彼らのこと The Hero is here.Ⅱ(1/2)
英雄はどこにいる、という問いかけが脳内で反響する。
英雄。八年前の影対"罪"の抗争"パシフィスの火"において、罪のトップを討つことで闘いを鎮火させた存在。なぜ今さら、"罪"の人間がそれを追っているのだろう。数秒思案するも、理由に何の心当たりもなかった。
鸚鵡返しに問い返す。
「英雄だと……」
「ああ。あんたの調べはついてるよ、桐原錦さん。八年前まで影の執行部に所属。最後にいた場所はシューニャがいた第一部隊。当然、英雄の正体も知ってるだろ。行方だって見当がつくんじゃないのか」
「英雄など捜してどうするつもりだ。今から先代の復讐でもする気か」
質問に質問を投げかけると、優位に立っている者の余裕なのか、特に気を害した風でもなく、相手は肩を軽く竦めた。
「さてねえ、俺たち末端の者には教えられてないな。見つけても殺すんじゃなく、生け捕りにするようには言われてるから、敵討ちってわけじゃないのは確かだ」
その答えに、わずかに目を見張る。言葉の内容に虚を突かれたのではない、訊いてもいないことをぺらぺらと喋りだす、その軽率な態度が想定外だった。そして確信した。ここにいる彼らはおそらく、犯罪者としての程度はそれほど高くない。
おそらく日本人である彼らは、人を監禁して暴力を振るうのに慣れてはいないのだろう。この状況にある種の高揚感や陶酔を覚え、判断力を何割か喪失している可能性は十二分にある。
だが、殺すのが目的でないとの言に、英雄を捜す意図がますます分からなくなった。
自分はどうするべきか、コンマ数秒のあいだに選択肢を浮かべ、そのうち一つを選び取る。
挑発するように、ゆっくりと尋ねた。
「知らないと言ったら?」
「なら、吐いてもらうまでさ」
またも金属の棒が振るわれる。今度は頭へ、横薙ぎに。こめかみからみしり、と嫌な音がしたから、骨にひびでも入ったかもしれない。衝撃でそのまま椅子ごと倒れ込んだ。無様に身じろぐ私の腹へ、続け様にブーツの爪先が何発も入る。
胃から内容物がせり上がり、堪えきれず私はその場で吐いた。
まだ未消化の、肉まんの残骸が胃液とともに広がる。その吐瀉物の海へ頭を押し付けられると、強酸性の消化液が顔の傷に染みた。臭いでえずきそうになるが、もう吐くものもない。流れ出る血と胃の内容物だったものが混じり合う。
「さあ、吐く気になったか」
威圧的な声が降ってくる。私はおかしな体勢で無理に首をひねり、彼を見上げる。
その山羊の被り物の中で、相手は私がさぞ惨めな表情をしていると思っただろう。ただそれは見通しが甘すぎるというものだ。
感情は当然何一つ読めないが、男が怯むのが感じられた。
「……何笑ってやがる」
私は思わず笑っていた。
こんな程度の低い奴らに、捕らえられたのが可笑しかった。こんな猿真似の拷問もどきで、優越感に浸っている彼らが憐れですらあった。彼らは拷問のやり方というのを全く分かっていない。ただひたすらに痛みを与え、傷つけるのが拷問ではないのに。本当の拷問の作法を教えてやりたいくらいだった。
拷問に必要なものは、暴力ではない。絶望だ。
「お前らのやっていることは拷問ではない、ただのお遊びだ。本当のやり方を教えてやろうか? 私の本業は教師だ、教えるのは慣れているぞ」
「この……ッ」
わざと心情を逆撫でするような単語を選ぶと、逆上した相手は踵方はで肋骨のあたりを踏みつけてきた。
肋が何本か折れたようだ。それはともかく、肺に刺さっていないといいのだが。
さっき抱いていた淡い焦燥はいつしか消え、今度はむしろ失望している己に気がつく。
――せいぜいもっと楽しませてくれ。私を落胆させないでくれ。
そんな、戦闘狂めいたことを考えていた。自分は結局、こういう世界でしか生き場所がないのだという思いが、きりきりと胸を抉る。
「吐く気になったかよ……」
「全くならんな。何度がっかりさせれば気が済むんだ、お前らは」
「こいつ……もう骨の何本かはイってるはずなのに……!」
私の受け答えがあまりにも変化しないのを見てか、山羊頭たちのあいだに動揺が広がるのを感じ取る。焦った方が不利になるのに。それも分かっていないようだ。
「"罪"も堕ちたものだな。今の"罪"は拷問すらろくにできない凡骨の集まりなのか?」
「っこいつ……! 次は片目を潰す。心を入れ替えるなら今のうちだぞ」
浅い脅し文句を吐き、一人が懐からサバイバルナイフを取り出す。
弱い光源でもぎらつく刃が鞘から抜かれても、心の表面は完全に凪いでいた。今の私に絶望はない。
なぜならば、自分は今、ここで死ぬつもりだからだ。
飛行機や自動車で、自爆テロに踏み切る人間を思い浮かべれぱ分かる。死を恐れない人間ほど、恐るべき存在はないのだ。そういう人間にはもはや、絶望はないから。自己の消滅を受け入れた人間を、死をちらつかせることにより絶望させることなど不可能だ。
私は知っている。英雄の居場所を。それを胸に仕舞ったまま、私はここで死ぬ。そうして英雄の居場所は完全に闇へと葬り去られる。事後処理はヴェルナーやハンス君が滞りなくやってくれるだろう。"罪"の人間の途方に暮れる顔が容易に想像できた。
「勝手にしろ。お前らが英雄の居場所を聞き出す前に、私が死ぬのが先だろうがな」
「てめえ、何なんだよ……ッ」
唇に薄ら笑いを貼りつかせてやると、投げつけられる声は震えていた。まるで泣く直前のように。
ナイフを持った山羊が私の体を乱暴に仰向かせる。胸の上に馬乗りになられると、さすがに折れた箇所が軋んで顔が歪んだ。男は急いていた。しゃにむに、闇雲にナイフは振り上げられ、鮮血とともに私の片目からは光が失われる。
――はずだった。
男の動作は、か細い女性の悲鳴によって中断された。
山羊頭たちがはっとして入り口の方を見る。徐々に、必死な声がこちらへ近づいてきている。恐怖が如実に表れている声色。すっ、と自分の体温が下がった。
その声。私はそれに聞き覚えがある。今日の日中も、傍で聞いていた声。
好ましいその響き。
心臓が早鐘を打つ。そんな、嘘だと言ってくれ。これはただの悪夢に過ぎないのだと――。
「やだっ、離して下さい! 何するんですかっ、離してッ」
図抜けて立端のある山羊頭に手首を捻られ連れてこられたのは。
懸命に束縛から脱しようと手足を動かしているのは。
金切り声を上げて抵抗しているのは。
恐怖を顔全体にあらわにしているのは。
私たちの目の前に表れた小柄な女性は、水城先生だった。
「な……」
喉が酸素を求め、喘ぐ。冷や水を浴びせられたよりも深刻な、深い谷へ突き落とされた心持ち。精神への衝撃に打ちのめされ、先ほどまでの余裕など吹き飛んだ。
なぜ、彼女がそこにいる。
水城先生の傍らに立つ男は、もがき続ける彼女を泰然と片手でいなしていた。
「こそこそ中を探ってる女がいた。どうやら影の連中ではなさそうだが……」
そこで、水城先生の顔がこちらに向いた。みるみるうちに、表情が驚愕の色に塗り変えられる。昼間まで隣の席に何事もなく座っていた同僚が、縛られて無理やり座らされ、かつ血まみれで転がっているのだから当然だ。




