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青とエスケペイド  作者: 冬野瞠
第一部
77/137

彼らのこと スプレーマムの告白(3/7)

 話しながら、苦笑してしまう。他人を愛すまいと、自分の心をぎちぎちに縛り付けているつもりでいたのに。こうして言葉にしてみたら、丸分かりじゃないか。自分はずっと前から、水城先生に惹かれていたことが。

 認めてしまうと、途端に不安になった。彼女はさっき、"あの人たちと先生がどういう関係かは分からない"と言っていた。私が何者か、彼らは何者か、本当のところはまだ知らないだろう。自分の正体を知ったら、さすがに心が挫けてしまうのではないか。

 黒目がちの澄んだ目を覗きこむ。


「私は……あなたとは違う世界で生きてきました。あなたの常識と私の常識は違う。再びあなたを危険な目に遭わせるかもしれない。それでも、いいんですか。私で……いいんですか」


 それは彼女の好意を受け入れたも同然の言葉だったが、同時に弱々しい言葉でもあった。

 不意に彼女がぐいと身を寄せてくる。包帯で雁字絡めになった私は、咄嗟に身動きができない。花の香りによく似た芳香が、ふわりと鼻先をくすぐった。彼女の腕が首に回され、閉じられた瞼が近づいてくるのを知覚した、その瞬間。

 自分の口に、柔らかな唇が重ねられた。

 全身が強張った。あ、と思う暇もなく、軽く触れ合っただけの唇はすぐに離れていく。彼女を見る自分は唖然としていただろう。

 水城先生の顔全体がみるみるうちに朱に染まる。そこに、大輪の笑顔が咲いた。


「あなたが、いいんです」


 一字一句、噛み締めるような肯定だった。

 思いを遂げたことを悟り、だんだんと自分の頬も熱くなってくる。しどろもどろになりながら、取り繕うような台詞を探す。


「……私は――私の手は、汚れているんです……。こんな汚れた手では、あなたを抱きしめることすら、できないんですよ……」


 受け入れておいて今さら何を言っているのだ、という自覚はあった。

 うろたえる私に対して水城先生は、明るい色の秋桜に似た晴れやかな笑みを浮かべる。


「……先生が私を抱きしめることができないなら」

「……ッ」


 水城先生が今度は私を抱きしめた。甘やかな匂いが鼻腔を埋める。そうだ、人の温もりはこんなにも温かいものなのだ。そのことを、私はずっと忘れていた。

 彼女の優しさに包まれ、涙が出そうだった。きっとこれが幸せなのだろう、と考えた。


「こうやって、私が先生を抱きしめますね」


 ゼロ距離にいる水城先生が耳元で囁く。

 心が芯から震えた。目を閉じて、ずっとこのままでいたいと思った。おそるおそる、包帯を巻いていない方の手を背中に伸ばす。

 しばらくそうしているうちに、気づいてしまう。この、脇腹あたりに押しつけられている、柔らかい感触のものは――。一度自覚してしまうと、一気に体温が上がるようだった。


「……あ、あの」

「はい?」


 無邪気な声が返る。

 気の利いた言い方も思いつかず、私は直截ちょくせつに伝えた。


「……その、む、胸が当たって」

「あ!」


 慌てたような声が上がり、ばっと体が離れる。気まずさにお互い顔を逸らしていたが、横目で窺うとちょこんと覗いた水城先生の耳が赤い。自分の顔もこれまでにないくらい火照っていた。この歳でこんな気持ちになろうとは。


「す、すみませんでした! 私ったらなんて大それ、いえはしたないことを……!」

「いえ……大丈夫です……」


 掌で顔を覆いつつ、水城先生の方を見やる。そこには両手を頬に当てる可憐な姿があった。

 目が合うと、恥じらいを含んだ笑みが返ってくる。自分も思わず、口元が緩んだ。


「……あの」

「はっはい! 何でしょう」

「あなたはなぜ、そんなに強い気持ちを持つことができるんですか? 何か特別な経験がおありなんですか」


 水城先生は小首を傾げ、ぱっと弾けるように笑った。


「うーん、何かって言われたら、恋の力ですかね?」

「……恋、ですか」

「そうです。えへへ」


 はにかむ彼女につられて笑う。秋風がどこからか花の香を運んでもくる。この女性は自分より、遥かに強靭なのだと改めて感じた。



 階下へ戻ると、病室の前にはヴェルナーが背を壁にもたれさせていて、今しがたまで通話していたのか、ちょうど携帯端末を上着の内ポケットにしまったところだった。


「うまくいったみたいだね」


 と、にこやかに言葉をかける相手は無論私ではなく、水城先生だ。呼びかけに対し、彼女は表情をほころばせ、幾分恥じらいを含んだ笑顔をヴェルナーに向ける。


「はい。ヴェルナーさんのおかげで」

「良かった良かった。俺のやったことなんて取るに足らないよ、君の頑張りがすべてだ」

「そんなことはないですよ」


 気の知れた二人の様子を見ていると、なぜだか胸の内側がじりじりと焼けるような感じがし、正直面白くなかった。

 不意にヴェルナーがこちらへ視線をよこす。


「まあそうくなって錦くん。男の嫉妬は犬も食わないぜ」

「嫉妬だと……」

「嫉妬だろ。俺が水城ちゃんと話してるのが気に障ったんなら」

「その呼び方をやめろ」

「ほらね。妬いてるだろ」


 にやにやしながら肩をすくめるヴェルナーの向こうで、水城先生が苦笑いを浮かべている。


「ところで、今度は俺がこいつと二人で話をしたいんだ。悪いけど、ちょっと外してくれる?」


 ヴェルナーがラフな動作で私の肩に手を回してくる。振り払いたかったが、無念にも怪我がそれを許してくれない。

 水城先生はあ、はい、と素直に頷くと、ぱたぱたとスリッパの音をたてながら、廊下の端にある休憩スペースへと遠ざかっていく。

 私の肩を抱いたままのヴェルナーと二人、一人用の病室へと足を踏み入れる。扉が閉まるや否や、赤髪の男はぐっと肩を抱き寄せ、耳元で囁いた。


「お前はもう逃げられないぜ」

「……何の話だ」

「責任からだよ。彼女に何かあったら、それは全部お前に跳ね返ってくる。それを全部受け止める覚悟はできてるのか?」

「貴様に言われるまでもない」

「そうかい、ならいいんだけどな。今度はヘマするなよ」

「分かっている」


 返事の代わりに、ヴェルナーは回していた手で私の肩をぽんぽんと叩いた。少し痛いくらいの勢いで。彼なりの叱咤激励というやつなのだろうか。こいつがそんな奇特なことをするとは思えなかったが。

 いくぶん明るい声で、ヴェルナーがもう一度口を開く。


「でも、ちょっと安心したよ。お前、もう枯れちまったのかと思ってたからさ」

「何が……」

「下半身のことだよ。ま、怪我が治ったら頑張りな」

「……」


 何をだ、と訊いたら泥沼に陥るのが目に見えていたので、それ以上は尋ねなかった。ヴェルナーのにやけた顔が見つめてくる。投げ飛ばしたい衝動に駆られるが、怪我を負う身ではとても達成できない。自由に動けるようになったら覚えておけよ、と心の内でぼやく。

 病室のベッドに身を移しつつ、パイプ椅子に座したヴェルナーに問う。


「それで? 話とはそれだけではないだろう?」

「ああ、まあな。もう影への報告は終わってるんだろうが、お前の口から直接事件の話を聞きたくてな。どうして今さら"英雄"が狙われることになったか、相手の目的に思い当たる節はねえのか?」


 今度は影絡みの真面目な話だ。私は首を振る。


「……ああ。何もないし、さっぱり見当もつかない。こっちが訊きたいくらいだ。相手は生け捕りにしろと言われていたようだが」

「生け捕り、ねえ。つうことは今後もまた刺客が現れる可能性も捨てきれないってこったな。英雄の正体が向こうさんに割れたかは分からんが。一応、英雄が入院した病院の場所については、誤報をそこらにばらまいてある。しばらく様子見するしかねえかな」


 ヴェルナーはくだけた口調ながら、私=英雄の構図を言及するのを避けていた。

 良くないな、と私は呟く。


「これでは対応が後手に回りそうだ」

「ま、おかみからの御信託を待つしかあるめぇよ。しかし、向こうさんに睨まれてるのが坊っちゃんだけじゃないとなるとてんてこ舞いだぜ、こりゃあ」

「私は自分のことは自分で守る」

「怪我が治ってから言えよ、そういうのは。……でもお前も自分の命は大事にしろよ」


 同僚がふと真面目な顔つきになる。


「なんだ、いきなり」

「お前の命と引き換えに救えるものなんざ、(たか)が知れてるだろ。だったら、泥水啜ってでも生きて、その先の人生で人を救えよ。まずは自分の命あっての人助けだ。何より自分が第一だぜ」

「……男相手にずいぶん親身なことを言うんだな」

「はっ、女の子の命はそりゃ重いけどよォ、女の子に想われてる男の命も同じくらい重いんだぜ」


 ヴェルナーは決め台詞を口にした俳優のように気障キザな表情になり、


「……どうしてそれを真面目な顔で言えるんだ?」

「えっ今の感動するところなんだけど」


 私の反応に唇を尖らせる。

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