彼らのこと・回想 銀の追憶Ⅱ(2/4)
抱擁する腕にぐっと力を入れると、私の胴に回されたルネの手がばしばしと体を叩く。
「おい錦、力入れすぎだ。痛いぞ」
「あっ、ああ、すまない……」
どうやら加減を誤ったらしい。慌てて両腕を解くと、抱き締められていたせいか頬をわずかに上気させたルネが、私を見上げて苦笑いしていた。
「君、童貞か」
「え」
さらりと放たれたルネの言葉にたじろぐ。
「いや、まあ、その、確かにど……女性と睦まじい仲になったことはないが……」
しどろもどろになりながら、なんとかそれだけ返す。
これまでの人生で、私は女性に縁がなかっただけでなく、特定の誰かと親しくなること自体を初めから諦めていた。幼い頃、施設から養父に引き取られてからというもの、彼について国内を転々としていたためだ。学校のクラスメイトの顔を覚える頃には、もう次の場所へ移動する日が決まっていた。
影のエージェントでもあった養父の死と、"パシフィスの火"の勃発はほぼ同時期で、私は後ろ楯を喪った代わりに、どこへでも赴くことができた。何も守るものを持たない身というのは楽だった。それに、各国の特殊部隊員とともに作戦に身を投じていれば、余計なこと――主に養父の最期――について考えずに済んだ。 仲間のうちにはそんな状況下で女性の肌に飢え、現地の風俗などを利用していた者も多かったが、私はそういう方面には興味が薄かった。自分にとって、戦いだけが生活の全てだった。
そのような理由から、私はその時まで、人と肌を触れ合わせたことがなかったのだ。
「信じられんなあ。君、背も高いし顔もいいんだからモテるだろう?」
「? それは、何の皮肉だ?」
「皮肉ってなあ、君……」
ルネが心底面白そうに笑う。その表情を直視できなくて、火照った顔を反射的に逸らした。ルネの訓練のはずなのに、これでは立場が逆転しているではないか。
「錦は可愛いな」
ぼそっとルネが漏らす。いつもより少し低いその声に、なぜだか背筋がぞくりと震えた。
「私を見ろ、錦」
彼女の両手が私の頬を捕らえ、強制的に前を向かせる。ルネは優しくほほえんでいた。なのに、足の着かない海で鮫に出会ってしまったように、体が固まって指一本たりとも動かせない。
私の目にはルネの唇が拡大されたかに見える。戦地でも艶を失わないそこに、全ての意識が集中する。感じてはいけない唇のなまめかしさを、熱に浮かされた思考がスキャンする。自分の獰猛な部分が目覚めはじめるのを自覚する。
不意にルネが全身を強く押し付けてきて、私はバランスを崩した。彼女の体と自分の体が絡んだまま、床の上のマットに仰向けに倒れる。痛くはなかったが、急に体勢が変わって頭がぐらぐらした。
ルネは私の上に馬乗りになっていた。
いつぞやの夜のような殺気は、今の彼女にはない。代わりに、少々意地悪な、小悪魔的な笑みが口の端に貼りついている。
何がどうなっているか混乱し、半身を起こした私の唇を、手袋をしたままのルネの指先がゆっくりとなぞってゆく。ぞくぞくして言葉がでない。ルネの長く美しい銀髪の半分ほどが私の体の上に垂れ、自分の視界の大部分は、湾曲した幕のようになっているそれに閉ざされていた。
ばくばくという心臓の音がうるさい。
するり、とルネの指がコートの袷の中に入ってきて動揺した。体がびくりと過剰に跳ねる。
「ルネ、待ってくれ……」
久しぶりに発声してみると、自分のものとは思えないくらい声がか細く、上ずっていた。
どういうことなのだ、これは。男は苦手なのではなかったか。もしかして、自分が優位ならば問題ないとでもいうのか?
ルネが目元を緩ませる。
「大人しくしていれば悪いようにはしないさ」
「駄目だ、こんなところで――」
私に見えている景色は、いつからかぼやけていた。こんな顔を見られたくないのに、彼女の華奢な体を振り払うことすらできない。
彼女の指の腹がつつ、と脇腹を撫でる。感覚が鋭敏になりすぎてくすぐったい。
「ひ……っ」
「初めてなんだろう? 君は何もしなくていい。そのまま、寝ていればいい」
「ル、ネ」
「あんまりかわいい声を出すなよ。煽ってるのか?」
「ちが……」
熱病に侵されたように、頭がぼーっと熱い。
ルネが耳元まで顔を近づけて、低く囁いた。
「私が君の純潔を奪ってやろう」
体の先端から先端まで電流が走った。ルネの声はまるで麻酔だった。脳が麻痺して、まともに考えられない。ルネの指が私の服を暴き、肌に指先が触れるのまで想像が展開する。
もうどうにでもなれと、私は目を閉じた。
しかし、覚悟した嵐は、いつまでもやってこなかった。
薄目を開くと、口元に手をやり、肩を小刻みに震わせてルネが忍び笑いを漏らしている。
「……なんてな。少しいじめすぎたか」
悪びれずにのたまう姿は、まるで悪ガキだった。
してやられた。私は唖然として、阿呆のように彼女を見返すしかない。
「君はなんというか、いじめたくなるな。今日はもうやめておいた方がよさそうだ。次からも可愛がってやるから、逃げるなよ?」
楽しげなルネに、鼻をつんとつつかれる。私は頭を抱えたかった。穴があったら埋めてほしかった。むしろ、穴がなくとも海に沈めてほしかった。
その時の自分の脳裏に浮かんでいたもの。それは、蜘蛛が獲物の虫を糸でぐるぐる巻きにするところ。
絡め取られた。そう思った。
その晩は体の熱を持て余して、夜通し悶々と思い悩むことになったが、その顛末はまあ、どうでもいいだろう。
その後も訓練は続いたが、初回のようなドラスティックなルネは嘘のように鳴りを潜めていた。無言で長々と抱き合い、頬を寄せるだけのキスを繰り返す。何度も、何度も。
ルネは徐々に慣れてきたのか、私が素手で頬に触れても、ほぼ拒否反応を示さないまでになっていた。
私の方はというと、訓練に全く慣れることができず、ルネと秘密を共にした夜は本能が昂り、どうしようもなく体の芯が熱を帯びた。こんなに自分の体の制御が利かないのは初めてだった。それを鎮めるため、ルネの悪戯っぽい顔を想起しながら、自らを慰めるのはどこまでも惨めなものだった。
テント群と見張り連中から離れ、草むらの中で息を荒くし、べとべとになった右手を冷然とした気持ちで見つめていると、自分が極限まで卑しく矮小な存在に思われ、あの孤高で高潔な美しさを持つルネに申し訳なかった。罪の意識で押し潰されそうなのに、その背徳感すら次の興奮の薪となり、懲りずに全身を火照らす自分がほとほと嫌だった。
ルネの指で優しく触ってほしい。優しくなくてもいいから、乱暴でもいいから、彼女の指が欲しい。
ルネに触りたい。抱き締めたい。ルネに触ってほしい。抱き締めてほしい。
もっとずっと先まで、二人で行きたい。
行き場なく堆積する思いを抱えて独りで達したあと、私は決まって涙を流していた。
知りたくなかった。自分が、こんなに最低の男だったなんて。




