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青とエスケペイド  作者: 冬野瞠
第一部
70/137

彼らのこと The Hero is here.Ⅲ(3/4)

 しばらく祈るような気持ちでいると、工場の出入り口から大柄な男性が出てきた。同じくらいの体格の人を抱えている――桐原先生だ。ぐったりとしていて、身動みじろぎひとつしない。気を失っているみたいだを自分の顔から血の気が引くのが分かった。

 車の近くまで二人が来ると、先生のシャツが赤黒く染まっており、顔はひどく青ざめているのが見えた。まるで生気が感じられない。胸がざわざわと落ち着かなかった。

 車の平坦な床部分へ、男性が先生をそこに担ぎ込む。苦しげな、浅い呼吸が聞こえてくる。つらそうだ。視界が潤む。私のせいだ。私のせいで、好きな人がこんな目に。


「俺は止血の続きするから、ハンス、運転頼むわ」

「了解です」


 男性が後部から車に乗り込んできて言うのへ、ハンスさんが返事をする。長身の男性は目につく赤毛だった。そこで気づく。この人とは、何ヵ月か前に一度会ったことがあると。先生を下の名前で呼んでいた、おそらくは、桐原先生の昔からの知り合い。

 ばん、とドアが閉じるのと同時に、車がぶるりと身震いして発進する。

 私は後ろに向かって、思いきって声を張った。


「あのっ、救急車とか、呼ばなくていいんですか。あ、それに警察! あの人たち、銃を持ってました! 警察に言わなきゃ――」

「お嬢さん」


 てきぱきと先生の傷口に包帯を巻き、手元を血まみれにした赤い髪の男性が、落ち着き払った声音で私の話を遮る。


「ちと静かにしてくれねェかな。君より俺たちの方が慣れてるんだわ、こういうの」

「今は騒がず僕たちに従って下さい、いいですね?」


 ハンドルを握るハンスさんからも、淡々とした言葉が向けられる。


「は、い……」


 穏やかながら反論を許さない調子に、私は小さく首肯せざるを得なかった。

 項垂うなだれて前方に顔を戻そうとした、その瞬間。先生の口元がわなないて、う、と苦しげな呻きが漏れた。

 はっと注視する。薄目が開く。先生の手が弱々しく伸び、傍らで手当てをしている男性の腕を掴んだ。


「……ヴェル? ここ、は……」

「車の中だよ。今病院に向かってる」

「水城先生、は……」

「無事だよ。怪我もない。車に一緒に乗ってくれてる。だから安心して寝てろ」

「そうか。良かった……」


 桐原先生はまた目を瞑り、糸が切れるように、またまどろみへと落ちていった。

 私を気遣っている。自分自身じゃなく。こんな状況と状態でも他人を想う彼の振るまいに、ぎゅっと胸が苦しくなり、また涙がこみ上げてきた。



 静まり返った病院の待合室に、"手術中"の無機質な赤い光が灯る。

 金髪の青年――ハンスさんが運転する車は、こぢんまりとした病院に横付けされた。連絡を受けていたのか、すぐにストレッチャーを携えた看護師さんたちがわらわらと出てきて、桐原先生を搬送していく。

 病院の外観を見て、なんだか心配になった。そこが小規模な開業医だったからだ。もっと大きく、設備が整った病院に行かなくて大丈夫なのだろうか。

 私以外の二人は車外に出て、ふうっと息を吐く。


「やれやれ。元影の隊医がやってる病院が近くにあって良かったぜ」

「ほんとですね。間に合っているといいんですが」


 暢気のんきにも思える発言に、かっと頭に血が昇るのが分かった。

 気づいたときには彼らの前に躍り出て、大声で喚き散らしていた。


「あの! こんな病院でいいんですか? ここ、個人の開業医じゃないですか。救急車も呼ばない、警察も呼ばない、そんなのおかしいですよ! これでもし先生が助からなかったら……助からなかったら、私の、せ――」

「お嬢さん。泣くにはまだ早いぜ」


 湧き出てくる言葉をそのままぶつける私を、赤毛の男性が優しい声でなだめる。

 自分の頬に、いつの間にか、熱いものがつううと伝っていた。感情が昂りすぎて、抑えることなんてできはしなかった。どうして先生がこんな目に。助けて。助けて。

 助けてよ。


「冷えてきたし、とりあえず中に入ろうか」


 男性がそっと私の肩を抱き、病院のロビーへ促すのに、力なく従う他になかった。

 そして今、私は手術室の前にある長椅子に腰かけている。

 入院着を貸してもらって、その上から先生のスーツを羽織っていた。その袖部分を、ぎゅっと両手で握り直す。私の肩を強く抱き締める、先生の手の感触がまだ体に残っていた。

 お願い。お願いします。助けて。助けて下さい。

 どうしても悪い想像ばかりが膨らむ。もしも、手遅れだったら。先生がもしも、助からなかったら。あの手術中のランプが消えて、駄目でした、医者たちがそう肩を落として、頭を振りながら出てきたら――。

 黒々とした想像に呑まれそうになっていると、ふと、視界に紅茶の缶がフェードインしてきた。


「どうぞ」


 見上げると、にこやかに笑う赤髪の男性だった。

 ぎこちなくそれを受け取る。温かかった。それで、自分の手がどれだけ冷えていたのかを知った。

 男性が私の隣にその長身を沈ませる。


「紅茶は嫌いじゃなかった?」

「……はい、好きです」

「そういえば、あいつがコーヒーをブラックで飲めないの知ってる?」

「え、いいえ。そうなんですか」

「そうそう。意外と可愛いげがあるよな、あいつ」


 穏やかに男性が笑う。

 その声はゆったりとしていて、焦燥感など微塵もなく、大河の流れのように落ち着いていた。気持ちがじんわりと温かく包み込まれ、荒立った心の表面が少しだけなだらかになるのを感じた。混乱を極めている私の感情を、揉みほぐしてくれているのだろう。素直に、ありがたかった。

 少しの静寂を置き、


「君のせいじゃないよ」


 唐突に、そう彼が言った。

 心でも読んだかのようなタイミングに、まじまじと彼の顔を見てしまう。


「君が負い目に感じる必要なんてないんだ。むしろ、あいつは自分が君を巻き込んだと思ってるはずだよ。大丈夫、あいつはこれしきでくたばるようなタマじゃないさ」

「……」

「もしこれで死んだりしたら、俺があの世まで、あいつをぶっ飛ばしに行ってやるよ」


 その声はからっとしていて、湿度の低い南国の風のように、朗らかだった。

 彼につられて、涙目になりながらもふふっと笑ってしまう。


「ありがとうございます。おかげでちょっと、前向きになれました。あの……」

「ああ、言ってなかったね。俺はヴェルナー。ヴェルナー・シェーンヴォルフ」

「ありがとうございます、ヴェルナーさん」

「……君に話があるんだけどさ」


 ヴェルナーさんが膝をこちらに向け、先ほどとはうって変わって真面目な調子で、そう切り出した。自然、私の背中も伸びる。

 彼は決定的な言葉を口にした。


「君は、錦のことが好きなんだよね」


 そう、歩くような速度で。

 心臓が一瞬止まる。私に向けられている赤い双眸の中心は、底の知れない深淵だった。不意に背筋がぞくりとする。その瞳の前では、何も取り繕えそうになかった。小さくこくりと首を振る。


「……はい」

「今日ので分かったと思うけど、あいつは普通の人間じゃない。あいつは、君とは別の世界に生きてる人間だ。君とは全然違う常識の中で生きてきた人間なんだ。それでも、あいつを好きでいられる?」


 冷静な、冷淡ともいえるほどの問いかけだった。試されている、という気がした。

 手にある缶をきゅっと両掌で包む。

 ――怖いと、思った。今までに見たことない目をして、聞いたことのない声を放つ桐原先生を、少しだけ怖いと感じてしまった。それは事実だ。けれど、それはその時だけのことだ。だって、彼は私を助けてくれたのだから。しかも、命がけで。

 自分の、桐原先生が好きだという好意の形は、どこも変容してはいない。

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