彼らのこと・回想 銀の追憶Ⅲ(1/3)
―桐原錦の話
思い出はいつだって優しく、心を傷つける。
やわらかい陽射しの下で、ルネはいつも笑っていた。
あれはいつのことだったろう。彼女がそこらに生えているシロツメクサを器用に編んで、花冠を作っていたのは。私の頭に完成した花冠を被せたルネは、いたずらっ子のようにほほえみ、
「お姫様みたいだぞ、錦」
褒められているのか貶されているのか馬鹿にされているのか分からず、私は盛大に顔をしかめた。それを見て、ルネはあははと高く声を響かせたものだった。
あの時のルネのいきいきとしたまなざし。名も知らぬ草花に向けられる優しげな視線。私はそのすべてを好もしく思っていた。
またある時。いつも同じ味の食べ物ばかりで飽きる、と嘆く隊員に対し、私がベリーソースを作ってやったことがあった。
茂みに分け入り、自生している木イチゴを探す。それを少々の砂糖とともに鍋で煮詰めれば、簡易的なソースのできあがりだ。ベリー系は意外に肉と相性がいい。缶詰の肉に飽き飽きしてしていた隊員たちに、それは思いの外好評だった。
ルネが私に笑いかける。
「君は料理が得意なんだな」
「こんなもの、料理とも呼べんだろう。ただ潰して煮詰めただけだ」
「私にしてみれば、立派な料理さ。美味かったよ、ありがとう」
礼を言われるのに慣れていなかった私は、そのこそばゆさに狼狽した。あの時、朗らかに笑む彼女から逸らした自分の顔は、明らかに朱に染まっていたに違いない。
そして今。
冷たい石造りの部屋の中央、置かれた大きな木箱の中に、彼女は静かに横たわっている。その身を、詰められた小さな野草の花々に、半ば埋もれさせるようにして。
何の物音もしなかった。私も、傍らに立つヴェルナーも、一様に項垂れて、ルネの顔をじっと見つめていた。穏やかに眠っていて、口もとには微笑さえ浮いているように見える、彼女の整ったかんばせを。
ルネと、私と、ヴェルナー。
この部屋には三人きりだ。
「ヴェル。……少し二人にしてくれないか」
「……ああ。気が利かなくて悪かったな」
鼻をすすりながら、赤髪の青年が部屋を出ていく。
硬い靴音が遠ざかっていくのを聞きながら、私はルネの横に跪いた。何も変わっていない。長く繊細な睫毛も、ほんのり色づいた唇も、細かい産毛で光る頬も。今に瞼が震え、そのあわいから青く美しい瞳が覗き、再び私を慈しんでくれる、そう思えてならない。
静寂が辺りを包んでいた。透明な何者かが息を潜めてこちらを見つめているような、張り詰めた静けさだった。
輝かしい銀髪を二、三度手で梳く。私はルネに顔を寄せた。
彼女との最後の口づけは、寒々しい死の味がした。
終焉の日の朝のことはよく思い出せない。きっと何の変哲もない、いつも通りの穏やかな幕開けだったのではないかと思う。
それは彼の国で、ふたつの高層ビルにジェット機が突っ込んだあの日も、夜明けの空気は清々しかったに違いないのと一緒で。
なぜあのような事態が起こったのか、幾年かの時間を経ても経緯は謎に包まれたままだ。シューニャが起居する白亜の御殿には、一級予見士が何人も常駐していた。彼彼女らは異変を察知していなかったというが、真相はもはや分からない。すべては彼岸という手の届きようがない地平へ、葬り去られてしまったから。
唯一の証人である影のボス――シューニャも、分からないとだけ述べ、あとは口を閉ざした。"パシフィスの火"最大の事件はいまだに未解決のまま、海底に眠る沈没船のように、皆の心に凝り固まって、重く居座り続けている。
私はルネとの永遠を夢見ていた。人目を忍んで結び続けた男女の関係。思えば儚い逢瀬の日々。あの短い期間、私は確かに幸せだった。どこまでもあたたかな花畑が広がっているようで、何をも恐れる必要などないと思えた。なまじ幸福を味わうことが、後にどれだけの後悔を生むことになるのかなど、微塵も考えていなかったのだ。あの生活がいつまでも続くと、ちらと疑うことすらしなかった。
それこそが慢心だった。
いつもと変わらぬ夕暮れ、淡いまどろみに割って入ったビーッという甲高い警報が、すべてを一変させた。
一瞬で目が覚めた。肝が冷えるとはああいう心持ちをいうのだろう。非番の私は宿舎で仮眠をとっていたが、その音を聞くなり飛び起きて、何人かとともに外に躍り出た。その瞬間、地鳴りのような重低音が響く。空に何本もの亀裂が走る。
天蓋が崩れ落ちてきた。
――ように見えたのは、島を覆う人工プレートが、無惨に砕け散る姿だった。
プレートの外側での爆発。それが頭をよぎる前に、厚さ一メートルはあろうかという破片が地表へと降り注ぐ。咄嗟に反応できなかったが、どちらにせよ避ける場所などなかった。瓦礫片によるものすごい衝撃が体を、ともすれば島全体を揺さぶる。轟音で耳がめちゃくちゃになりそうだった。しかし私は、瓦礫と瓦礫が頭上で屋根のように合わさったため、奇跡的に生き延びた。
渾身の力を振り絞り、埃っぽい瓦礫をよける。その上に顔を出す。一面に惨禍が広がっていた。見知った光景はもはやそこにはない。おそらくプレートの下敷きになって死んだ隊員も多いだろうと思えた。
夜の帳が迫り来る中、遥か彼方の本物の空には星々がまたたき、灰色のプレート片で覆われた凸凹の地表を、そこここで上がる火の手が赫々《かっかく》と照らし出している。怒声と破裂音と、バリバリという凄まじい旋回音。振り仰ぐと、ごてごてとした黒い魔物のような軍用ヘリが、遥か頭上に何機もホバリングしている。おそらくは"罪"に手を貸すどこかの政府から供与されたのだろう。その機械の魔物のハッチから、黒い人影が次々と、自殺志願者みたいに飛び降りてくる。しかしそれぞれの人影は、まるでパラシュートでも背負っているかのように、地表近くで減速し、ふわりふわりと降り立っていく。
"罪"の人間に攻撃を受けている。絶句した。まるで悪夢だった。醒めないぶん、悪夢よりもたちの悪い、地獄だった。
どうしてこんな事態が起きているのか分からなかった。予見士の見立てでは襲撃可能性は限りなくゼロだったはずなのに。第一部隊に配属された夜のヴェルナーの言葉が甦る。
"一日何も起こらないか、もしくは最終決戦かどっちかだ"。
この目の前で展開されている戦闘が、それだ。自分はその戦場の真っ只中にいるのだ。伝達ミスか、予見に誤りがあったのか、いずれにせよ、このぎりぎりの瀬戸際で食い止めなければ、我々は負ける。
それでも、私はパニックには陥らなかった。
白亜の御殿の方を見やる。私がここにいる理由はただひとつ、シューニャだ。建物の外観は少し崩れているが、中は無事だろう。"罪"の人間たちに応戦し、得物で彼らの戦力を奪いつつ、そちらへ懸命に向かう。瓦礫で身を隠す場所があるのは敵も味方も同条件だ。装備は特殊繊維を編み込んだ制服だけで、インカムもヘルメットもないのが心もとないが、頭部に被弾さえしなければ、銃弾程度は問題ないはずだ。
シューニャのもとへ赴く途中、数回の爆発音とともに火炎が爆ぜるのが見えた。
「お前、無事だったか!」
横目で見ると、怒鳴り声をあげながら、ヴェルナーが駆け寄ってくる。彼は迫りくる敵たちをアサルトライフルの点射で打ち倒していた。私は頷くと、ヴェルナーの背後に迫る人影を、肩越しすれすれに投擲した得物によって仕留めた。
ヘリは弾を装填していないのか何なのか、上から機銃で狙われなかったのだけは好都合だった。二人してできうる限りの全速力で神殿へ近づく。その入り口付近に人影が見えた。大音声を張り上げながら、雄々しく日本刀を切り結ぶ姿。ルネだ。彼女の姿を目にした途端、私の心に安堵が広がり、同時に自分が影の隊員であることを忘れた。ただひたすら、彼女のもとに駆けつけたい、その欲求で胸が満たされた。
彼女が振るう日本刀の刀身は、淡く発光して見える。錯覚ではなく、本当に光を放っているのだ。ルネの得物は、光エネルギーを吸収して力学的エネルギーに変換する――簡単に言うと、斬撃を現実化した刀なのだ。
あと少し。あとほんの百メートルで、彼女に届く。
そのとき、信じられないことが起きた。あってはいけないことが。目を疑う事態が。




