僕らのこと 君との距離(1/2)
─茅ヶ崎龍介の話
時が流れれば季節は移ろう。花は散り、緑は色づき、樹から離れる。
人もやがて変わる。一人一人も、その関係も。
放課後。
高校に入学し、軽い緊張とともに初めての中間テストを受け、その結果に一喜一憂したのも過日のこと。新入生も毎日の生活に慣れ、ある者は部活に精を出し、ある者はバンド活動に熱中し始め、ある者は上級生の異性に熱を上げだす。そんな時期だった。
俺はといえば、部活にも入っていない。バンドを組んだわけもない。ましてや好きな先輩などいない。授業が終わると図書室に直行し、数学関連の書籍を探し、閉館時間まで数学の問題に一人取り組むという生活を送っていた。我ながら地味な日々だ。
図書室というと、小中のイメージからあまり良い印象を持っていなかったが、この高校の図書室を見て認識を改めた。図書室の中は明るく広々として清潔感があり、漫画コーナーや新刊コーナーがあってタイトル数も充実している。何より居心地がいい。試験前には人で溢れかえるが、今は座席に困ることもない。
俺が図書室に籠っている頃、幼なじみの二人は当たり前のように部活に励んでいる。未咲は中学から続けている陸上部で、輝は写真部と新聞部を兼部しているらしい。取材をしに行くのか、カメラを手にした輝が教室を出ていくのを時々見かける。
ゴールデンウィーク頃までは三人そろって帰ることもあったのに、最近ではめっきり少なくなった。一人で電車に乗っていると、降車駅までの時間がやたら長く感じられる。
今日も図書室に行こうかと考えながら、必要な教科書やノートを鞄に詰めていると、筆記具やカメラを携えた輝が通りかかった。その横顔に声をかける。
「よう輝。取材かなんかか?」
輝が振り向いて、人好きのする笑みを浮かべる。
「うん。これからインタビューしに行くんだ」
「部活、そんなに忙しいのか? 文化部の活動って週一とかじゃねーの」
「僕の場合、兼部してるからね。それに、全体の活動の他に個人でも色々仕事があるから」
「ふうん……」
中学も幽霊部員だった俺には、部活での個人の仕事がどんなものかぴんとこない。
「龍介も何か部活やればいいのに。この高校、なかなか面白い部活たくさんあるみたいだよ。冒険部とか三味線部とか」
「例に挙げるのなんかおかしくね?」
「あはは、いや、それは冗談だけど。でも部活に入って、他のクラスの同級生とか上級生と知り合いになるのは悪いことじゃないんじゃない?」
「興味もない部活に入ってわけ分からん奴らとわけ分からんことをするくらいなら、一人で黙々と数学に向き合ってた方が数十倍ましだ」
憤然と答えると、輝はちょっと悲しそうな顔をした。
「ああ、そういえば」
と、気を取り直したように言う。
その次の言葉が爆弾だった。
「未咲に好きな人ができたみたいだけど、龍介は知ってる?」
「──え」
なんだそりゃ。知らない。
二の句が継げなかった。
そういえば最近、未咲が妙に浮かれていたように思う。あれはそのせいだったのだろうか。少なからず動揺している自分に気付いて、俺は自身に腹が立った。
「知らねえ。確かなのか?」
「おそらくね。相手は多分……」
「待って、相手も分かってんのか?」
どうして輝がそんなに詳しいのだ。軽く冷や汗をかいてきた。
「うん。多分、この高校の今の生徒会長だよ。名前は九条悟」
「生徒会長? なんでそんなのと未咲が……どういう接点だよ」
「未咲は学級長だからね。生徒会で当然顔は合わせるだろうね」
輝が苦笑とともに答える。
そういえばそうだった。未咲が生徒会員だということをすっかり忘れていた。
しかし、生徒会長が相手とは──恐れ入る。
「そうそう、これからその生徒会長にインタビューしに行くところなんだけど、よかったら龍介も来る?」
なんだと。
思わず頷きかけて、慌てて首を横に振る。
「──いや、部外者が着いてったらおかしいだろ……」
「じゃあ、龍介に書記役をお願いしようかな。役割があれば大丈夫でしょ」
にっこりと底の知れない笑顔を作って、輝がテープレコーダーと筆記具を俺に差し出した。
インタビューの場は、人のいない特別教室だった。俺が輝の後から教室に入ると、一人の生徒が椅子からさっと立ち上がってこちらを見た。
うわ、と声が漏れそうになる。生徒会長というとガチガチの真面目な生徒を想像していたが、九条はそういうタイプではなかった。制服は規定どおりきっちりと着ているものの、口元には柔らかな笑みが浮かび、しなやかな身のこなしは運動神経のよさを感じさせた。好青年を絵に描いたような人間だ。そして背が高い。百八十cm近くあるだろう。
輝が九条に向かって頭を下げる。
「お待たせしてすみません、九条先輩」
「大丈夫だよ。今日はよろしく」
快活な声で言い、五月の快晴の空のように爽やかな笑みを浮かべる。うっと息が詰まった。自分とは絶対に相容れない類いの人間だ。
九条が俺の方を見て、少し不思議そうな表情をする。
「あれ? 一人だと聞いていたけど……」
「あ、こちらは僕の友人の茅ヶ崎龍介くんです。書記役をお願いしました」
俺は無言で会釈した。
「あ、なるほど。君もよろしくね。二人とも一年生かな?」
「はい」
「高校にはもう慣れた?」
そうですね、と輝が答える。
どうやら九条は人と話すのが好きな質のようだ。初対面の相手と笑顔で言葉を交わすなど、自分には到底できない芸当だ。
九条は嬉しそうな様子でうんうんと頷いている。
「それは良かった。二人は何の部活に入ってるの?」
「僕は新聞部と写真部に」
「……俺は、何も」
そう言うが早いか、九条は俺に笑顔を向けた。白い歯が眩しい。
「そうなんだ、じゃあバスケ部入らない? 俺バスケ部員なんだけど、もう何人か新入生入ってほしくて……って、俺が話してたら意味ないよな。ごめんね」
ばつが悪そうな顔もまた爽やかである。輝はにこにこしたまま、いえ、大丈夫ですよ、などと言葉をかけ、九条に腰を下ろすよう促す。
二人ともよくそんな愛想よく会話ができるな、と俺は傍観者のように考えていた。
「それじゃあ、本題に移ろうか。文化祭のことについて聞きたいということだったよね」
「はい。早速ですが、今年の文化祭のテーマについて何かお考えは──」
俺は無言のまま、テープレコーダーのスイッチを入れた。
「──それでは、ありがとうございました」
「こちらこそ。いい記事になるのを祈ってるよ」
「ありがとうございます」
「じゃあ、編集頑張ってね。それから茅ヶ崎くん、バスケ部の話、よかったら考えておいて」
インタビュー後、朗らかに言って、九条は俺に握手を求めた。バスケ部になど入るつもりは毛頭無かったが、先輩の求めなので無下にするわけにもいかず、はあ、と気の無い返事をしつつその手を取った。
じゃあ、と軽く残して、九条は颯爽と踵を返す。その姿が遠くなってから、
「さすが生徒会長九条悟、去り際まで爽やかだね」
輝の口調はしみじみとしていた。
「……なんか、むかつくくらいイケメンだな」
「あれ、顔知らなかった? 僕らの入学式でも挨拶してたじゃない」
「寝てた」
「ああ……そっか」
「ああいう奴はな、腹の底では黒いこと考えてんだぜ。絶対ぇそうに決まってるって」
輝が堪えきれないといった風に吹き出す。
「……何が面白いんだよ」
「龍介、僻みすぎ」
「別に僻んでねえよ。あれで裏が無かったらそれこそ聖人君子みたいじゃねえか。ありえねえだろそんな奴」
「まあまあ、邪推は止そうよ。それより、未咲の相手としてはどう思った?」
輝がこちらの目をまともに見た。その瞳が好奇心の光を宿している。
「……未咲には釣り合わない」
正直な感想だった。輝があははとさも可笑しそうに笑い声をあげる。
「……んだよ。だってそうだろうが」
「いや、僕も全く同じ感想だったから」
笑顔でしれっとひどいことを言う奴だ。
「未咲には龍介くらいがぴったりだと思うけどねー」
「なんで俺なんだよ。つうか、くらいって何だよくらいって」
「あはは」
誤魔化すなよ。
抗議の声を上げようとしたところで、不意にでもさ、と輝が呟き、真面目な表情でこちらを見る。
「このまま、未咲と生徒会長が付き合うことになるかもしれないよ。それでも、龍介はいいの?」
「……いいも何も、なんで俺が関係あるんだよ。未咲が誰と付き合おうが、それは未咲の勝手だろ」
「そうかなあ、後悔するんじゃない? 絶対後悔すると思うけどなあ」
「後悔なんて……しねーよ」
輝はどうも昔から俺と未咲をくっつけたがっているようだが、自分にとって未咲は幼なじみであり、それ以上でもそれ未満でもない。はずだ。未咲もおそらく同じだろう。
俺たちは鞄を取りに一旦教室まで戻り、昇降口に向かった。階段から一階廊下に降りるところで、女子生徒と鉢合わせになる。未咲だった。
未咲がぱっと顔を輝かせる。
「あれっ、輝じゃん! ……と、龍介。こんな時間までどうしたの?」
「さっきまで生徒会長にインタビューしてたんだ。龍介にも手伝ってもらって」
生徒会長、という単語が輝の口から出たとたん、未咲の目の色が変わった。喜色満面というのはこういう顔をいうのだろう。
心がなぜかちくりと痛む。
「うそー! 龍介の代わりにわたしが行きたかった! 今まで部活だったけど……ってあれ? なんか龍介元気なくない?」
「うん、現在進行形で失恋中」
「え!」
未咲が目を丸くする。
「ちげーよ馬鹿、なに言ってんだ」
「ねえちょっと、龍介好きな人いるのー? だれだれ? 同じクラスの子?」
「うるせーな、違うって言ってんだろ!」
自分でも驚くくらい、大きな声が出た。
未咲がぎゅっと口をつぐみ、身を引くようにして龍介を見る。
「な……なによ、別にそんな怒鳴らなくてもいいでしょ。龍介ってほんと意味分かんない。行こ輝」
未咲が背を向けてさっさと歩き出した。輝は肩をすくめて俺を見る。やっちゃったね、と言いたげな顔だ。
そんな顔されなくても分かる。今のは良くなかった。自己嫌悪に陥りつつ前を行く二人をとぼとぼ追いかけるが、一緒に帰っていいものか、未咲の様子からは判断しかねた。