彼らのこと スプレーマムの告白(2/7)
点滴の器具を押しながら、階段では体を水城先生に支えてもらい、病院の屋上に出る。
コンクリートが敷き詰められたそこには、端に給水塔がある他、中央付近にベンチが設えられ、四方を取り巻くフェンスに沿ってプランターが置かれていた。植わったマリーゴールドが、涼しさを含んだ秋風に揺れる。薄い色の空には、刷毛でさっと掃いたようなかすれ気味の雲がたなびいていた。私たちの他に人影はない。
ベンチに隣り合って腰を降ろすと、もうめっきり秋ですね、と水城先生が明るく口火を切った。
「そうですね」
「まだしばらく入院は続くんですか?」
「あと一月半ほどで退院できるそうです」
「そうなんですね。でも、それだと文化祭には間に合いませんね。残念だなあ」
文化祭。そういえばそんな行事もあるのだった。水城先生とクラスの出し物について会話をしたのが、もう遠い昔のことのように思われる。
感慨深くフェンスの向こうに立ち並ぶ家々を眺めていたが、言うべきことがあると思い至り、彼女の方へ視線を移した。はっと向き直る水城先生と視線がかち合う。
ほんの少しだけ唇を舐めた。
「……私を、恨んでいますか」
え、と彼女の口から一音が漏れる。
無意識に、固定されていない方の手をぐっと握り締めていた。話すうち、後ろめたさで知らず目線が下がっていってしまう。
「私があそこにいたばかりに、あなたに怖い思いを味わわせてしまった。取り返しのつかないことになりかけた。だから、私を――」
「恨んでなんか、いませんよ」
否定する声は強かった。反射的に面を上げると、水城先生のきりりとした目に惹き付けられた。そこには毅然とした光が宿っていて、その強さに圧倒されそうになる。
「あの人たちと先生がどういう関係かは分からないですけど……私が襲われそうになったのが先生のせいだとしても、先生は私を守って下さったじゃないですか。それに私、先生に"離さないで下さい"って言われたとき、一生離すもんか! って思ったんです」
今度は、え、と自分が漏らす番だった。
言われた言葉を噛み砕くのに時間がかかった。まじまじと彼女の顔を見つめると、じわじわとその頬が紅潮してくる。何度か口元が震え、おそらくは躊躇によってその唇がぱくぱくと開閉された後、そこから決定的な言葉が飛び出した。
「あの……私、桐原先生のことが好きです」
好き。
それが呪文であったかのように、その呪文で石にされてしまったかのように、私は何秒も動けなかった。何の飾りもない丸のままの言葉が、心の泉に輪を作り広がっていく。やがて波紋は怒濤となって、動揺という形で自分の心情を揺さぶった。
水城先生の頬はほんのり色づいたままだ。そこからふっと顔を逸らし、苦々しく下唇を噛む。
駄目だ。私は誰か特定の人を大切にはしないと、特定の人から大切にされないように生きると、そう誓ったのだ。ルネを喪って突き落とされたのと同じ苦悶を、もう誰も味わわなくていいように。いつか別れる時が来るなら、最初から深入りしない方がいい。ましてや、自分はいつこの世から唐突に消え去るか分からないのだ。彼女のように善良な人を、悲しませるようなことはしたくない。
返答の声は震え、弱々しいものとなった。
「私は……誰かのそういう気持ちには、応えられないんです……」
「それって、以前の恋人さんのことで、ですか?」
再び、水城先生の方を見た。胸の上で手がきつく握り合わされている。彼女の決心の固さを示すかのように。
「なぜそれをご存じで……」
「すみません。実は、桐原先生に会っていないあいだ――ヴェルナーさんから桐原先生の昔の話を聞いちゃったんです。恋人を亡くされていたんですね……それも、目の前で……」
「……」
「勝手にごめんなさい、怒りましたか?」
「いや……どうせあいつがぺらぺら喋ったんでしょう」
「ええと、それは、まあ……。桐原先生は、その方を忘れられないから、今も大切だから、他の人を好きになれないっていうのとは、違うんですよね? もしよかったら、理由を私に話してもらえませんか」
彼女の口調は凪いでいて、どこまでも真摯だった。
私は導かれるように、洗いざらい心の内を話した。それはほとんど告解だった。もう二度と大切な人に悲しみを背負わせたくないのだ、と釈明しているあいだ、慈悲深い神父の前で懺悔している気分になっていた。
「すみません。だから私は、特定の誰かの大切な人にはなれないんです」
「……悲しいですね」
私が語り終えると、水城先生はそう言って双眸を潤ませた。その言葉の前に、頭を垂れる。心が抉られる思いで、申し訳ない、と絞り出す。
その自分の謝罪は、違うんです、と穏やかに遮られた。
「……違う?」
「ええ、あの……悲しいというのは私が悲しいんじゃなく、桐原先生の考え方が、ってことで……。先生が私のことを好きになれないなら、別にそれでもいいんです。私はあなたが好きだけど、無理に好きになってもらおうとは思いません。でも、最初からすべての好意を拒絶してしまうなんて、悲しいなって、思って……」
「……」
「私は、桐原先生に幸せになってほしいです。あなたの隣にいるのが私じゃなくてもいい。だから、好意に応えられないなんて、悲しいことを言わないで……」
水城先生の目の縁に、いつしか涙が溜まっていた。ふるふると震えていた水の雫は、一度堰を切ると次々と筋になって溢れた。彼女はそれを拭おうともせず、ほんのり笑んだままで、私のことを見つめている。
どうすればいいのか分からなかった。そもそも好きだと言われ、応えられないと返した時点で、彼女を悲しませている。それなのに、水城先生は私の幸せを願ってくれている。自分はこんなに、どうしようもない男なのに。
「私が――幸せになる権利なんて――」
「ありますよ」
泣き笑いの表情のまま、水城先生は断言する。
「幸せになっちゃいけない人なんて、いないですよ。桐原先生みたいないい人なら、なおさらです」
「そんな、ことは……」
「それに」
膝の上で握っていた拳が、温かい温度で包まれる。手を握られたのだと、一拍遅れて気づいた。
「先生は他の人を悲しませたくないって仰いましたけど、悲しむのってそんなに悪いことじゃないと思いますよ」
「え……?」
「だって先生は今、その昔の恋人だった方に会わなければよかった、なんて思っていないはずですから」
瞠目して彼女を見つめる。
その通りだった。私はルネを守れなかったことを悔やみこそすれど、出会ったことを後悔してはいない。かつてルネを愛したこと自体を、過ちだとは思わない。
見通しの利かない霧がずっと立ち込めていた胸の中に、晴れ間が覗き、温かな陽が射し込んでくるように思えた。
「確かに……あなたの言う通りです……」
「きっと、そうだと思いました。これは個人的な考えなんですけど、人っていつかいなくなってしまうからこそ、他人を大切にできるんだと思うんです」
「……」
「違いますかね?」
「いいえ……私も、そう思います」
彼女の涙はもう止まっていた。代わりに、朗らかな笑みがそこにはある。
自分の中で固く冷たく、凝っていたものが氷解していくようだった。頑なな気持ちが解け、柔らかくなっていく。不思議だった。どうしてこの人はこんなにも暖かいのだろう。
「私はあのとき……死のうと思っていました」
ほろりと本音が口を突いて、自分で驚く。剥き出しの己の想い。それを曝すことを、怖いとは思わなかった。きっと、彼女の前だからだ。
水城先生は黙して耳を傾けている。
「自分が死ぬことで彼らの目的が果たせなくなるなら死んでも構わない、そう考えていたんです。でも、あなたが私のために泣いているのを見て、考えが変わりました。私がいなくなることで、泣く人がいる。それが驚きだったんです。だから、全力で抗おうと思いました」
「……」
「それから、意識が戻る前――あなたの夢を見ました。あなたが私の名前を呼んでいた。それがなかったら、私は向こう側に行っていたと思います。あなたのおかげで、こちらに戻ってこられた……」




