彼らのこと・回想 銀の追憶Ⅲ(2/3)
神殿の入り口に、小さな影が現れる。我々が守るべき唯一の存在。拝殿の深奥に籠っているべき存在。
影の冠たる者、シューニャ。
どうして出てくるのだ、と声にならない叫びを上げる。気配を認めたルネが振り返り、顔を蒼白にしたシューニャが何事か言いかける。その時。空気がわっと沸いたように感じた。
「あれ!」
誰かが叫んだ。誰かが上を指した。私は足を動かしたまま、何かに操られるように、悪夢を下賜する悪魔の肚を仰ぎ見た。
ぷっくりとしたシルエットを持つ人間が、そこから飛び降りてくる。その姿は置物の狸のように、どこか滑稽ではあったけれど、私にはそれが体表に取り付けた爆薬のせいだと分かった。爆発物を纏った体が、シューニャとルネめがけて降ってくる。
――自爆するつもりか。
眼前で展開するそれらすべてが、スローモーションのように見えた。
巻き込まれたら十中八九助からない。私は叫んでいた。逃げろ、と。
シューニャは唖然と空を仰いだまま、凍りついたように動かない。お願いだ。ルネだけでも逃げてくれ。叶わないと知りつつ願わずにいられない。あと少しで自分もそこにたどり着くのに。
ルネが奮然とシューニャの前に仁王立ちし、刀を構え、肥ったシルエットめがけて鋭く斬撃を放つのが見えた。
そして間近で、眩い光が炸裂する。
咄嗟に耳を塞いで地面に伏せた。閃光からわずかに遅れて腹に響く爆発音が轟き、ほとんど同時に衝撃波と爆風が体を嬲って通りすぎていく。
それが行き過ぎてから、がばりと体を起こす。シューニャは、ルネは。私が見たものは、信じがたい光景だった。
シューニャが呆然と立ち尽くしている。服に点々と血を飛び散らせて。そのそばに、ルネが倒れ伏していた。彼女の周りは血溜まりになっていた。
そして二人へ、爆薬を仕込んでいたはずの男が、じりじりとにじりよっていく。
あり得ないと思った。あの爆発の中心で、生身の人間が生きていられるはずがなかった。四肢がばらばらにちぎれ飛んでもおかしくないのに。
私は怒声を上げながら、駆けた。急に戦場に静けさが戻ってきていた。敵の生き残りが撤退を始めていたからだと後で知ったが、その時は知る由もなかった。シューニャに手を伸ばす侵入者へ向けて放った私の得物は、風を切って長鳴りし、あやまたずその喉笛を貫いた。
ならず者の末路などどうでもよかった。私の頭にはルネのことだけがあった。彼女はぴくりとも動かない。血溜まりの中心で横たわる体を抱き起こし、名を呼んだ。何回も、何回も。その愛しい響きを。
唇が震えた。
「にし、き……?」
ルネの薄い瞼がうっすらと開き、血とともに囁きが口の端から漏れる。あんなに美しく光を反射していた髪は、鮮血を吸って紅に染まっていた。彼女の体から血が流れ出ていく。服を赤黒く染め上げた傷の中心は、腹部に深々と突き立った金属片だった。
意識があるのが不思議なくらいの、致命傷だった。
血液とともに、彼女の命がどんどん零れていく。かけがえのない人の意識が、吹き消えんとする。私は傷口の周りを必死で押さえた。そうすることで、衰弱していく生命を押し止められるとでもいうように。
いつの間にかヴェルナーが傍らに立っていた。視界の隅に映る握り拳はぶるぶると震え、関節が白く浮き出している。
私は熱を失いつつある想い人の体に、恥も外聞もなく取り縋った。嫌だ、行かないで。私を置いていかないでくれ。自分の声はか細く、みっともないほどに震えた。
「良かった……」
蚊の鳴くような声を、ルネが絞り出す。見ると、彼女は淡くほほえんでいた。青ざめた顔に浮かんだ笑みは、例えようがなく壮絶だった。
良いわけがない。私の奥歯はがちがちと鳴っていた。
「何を……」
「死ぬのが君たちじゃなく、私で良かった……。なあ、そんな顔をするなよ。最期なんだ、笑って送ってくれよ……」
「嫌だ……行かないでくれ……私は、君ともっと……」
「錦。私のことは忘れてくれ。忘れて、幸せになってくれ……」
弱々しく伸ばされた掌が、私の頬にかすかに触れる。
笑えるはずがなかった。忘れるなんて、約束できるはずがなかった。君が言ったことを何も叶えられないから、行かないでほしかった。まだ私の隣にいてほしかった。
糸が切れた人形のように、ルネの手がぱたりと地に落ちる。微笑したまま、彼女の意識がすうっと遠のいていく。
「嘘だろ……?」
わななく声は、ヴェルナーのものだったろうか。波が引くように、軍用ヘリのローター音が遠ざかっていく。そうだ、誰か嘘だと言ってくれ。これはただの悪夢だと言って、私を夢から目覚めさせてくれ。躊躇なく進行する現実を受け入れるのを、自分のすべてが拒絶していた。
私はまだ温かいルネの全身をかき抱いて、夜の闇が迫ってくるのにまかせ、長いあいだ悲嘆にくれた。
そのあいだずっと、涙は出なかった。
こうして我々は勝利を手にした。多大なる犠牲を払った上で。
爆薬を纏って特攻をしかけてきた人物が、罪のトップの男であることが、深更になって確かめられた。証言をしたのはシューニャだったらしい。
私も他の隊員も、彼の顔を知るものはほとんどいなかった。もっとも、シューニャには見た瞬間に分かっていたようだったが。あの唖然とした表情は、彼がそこにいると認めたために生まれたもののようだった。
納得できない話ではある。なぜ組織のボスが、自爆同然の形式で攻撃をしかけてきたのか。そもそもなぜ影と"罪"の衝突の最前線であるあの場にいたのか。
遺骸を解剖したシューニャによると、彼の全身には金属が埋め込まれ――もっと正しく言うなら、多くの体のパーツが金属に置き換わっていたらしい。つまり彼は既に人間ではなかったことになる。言うならば、サイボーグ。そのために爆死を免れた、との見解をシューニャは出した。機械化は彼自身が受け入れた方針だったのか、他者の意思の介入があったのか、もはや知る術はない。
奇妙な事実ではあったが、私にとってはどうでもよかった。
シューニャ以外の予見士は、精神的なショックが原因とみられる錯乱状態に陥り、互いに傷つけ合ったり深い昏睡に陥ったりして全員再起不能になっていたそうだが、それもどうでもよかった。
第一部隊以外は勝利の歓喜に包まれているらしかったが、それすらもどうでもよかった。
ルネの体は蘇生を試みられたものの、彼女が永遠の眠りから醒めることはなかった。
ルネは死んだ。
ルネが死んだ。
私は夜通し、一人にしてくれとテントに籠って、彼女と過ごした一日いちにちに想いを馳せた。深い喪失感と、冷たい絶望と、心臓を刺し貫く悲しみが、その時の自分の全部だった。あらゆるものが書き割りのようにぺらぺらに思えた。それなのにどうしても涙は出てきてはくれず、自分はどうしようもない薄情者なのだろうか、という疑問が胸を突いた。動揺にうちひしがれ、哀悼に身を浸し、彼女なしでも否応なく進む時間を呪った。
ふつふつと湧き起こったのは、いっそ自分も死のうか、という思い。
後追いは日本人のお家芸だ。死ねば楽になれる。死ねば彼女に会えるかもしれない。しかし、その安楽に至るまでの過程に、途方もない恐怖を感じるのも事実だった。文字通りの死ぬほどの苦しみの中で、ルネのように笑っていられる自信など、私にはない。死ぬ勇気すら持てない自分に落胆を覚えた。
ヴェルナーが私のもとを訪ねてきたのは、朝日が容赦なしに清々しい空気を引き連れてきた頃だった。
「俺とお前に召集がかかった。行けるか」
ヴェルナーは双眸を真っ赤に腫れ上がらせていた。ずっと泣いていたのだろう。私はぼんやりと頷き、半日ぶりに腰を上げた。
召集先は、自分には縁がないと信じていたシューニャの神殿だった。
「貴様も眠れなかったようだな」
その殺風景な廊下を進む道すがら、つっけんどんに口を開く。ヴェルナーは驚きも、笑いもしなかった。
「ああ、夜じゅう泣いてたからな。……お前も眠れなかったんだろ」
「私は泣けなかった」
ぶっきらぼうに返すと、ヴェルナーはまじまじとこちらの顔を見た。軽蔑されたのだろうか。
「薄情者だと思うかね」
「今のお前の面見てそんなこと言えるやつァ、人間じゃねえよ」
尖った犬歯を剥き出しにして、怒ったように言う。その声が涙まじりに感じたのは、私の錯覚だったろうか。
シューニャの部屋はどこかの大学教授の部屋を彷彿とさせた。壁面には本棚がずらっと並び、執務机にはデスクトップや書面が無造作に置いてある。伏せて置かれているのは写真立てだろうか。
そこに一人でいたシューニャは、我々がノックして入室すると、椅子から降りて歩み寄ってきた。上背のある私たちが、小柄なボスを見下ろす形になる。
「ご足労かけたのう」
労いの言葉をかけるシューニャの顔面には、何の表情も浮かんでいなかった。まっさらな、蝋人形のような顔のつくり。
不意に、その無の中から、苦悩じみた表情が滲み出る。
「お主らに、謝っておかねばならんことがある」
けれどその発声は、深い森のざわめきのように静かだった。
ぞわり、と心が波だつ。聞きたくない。何も聞きたくない。あの時この人が外に出てこなければ、もしかしたらルネは死ななくて済んだかもしれないのだ。私の胸はもうルネの死で塞がっている。これ以上、何も抱えこめない。決壊してしまう。そう思った。
シューニャは次に、決定的な言葉を口にした。




