彼らのこと The Hero is here.Ⅲ(4/4)
だから私は、迫力のあるヴェルナーさんの赤い眼を、真っ向から見返して答える。
「はい」
気持ち強く発声すると、彼がそれに応えてにやっと笑う。
「いい返事だ。あいつは一筋縄ではいかないぜ。それでもいいのかい」
「もちろんです」
「それならさ、君の想いがあいつに届くように、俺もできるだけのことは協力するよ」
「……え」
思いがけない申し出に、目をぱちくりさせてしまう。あの先生のことを下の名前で呼ぶなんて、よっぽどヴェルナーさんは彼と仲がいいに違いない。そんな人からのありがたい提案を、断る理由などなかった。
けれど、以前二言三言言葉を交わしたとはいえ、私たちはほとんど初対面なのだ。そんな人間に対して、どうしてそんな配慮をしてくれるのか理解できなかった。
「どうしてそんな……ヴェルナーさんは私のこと、まだほとんど知らないんじゃ……」
「俺は恋する女の子の味方だからね。理由なんて要らないさ。それに、あいつの子供も見てみたいしね」
ヴェルナーさんは芝居がかった口ぶりで言うと、ばちんと気障っぽくウインクした。まるでステージ上にいる舞台俳優のように。
何と返すべきものか。私はもう女の子なんて歳でもないし、子供なんて気が早いような、と迷いつつ黙っていると、
「それより、手術が長引きそうだから君は帰った方がいいよ。手術が終わっても、どうせしばらく意識が戻らないだろうし。連絡先を教えてくれれば、意識が戻ったら伝えるからさ。家までハンスに送らせるよ」
反論しようと半ば口を開けるも、ここにいるべき理由が見つからず、言葉を飲み込む。心情的には先生の側についていたいのはやまやまだったが、私がここにいたところで何にもならない。時計を見ると、もう二十二時を回っていた。それに手術が終わったところで、すぐには面会できないに違いない。
「……そう、ですね。ここにいても何もできないし。分かりました、帰ります」
私は素直に立ち上がって、ヴェルナーさんにぺこりと頭を下げた。赤髪の男性はうん、気をつけて、と言いながらほほえみ、暗がりに向かって声を放つ。
「じゃあハンス、送ってあげて」
「了解です」
廊下の闇の中から、すうっと青年と猫が現れた。
じゃあ行きましょうか、という青年に従って外に出る。まだ秋の初めだし、そこまで空気は冷えているわけではないけれど、風が妙に身に染みた。病院の前の道路は、この時間でも車がそれなりに行き交っていて、それがどこか遠い景色に見えた。
病院のロータリーに停められていたのは、私の愛車の水色の軽だった。
「あ、私の車……」
「車から降りるときは、鍵をかけた方がいいですよ」
年下であろう青年に言われると気恥ずかしかった。
ハンスさんは自然な動作で運転席に乗る。それを特段おかしく思わないくらいには、ぼんやりと頭に霧がかかっていた。まるで、磨りガラスを通して世界を見ているようだった。今夜は、色んなことがありすぎた。
「今日は大変でしたね」
知ってか知らずか、青年が適切なタイミングで切り込んでくる。その声は、一枚膜を隔てたところから届くのに似ていて、意味を掴むのに数瞬を要した。
一拍遅れて、ふるふると体の前で手を振る。
「いえ、そんな」
「困ったことがあれば、言って下さい。僕らは桐原先生の味方ですし、あなたの味方です」
「味方……」
何回か言われたけれど、なんて非現実的な語句なんだろう。テレビや本の中でしか使わないような言葉。味方と言っているけれど、この人たちは一体何者なのか。普通の仕事をしている人には見えない。どうしてこんなにも日本語がぺらぺらなのかも不思議だ。
桐原先生は、どういう人なんだろう。
手術は無事に終わっただろうか。ヴェルナーさんはまだ病院にいるのだろうか。あの山羊の被り物をした人たちは何だったのだろう。すべてが、この静かな車内とひと続きの現実だなんて到底信じられなかった。
線状に流れる車窓の外を眺めながら、私もハンスさんもしばらく何も言わなかった。沈黙はさして苦にはならなかった。
ハンスさんがぽつりと呟いたのは、私の住むマンションがだんだんと近づいてきた時だ。
「でも、彼が英雄だったなんて」
彼の呟きにはどこか愕然としているような響きがあって、反射的に振り返ってしまう。
「え?」
「……いえ、こちらの話です」
金髪碧眼の青年は、一分の隙もない完璧な笑みを浮かべ、頭を振る。何かを誤魔化すみたいに。
マンションの駐車場に車が停められた。明日も仕事がある。これから歯を磨いて、お風呂に入って、明日の準備をして、いつものように寝なければならない。たったそれだけが、途方もなく大変なことのように感じられた。
「ハンスさんは……今日これからどうするんですか」
「タクシーでも拾って、病院に戻りますよ」
「そうですか……。あの、ありがとうございました」
「僕は特別なことはしていませんよ。とりあえず今日のことは置いておいて、ゆっくり休んで下さい」
「はい……」
「ノイをお貸ししましょうか」
覇気のない私の顔を覗きこみ、そうハンスさんが提案してくる。え?、と訝ると、青年の足元にすり寄っていた黒猫がニァアと鳴く。お任せ下さいとでも言っているように。
「僕もなかなか眠れない夜とか、この子の毛並みを撫でるんです。すると、いつの間にか眠くなってくる。アニマルセラピーのようなものなんですかね。一緒に眠ったら寝付きがいいかもしれませんよ。この子は大人しいし、一晩くらいなら、大丈夫でしょうから」
足元に目を落とすと、こちらを見上げる猫と目線が合う。暗闇でもきらりと輝く、金色の眼だ。
膝を折ってそっと抱き上げる。温かく、柔らかい、しっかりとした重さ。黒猫は私の腕の中に、すっかり収まった。
「じゃあ、一晩だけ。いいですか」
「ええ、もちろんです。おやすみなさい、水城さん」
「おやすみなさい」
歩み去る青年の背中をしばらく見つめたあと、自室に帰って就寝の準備に取りかかった。先生のスーツの上着をハンガーにかけながら、その生地の表面に指を滑らせ、無事でいて下さい、と願う。
猫は本当に大人しかった。部屋に置いてあるものの匂いを嗅ぎ、体をすり寄せるだけで、走ったり何かを引っ掻いたりするような行儀の悪いことはせず、撫でるとすぐに喉をごろごろいわせる。人懐こく、かわいい猫だった。
寝床に入る前、携帯の画面を点灯させて、壁紙に設定してある花の写真を見る。花びらの多い、とりどりの色をした愛らしいキク科の花。自分の誕生花の、スプレーマムだ。
花言葉のひとつは、"逆境の中でも平気"。
平気、平気、と心に刻みつけ、黒猫をベッドに招き入れる。
「猫ちゃん、一緒に寝ようか」
温かく人よりもずっと小さい生き物が、布団の中に潜りこんでくる。
その黒く艶やかな毛並みを幾度となく撫でているうち、私はいつしか眠りに落ちていた。




