彼らのこと・回想 銀の追憶Ⅱ(3/4)
食堂の隅でぼんやりと味気ない朝食をとる。昨晩は最悪といっていい夜だった。木陰で息を乱しているところを、こともあろうに当のルネに見られたのだ。
泣いてはいなかったのが不幸中の幸いだろうか。ルネは男の下劣な部分を見慣れているのか、頭を真っ白にする私に対し、ああすまん、と言っただけで驚きはしなかった。
ただそれに続けて、
「君、顔はかわいいのに持ってるものはなかなか立派なんだな」
と言って寄越したために私の羞恥は臨界点を突破した。あの時真っ赤なマグマが覗く火口が手近な場所にあったなら、私は迷うことなく身を投げていただろう。
ルネに合わせる顔がない。自制しても長大なため息が出る。
「何かやつれてない? お前」
私の真ん前に座るヴェルナーが首を傾げる。いつものごとく、悩みのかけらすらなさそうなつるりとした表情だ。
私の心境が土砂降りと大風なら、こいつは雲ひとつない凪の快晴といったところだろう。羨ましい奴だ。憎々しげにねめつけながら、私はミルクと砂糖で味がだいぶ薄まったコーヒーを啜る。
「ルネと上手くいってないのォ?」
図ったようなタイミングでのんびりと投げられた言葉に、げほげほと盛大に噎せこむ。
慌てて口元を拭きながら、ヴェルナーをもう一度睨んだ。この男は何か知っているとでもいうのだろうか。
「ど、どういう意味だ、それは」
「え、そのままの意味だけど? お前が悩んでるってんなら、ルネ関係くらいしかないかなーって」
炎の色をした髪と目を持つ若者は、リラックスした様子で椅子にふんぞり返り、後頭部をぼりぼりと掻いている。私たちの秘密を知っている風ではないが、本当に核心を突かれたくない時に限って突いてくる。厄介な奴だ。
ルネの話を続けていると墓穴を掘りそうなので、仕方なく消極的作戦を採ることにする。つまり、話題を逸らそうというのだ。
「私は別に、特に何もない。むしろ……貴様のことが気がかりなんだ」
「え、俺?」
「前から思っていたんだが、貴様は……シャーロットという女性が好きなのだろう。戦場で恋愛感情を抱くことに躊躇はないのか」
「え、何お前もしかしてルネのこと――」
「今は貴様の話だ」
つい声を張り上げてしまう。何事か、とそばに座っていた隊員たちがこちらを見た。目配せで彼らを黙らせると、おほんと咳払いして向き直る。話題のずらし方が雑だったのは反省すべきだろう。
「今思いついたことじゃない……常々感じていたんだ。戦士としての本分を、まさか忘れているわけではないだろう?」
重ねて問う。その言は嘘ではない。女性に声をかけるヴェルナーの姿は、弛みきっているといってもよいものだ。ルネはあまり口うるさく言い聞かせていないが、私の内心は忸怩たるものだった。
当の好色男は好奇心で輝く目を一旦閉じ、眉尻を下げて肩をすくませる。
「だって恋の神様は時と場所を選んでなんかくれないからね。導かれるまま進むしかないっしょ」
「……神の存在など信じているのか」
「いやァこれっぽっちも」
「……」
前言を軽々と覆すヴェルナーに絶句する。鳥の羽ほど言動が軽い男はずいと身を乗り出し、そんな私の肩口をぽんぽんと叩く。
「まあ細けえことはいいじゃねえの。恋ってなァ苦しいもんだけど、それを楽しむくらいの気概で行こうや、兄弟」
「誰が兄弟だ。それに今は私の話はしていない」
「強がるなよ。自分の気持ちに素直になった方が、人生うまく運ぶぜ」
「年下のくせによくそんな口が叩けるな」
「そういうのはブラックコーヒーが飲めるようになってから言おうね、錦くん」
「……」
ひねくれた笑いを浮かべるヴェルナーへ冷たい一瞥を送るものの、彼が気にする様子はなかった。
ルネへの思いを、表に出す。冗談にしても笑えない。戦火が灯っていないといえどここは戦場で、ルネは上官なのだ。場違いにも程がある。
導かれるままに進めとヴェルナーは言うが、そんなことができる道理もない。そもそも彼女と抱き合い、頬を重ねているのは、訓練という名目でしかないのだ。自分の気持ちを殺すことこそ、今の私に求められていることだ。
本気になってはいけない。そう自らを戒める。
悩み事など彼の辞書にはないと思われていたヴェルナーにも、意外な一面があると知ったのはその数日後だ。
何かにつけて祝宴を催すのがここの流儀であるようで、その日は隊員のうち二人の誕生日が重なったという些細な理由で酒が振る舞われていた。
どんちゃん騒ぎを繰り広げる皆の輪から遠ざかると、小さい焚き火の前で、ヴェルナーがぼんやりと紙片を眺めているのに出くわす。珍しく、やや哀愁漂うセンチメンタルな表情だ。
私に気づくと、おお、と声を上げるが、片手に持った紙をしまう動作はしない。興味を惹かれて手元を覗き見ると、それは写真だった。幼い少年が身に余るほど大きなウサギのぬいぐるみを抱え、こちらに無邪気に微笑みかけている。炎の具合で色が判別しにくいが、髪の色素はかなり薄い。年は十歳に満たないくらいだろうか、くっきりした二重の目はぱっちりとしていて、ルネサンス期の天使にも似た美少年である。
思わずほうとため息が漏れた。
「驚いたな。そんなに大きな息子がいたのか」
「馬鹿言えよ、いくつの時の子供だっての。天然かよ、お前は」
ヴェルナーが嘆息しながら私の顔を見、また写真に目を落とす。こりゃあ弟子だよ、俺の、とぼそっと呟かれた言葉は、意図して感情を抑えているように聞こえた。
「弟子……」
「まあ、俺の弟子っつうか、弟弟子でもあるんだけどな」
しんみりした調子で言う。
師匠と弟子、というのは影特有の教育システムだ。影のエージェント養成の仕方は二つある。一つは世界各地に点在する、影の養成所――孤児院や児童養護施設の形をとることが多い――での教育。もう一つは、私やヴェルナーがそうしてきたように、影のエージェントと師弟関係を結んで受ける教育だ。
エージェントが弟子をとる場合、見込みのある人間――多くは幼く身寄りのない子供――を、予見士からのアドバイスを受け選別し、引き取って養育する。師匠は弟子に、持っている全ての技術を教え込む。ヴェルナーがその歳で既に弟子を持っているのは、驚嘆すべき事柄だった。
そして、ヴェルナーは彼を本国に一人残し、ここに来ているというわけなのだろう。
「……心配なのか」
「たりめえだろ。まだ十三なのに、一人ででかい家にいるんだぜ。きっと毎日泣いてるよ」
どこか拗ねたような口ぶりだった。
もう一度写真を見る。どこまでも澄んだ、濁りのない瞳だった。自分が失って久しい、無邪気な清らかさがそこには宿っていた。けれど、彼もいずれは失うのだろう。影という組織の在り方を知り、自分の手の汚し方を学ぶようになれば。
弟子は、師匠をその手で殺めて初めて一人前になる。
そのために存在する、"影のエージェント同士においてはどんな法律違反も罰せられない"、という規則。本当に、くそったれだ。
彼が一人で家にいるということは、ヴェルナーの師匠はもうこの世にいないのだろう。ヴェルナー自身が手を下したから。彼が師に銃口を向ける様子が、なぜだか瞼の裏にはっきり浮かぶようだった。私だって一時も忘れることはない、師の今際の目つき。そして彼が手帳に遺したもの。
ヴェルナーはどうだか知らないが、私は師匠である養父を憎んでいた。どんなに苦しい鍛練をこなしても、お前は他人より劣っているのだからもっと努力しろと蔑まれ、こそこそと数学を勉強しているのがバレれば、養護施設から譲り受けた大切な教本をずたずたにされゴミ箱に放り込まれ、自身は殴られたり蹴られたりした。十年近く暴力と暴言の嵐を耐え忍んだ私は、物言わぬ骸となったその人を前にしても、ほとんど何も感じなかった。
嗚咽するほど泣いたのは、父の遺品を整理する段階に至ってからだ。父の手帳の最後のページに、
"錦へ
お前がこれを見るか分からんが、見るとしたら、私はもうこの世にいないのだろう。お前はちゃんと私を憎めただろうか。手にかける瞬間になって、躊躇せずに済んだだろうか。そうであったなら良いのだが。
自分の最期のために、お前にずっと冷たく当たってきたことを、許せとは言わない。お前は強くなった。私より、ずっと。だから、これからは自分の好きに進むといい。
長い間、苦しめてすまなかった"
そう走り書きしてあった。




