしょうね、と笑いが返ってくるかと思いきや、ハンス君はそうですか? と冷ややかな声音で疑問を露にする。
「僕は羨ましいですけどね。だってヴェルナーさんと十年以上一緒にいるのに、僕はそんな顔見たことないんですよ。あなたが彼と一緒にいた時間なんて、僕のたかだか何分の一か、何十分の一かじゃないですか。それなのに僕はあなたに敵わない。どうしてですかね?」
冷めた口ぶりの中に、ただごとではない高ぶりの気配が漂い始める。不穏なものを感じて青年の碧眼を見つめると、その奥にうっすらとした敵意さえ宿っているようにも思えた。
「ハンス君……どうしたんだ。少し落ち着け」
「僕? はは、やだなあ、僕は落ち着いてますよ。ねえ、どうしてだと思います? 僕が悪いんでしょうか。僕の何が悪かったんでしょうね? 僕は悶々としているのに、あなたはそれが当然のような顔をしている。その違いは何なんです? 教えて下さいよ、桐原さん」
いつの間にか、ハンス君の声はぞっとするほどの冷酷さを帯びていた。
反して、目には気が狂れたような尋常ではない熱量が――しかも黒々とした熱がこもっている。室温は快適なはずなのに、こめかみに冷や汗が浮く。彼は一歩も動いていないのに、彼が放つ異様な雰囲気がこちらまで迫ってきて、圧迫感を覚えた。これが彼の本性なのではないか、という気がするとともに、この負の気に飲まれてはいけない、と自分を強く保とうとする。
「あなたが羨ましいと言ったのは本当ですよ。日本に来て、一日交代で茅ヶ崎くんを見張っているから、ヴェルナーさんの顔をめっきり見なくなってしまった。それでもあの人は別に普通だった、何ともなかった。それなのに、あなたが入院したら途端に機嫌が悪くなる。ねえ、どうしてです? 僕に何が足りないんです? 僕はどうすれば良かったんですか。ねえ、桐原さん、教えて下さいよ」
つう、と背筋を汗が伝うのが分かった。
私はこの、本音の読めない青年に対し、恐怖心を抱いている。ポケットに突っ込まれた手にナイフが握られているのを、脳が勝手に想像している。
私は視線を固定したまま、視界の端にある病室の扉に意識を集めた。この怪我だらけの体では、あそこに辿り着くまでに何秒もかかるだろう。ここは個室だ。私がずたずたにされ、物言わぬ肉塊となっても、看護師の悲鳴が凶行を明らかにするまでには、何時間もかかるに違いない。
ハンス君はずっと、唇に形だけの笑みを貼りつけている。
「どうしたんですか、桐原さん。具合でも悪いんですか」
「……いや。大丈夫だ」
顎の冷や汗を拭い、青年の冷静さを呼び戻そうと、言葉を選びながら呼びかける。
「ハンス君。どうして、教えてくれと言われても、私には答えようがない。ヴェルはともかく、私は君のことをまだよく知らないんだ。適切な解を得るためには、適切な条件付けと適切な問いが必要だ。それは、分かるね」
「……」
ハンス君の形式だけの笑みが引っ込み、一瞬虚ろな表情が現れる。誤ったか、とひやりとしたが、数秒後には眉や目元に穏やかさが戻ってきた。カーゴパンツから両手が引き抜かれ、もちろんそこには何も握られてはいない。ばつが悪そうに頬を掻きながら笑う様子は、年頃の普通の青年だった。私は胸を撫で下ろす。
「すみません。取り乱したみたいで」
「いや、謝ることでもない。それより、君たちは……君とヴェルナーはただの師匠と弟子ではないだろう。何かあいだに複雑な事情がありそうだが」
この二人が初めて私の部屋に来た日に、別々の部署に所属しているという話は聞いた。そのことからして、訳ありな関係であることは自明だ。問題は、その訳の部分がハンス君にとっては不服なのではないか、と察せられるところだ。
金髪の青年が物憂げに目を伏せる。
「そうですね。それについてはお話しする日も来る……かもしれませんね。今日のところはちょっと、お暇してもいいですか。頭を冷やしてきた方がいいみたいなので」
「ああ……」
私が頷くと、穏和な顔に意味深な笑みを浮かべつつ、ハンス君は足早に病室を出ていった。
あのドイツ人の二人には何やら確執があるのだろう。ハンス君はどうも危うい。私には仔細は分からないが、彼の胸の内に抱えられた闇について、ヴェルナーは知っているのだろうか。二人の気持ちと考えに齟齬が生じていないことを願うばかりだ。
いまだにぐっと握ったままだった拳を無理やり開くと、そこはじっとりと手汗で濡れていた。




