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青とエスケペイド  作者: 冬野瞠
第一部
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彼らのこと・回想 銀の追憶Ⅱ(4/4)

 勝手だと思った。父はわざと私を逆上させるような振る舞いをしていたのだ。何て馬鹿だ、何ていびつで不器用な愛情だ。父の胸を思いっきり叩いて、叩いて、叩いて、泣き崩れたかった。死ぬ前になぜ言ってくれなかったのかと罵倒したかった。

 それをぶつける相手はもういない。私が殺したから。自分は父に認められたかったのだ、とその時初めて気がついた。涙が涸れるほど泣いたその日から、私は本当に独りになった。

 きっと、ヴェルナーの弟弟子である無垢な彼も、やがてはそれを背負うことになるのだろう。


「早く帰ってやりてえよ」


 ヴェルナーの声に、現実へと引き戻される。

 赤髪の軽薄な男は、しかし今は深刻な顔をして、写真の表面を親指で撫ぜる。その双眸には確かに父性めいたものが宿っていた。二歳年下のその男が、今は自分より幾回りか大きく見えた。

 不意に、血色の瞳がこちらを見据え、思わずぎくりとする。


「お前も早く帰りてえだろ?」

「私には――もう帰る場所などない」

「そうかい。そりゃ寂しいこった」


 居場所、見つけられるといいな、といつになく真面目な声音のヴェルナーに、私は何も返す言葉を持たなかった。そんな場所が、見つかるとは思えなかった。

 ルネの隣以外には。



 自分はもう、ルネとの密かな秘め事から、身を引くべきなのだと決意した。このまま練習を続けていれば、取り返しのつかない行為に及んでしまいそうな危惧があった。決心するのが遅すぎたくらいだ。

 今夜も、ルネは花にも似た笑みを浮かべ、無言で私のことを見ている。私が何か口にする前に、相対したルネはつかつかと距離をつめ、ぐいと耳元に顔を寄せてきた。何度も嗅いだ、ルネの匂いがする。私の自我は簡単に吹っ飛びそうになり、衝動的に抱擁の形を取ろうとする両腕をたしなめる。

 背伸びをしたルネの唇が、頬に軽く触れた。

 かっと顔が熱を持つ。思わず、彼女の唇の感触が残るそこを、掌で押さえた。


「な、いきなり、何を――」

「ほら、錦も」


 至近距離から私を見上げるルネは、平然と自身の頬をとんとんと指で叩く。

 自分が彼女に、口づけをする。そう考えただけで、体全体が発熱するようだった。そんなことをしたら、おそらく自分を踏みとどめているたがが外れてしまうと、容易に想像できた。

 もう限界だと思った。

 すぐそこにいる女性を、出し抜けにぐいと抱き寄せる。ルネが息を飲む。きつく抱き締めすぎて、彼女の呼吸が一瞬止まる。


「もう我慢できないんだ」


 耳元で囁く声は上擦り、震えていた。

 ルネが恐れを抱いたように、か細く聞き直してくる。


「錦……?」


 荒くなる呼吸をなだめながら、彼女に下半身をわざと押しつける。ルネの身がびくりと震えた。これで彼女にも、私が今どんな状態か分かっただろう。


「分かるだろう? 限界なんだ。君が好きなんだ……」


 いつしか、ほろりと本音がこぼれ落ちていた。

 ルネの肩を掴み、体を離す。ルネの眉尻は下がり、目元に力が入っていた。口元はわずかに震えている。その表情に浮かぶのは恐怖だろうか。畏怖だろうか。嫌悪だろうか。侮蔑だろうか。

 何にせよ、これで終わりだった。

 これ以上、この関係を続けることはできない。私の愚かさのせいで。


「困ったな」


 ふと、ルネが苦笑した。言葉どおり、心から困ったように。

 この期に及んで、自分の心がしゅんと縮むのを感じた。この気持ちは、彼女を困らせてしまう。当たり前だ。ここは戦場で、ルネは部隊長。この気持ちがこの状況に相応しくないのは明白だ。分かっているのに、少なからずショックを受けている自分が腹立たしく、同時に滑稽だった。

 目が潤んでくるのを隠したくて、ルネに背を向ける。


「もう辞めよう。もう、ただの隊員と隊長に戻ろう――」


 どう聞いても涙声になっていた。ルネが気づかないはずがないくらいに。間違いなく、その瞬間が人生で一番惨めだった。


「待ってくれ」


 一歩踏み出そうとする私を、しかしルネは引き留めた。右手が、柔らかいルネの手に引かれる。


「違うんだ。私も君と同じ気持ちなんだ」

「……え」

「たぶん……私の方が先に君を好きになっていた。しかし、これは訓練だからと自分に言い聞かせていたんだ。最後まで隠そうと思っていたんだよ。でも……君も同じだったなんてな。だから困ったと言ったんだよ」


 信じられない気持ちで、振り返る。

 ルネはほのかに頬を染め、はにかみ笑いをこちらに向けていた。

 その時、私は彼女が自分の上官だということを忘れた。自分たちが戦員だということを忘れた。立場も経歴も忘れて、そこにいる人を、ただ愛おしいと思った。


「ルネ!」


 胸の底から溢れでる喜びに突き動かされるまま、私はルネを抱き締める。頬を寄せても嫌がられなかった。

 嫌じゃないのか、と訊くと、腕の中でこくりとルネが頷く。


「ああ……他の男なら恐怖心が湧き出てくるのに、なぜかな――錦なら安心するんだ」


 ルネが脱力して、私の胸に体を預けてきた。鼻腔をルネの髪の香りが満たす。夢を見ているようだった。意中の女性が、今まさに自分の腕の中にいる。

 そう思うと、もう止められなかった。己の中の野性性が、むくむくと鎌首をもたげる。どうにか自分を留めていた理性が、ルネの髪に顔をうずめた瞬間吹っ飛んだ。

 このひとを、今すぐ自分のものにしてしまいたい。

 ほとんど無我夢中の状態で、ルネをマットの上へ組み敷いていた。彼女の美しい髪が床に広がる。驚いた表情で、ルネが私を見上げてくる。脳みそがだったように、何も考えられない。ただ、そのルネの顔が美しいとだけ、その思いだけが思考回路を埋め尽くす。

 私はこの人が好きだ。


「錦……?」


 震える声で、はっと我に返る。自分が何をしようとしているかを自覚する。馬鹿だ、私は。これでは、彼女を傷つけた輩と同じではないか。

 歯を食いしばる。今すぐにでもルネに己を刻みたい衝動を、必死で押し込める。興奮状態にある体、その全身がわなないた。駄目だ、と自分に言い聞かせる。今は駄目だ、駄目だ、駄目だ――。

 ルネがそろそろと手を伸ばして、私の頬に触れた。


「錦。大丈夫だ。君相手なら、怖くない」


 初めて聞いたルネの声は少年のようだと思ったのに、今は可愛らしい女性のものだとしか思われなかった。彼女の顔は上気して、眸はわずかに潤んでいる。そんな表情でほほえまれて、己の欲動を抑えることなどできるはずがなかった。

 私は全ての理性を手放し、ルネもそれに応えた。



 私とルネは結ばれた。

 そして、その忘我の日々は、長くは続かなかった。

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