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青とエスケペイド  作者: 冬野瞠
第一部
62/137

彼らのこと The Hero is here.Ⅱ(1/2)

 英雄はどこにいる、という問いかけが脳内で反響する。

 英雄。八年前の影対"ペッカートゥム"の抗争"パシフィスの火"において、罪のトップを討つことで闘いを鎮火させた存在。なぜ今さら、"罪"の人間がそれを追っているのだろう。数秒思案するも、理由に何の心当たりもなかった。

 鸚鵡オウム返しに問い返す。


「英雄だと……」

「ああ。あんたの調べはついてるよ、桐原錦さん。八年前まで影の執行部に所属。最後にいた場所はシューニャ(ボス)がいた第一部隊。当然、英雄の正体も知ってるだろ。行方だって見当がつくんじゃないのか」

「英雄など捜してどうするつもりだ。今から先代の復讐でもする気か」


 質問に質問を投げかけると、優位に立っている者の余裕なのか、特に気を害した風でもなく、相手は肩を軽く竦めた。


「さてねえ、俺たち末端の者には教えられてないな。見つけても殺すんじゃなく、生け捕りにするようには言われてるから、敵討かたきうちってわけじゃないのは確かだ」


 その答えに、わずかに目を見張る。言葉の内容に虚を突かれたのではない、訊いてもいないことをぺらぺらと喋りだす、その軽率な態度が想定外だった。そして確信した。ここにいる彼らはおそらく、犯罪者としての程度はそれほど高くない。

 おそらく日本人である彼らは、人を監禁して暴力を振るうのに慣れてはいないのだろう。この状況にある種の高揚感や陶酔を覚え、判断力を何割か喪失している可能性は十二分にある。

 だが、殺すのが目的でないとの言に、英雄を捜す意図がますます分からなくなった。

 自分はどうするべきか、コンマ数秒のあいだに選択肢を浮かべ、そのうち一つを選び取る。

 挑発するように、ゆっくりと尋ねた。


「知らないと言ったら?」

「なら、吐いてもらうまでさ」


 またも金属の棒が振るわれる。今度は頭へ、横薙ぎに。こめかみからみしり、と嫌な音がしたから、骨にひびでも入ったかもしれない。衝撃でそのまま椅子ごと倒れ込んだ。無様に身じろぐ私の腹へ、続け様にブーツの爪先が何発も入る。

 胃から内容物がせり上がり、こらえきれず私はその場で吐いた。

 まだ未消化の、肉まんの残骸が胃液とともに広がる。その吐瀉物の海へ頭を押し付けられると、強酸性の消化液が顔の傷に染みた。臭いでえずきそうになるが、もう吐くものもない。流れ出る血と胃の内容物だったものが混じり合う。


「さあ、吐く気になったか」


 威圧的な声が降ってくる。私はおかしな体勢で無理に首をひねり、彼を見上げる。

 その山羊の被り物の中で、相手は私がさぞ惨めな表情をしていると思っただろう。ただそれは見通しが甘すぎるというものだ。

 感情は当然何一つ読めないが、男がひるむのが感じられた。


「……何笑ってやがる」


 私は思わず笑っていた。

 こんな程度の低い奴らに、捕らえられたのが可笑おかしかった。こんな猿真似の拷問もどきで、優越感に浸っている彼らが憐れですらあった。彼らは拷問のやり方というのを全く分かっていない。ただひたすらに痛みを与え、傷つけるのが拷問ではないのに。本当の拷問の作法を教えてやりたいくらいだった。

 拷問に必要なものは、暴力ではない。絶望だ。


「お前らのやっていることは拷問ではない、ただのお遊びだ。本当のやり方を教えてやろうか? 私の本業は教師だ、教えるのは慣れているぞ」

「この……ッ」


 わざと心情を逆撫でするような単語を選ぶと、逆上した相手は踵方はで肋骨のあたりを踏みつけてきた。

 肋が何本か折れたようだ。それはともかく、肺に刺さっていないといいのだが。

 さっき抱いていた淡い焦燥はいつしか消え、今度はむしろ失望している己に気がつく。

 ――せいぜいもっと楽しませてくれ。私を落胆させないでくれ。

 そんな、戦闘狂めいたことを考えていた。自分は結局、こういう世界でしか生き場所がないのだという思いが、きりきりと胸をえぐる。


「吐く気になったかよ……」

「全くならんな。何度がっかりさせれば気が済むんだ、お前らは」

「こいつ……もう骨の何本かはイってるはずなのに……!」


 私の受け答えがあまりにも変化しないのを見てか、山羊頭たちのあいだに動揺が広がるのを感じ取る。焦った方が不利になるのに。それも分かっていないようだ。


「"罪"も堕ちたものだな。今の"罪"は拷問すらろくにできない凡骨ポンコツの集まりなのか?」

「っこいつ……! 次は片目を潰す。心を入れ替えるなら今のうちだぞ」


 浅い脅し文句を吐き、一人が懐からサバイバルナイフを取り出す。

 弱い光源でもぎらつく刃が鞘から抜かれても、心の表面は完全に凪いでいた。今の私に絶望はない。

 なぜならば、自分は今、ここで死ぬつもりだからだ。

 飛行機や自動車で、自爆テロに踏み切る人間を思い浮かべれぱ分かる。死を恐れない人間ほど、恐るべき存在はないのだ。そういう人間にはもはや、絶望はないから。自己の消滅を受け入れた人間を、死をちらつかせることにより絶望させることなど不可能だ。

 私は知っている(・・・・・・・)。英雄の居場所を。それを胸に仕舞ったまま、私はここで死ぬ。そうして英雄の居場所は完全に闇へと葬り去られる。事後処理はヴェルナーやハンス君が滞りなくやってくれるだろう。"罪"の人間の途方に暮れる顔が容易に想像できた。

 

「勝手にしろ。お前らが英雄の居場所を聞き出す前に、私が死ぬのが先だろうがな」

「てめえ、何なんだよ……ッ」


 唇に薄ら笑いを貼りつかせてやると、投げつけられる声は震えていた。まるで泣く直前のように。

 ナイフを持った山羊が私の体を乱暴に仰向かせる。胸の上に馬乗りになられると、さすがに折れた箇所が軋んで顔が歪んだ。男は急いていた。しゃにむに、闇雲にナイフは振り上げられ、鮮血とともに私の片目からは光が失われる。



 ――はずだった。

 男の動作は、か細い女性の悲鳴によって中断された。

 山羊頭たちがはっとして入り口の方を見る。徐々に、必死な声がこちらへ近づいてきている。恐怖が如実に表れている声色。すっ、と自分の体温が下がった。

 その声。私はそれに聞き覚えがある。今日の日中も、そばで聞いていた声。

 好ましいその響き。

 心臓が早鐘を打つ。そんな、嘘だと言ってくれ。これはただの悪夢に過ぎないのだと――。


「やだっ、離して下さい! 何するんですかっ、離してッ」


 図抜けて立端たっぱのある山羊頭に手首をひねられ連れてこられたのは。

 懸命に束縛から脱しようと手足を動かしているのは。

 金切り声を上げて抵抗しているのは。

 恐怖を顔全体にあらわにしているのは。

 私たちの目の前に表れた小柄な女性は、水城先生だった。


「な……」


 喉が酸素を求め、喘ぐ。冷や水を浴びせられたよりも深刻な、深い谷へ突き落とされた心持ち。精神への衝撃に打ちのめされ、先ほどまでの余裕など吹き飛んだ。

 なぜ、彼女がそこにいる。

 水城先生の傍らに立つ男は、もがき続ける彼女を泰然と片手でいなしていた。


「こそこそ中を探ってる女がいた。どうやら影の連中ではなさそうだが……」


 そこで、水城先生の顔がこちらに向いた。みるみるうちに、表情が驚愕の色に塗り変えられる。昼間まで隣の席に何事もなく座っていた同僚が、縛られて無理やり座らされ、かつ血まみれで転がっているのだから当然だ。

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