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青とエスケペイド  作者: 冬野瞠
第一部
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彼らのこと・回想 銀の追憶Ⅰ(3/5)

「ここは特殊な戦場だからな。他の部隊みたいに、小規模な衝突が日常的に起こるなんてことはねえのよ。一日何も起こらないか、もしくは最終決戦かどっちかだ。そんな状況で、いつもぴりぴり神経尖らせてたんじゃあ誰でもすぐに参っちまう。だから今日みたいに、時々息抜きが必要なんだよ。隊員の精神状態に気を配るのも、隊長の役目ってわけさ」


 そう語るヴェルナーの紅い瞳には、確かに尊敬と慈愛の念がこもっていた。

 なるほどな、と納得する。戦地に相応しくない宴も、隊長の采配のうちというわけか。ここでは他所の部隊の常識は捨てた方がよさそうだ。

 私も、酒の器を思いきり傾けてみる。喉が焼けつく感覚があり、アルコールの匂いがつんと鼻を突く。脳の中心がふわっと一瞬だけ軽くなって、揺れる。


「ところでさ」


 隣に座る男が声をひそめた。その双眸が野性的な光を帯び、隙を突かれた心持ちになる。側にいるのは狂暴な獣なのではないか、と五感を狂わせるほどの眼光の鋭さだった。


「他の奴から聞いたけど、黒獅子ってのはお前のことらしいじゃねーか。本当かよ」

「……本当も何も、自分でそう名乗ったわけじゃない。他人が勝手に呼んでいるだけだ」


 寒気に気づかないふりをして、ヴェルナーの目を睨み返す。

 黒獅子という仰々しい呼び名は、私の異名のようなものだ。その当時は襟足が長かったから、誰かがそれをライオンのたてがみに見立てて付けたのだろう。自分としては、髪を切る余裕もない日々を送っていただけだったのだが。


「ふーん……当代最強とうたわれるエージェントがこんな優男だとは思わなかったぜ。今度手合わせ願いたいね」

「勘弁してくれ。それも他人様ひとさまが言っているだけで、誰が一番強いかなんて、総当たり戦でもしないことには分からないだろう。私は命令に従って戦っているだけだよ。それに、味方同士で戦うなんて無意味だろうに」

「事前に聞いてこなかったのか? ここじゃあ"罪"の襲撃可能性がゼロの日は毎日、隊員同士で模擬戦闘をやるんだぜ。手加減無用のな。訓練だと甘く見てると、死ぬぜ」


 ヴェルナーはにたりと口の端を好戦的に歪ませると、アルコールをちびりと舐めた。

 物騒な眼光に負けじと睨み返す。


「何を二人でこそこそ喋ってるんだ? 楽しそうだな、私も混ぜろ」


 膠着状態に陥りかけたところで、上機嫌なルネが乱入してきたため、その場の緊張ははらりと解けた。

 第一部隊での初日の夜は、このようにして更けていった。



 百人近い第一部隊の中で、アジア人は数えるほどしかおらず、その中でも日本人は私一人だった。そのせいで周りからもの珍しがられ、ことに欧米人からモノノフだのサムライだのと囃し立てられた。彼らからすれば単なるジョークなのかもしれないが、気分のよいものではなく、リアクションをとるのにも嫌気が差してきた私は、次第に隊員たちを避けるようになった。だいいち武士などとうに絶滅している。現実を見ろ。

 一日のうち午前いっぱいは鍛練と訓練で潰れるが、午後は非番の者は自由に過ごしていいことになっていた。たとえ襲撃可能性がゼロでも、三十人ほどは交代制で見張りに就く。ただしその最中にも、相棒バディを組んだ相手とトランプに興じたりチェスに勤しんだりする者も珍しくはない。

 非番の日、私はよく林の中の手頃な木に登って、眼下からの楽しげな声を聞きつつ中空で過ごした。あまり森に分け入りすぎるとならず者と見なされ銃火器に肉片にされる恐れがあるため、そこは注意ぶかく木を選ぶ。

 時間が止まったような午後のひととき、木漏れ日の下で、私は愛読書の数理本をひもといた。その本はもう装丁がぼろぼろになって綴じ紐も甘くなっている代物で、大多数の人間には訳の分からない数式ばかりが羅列しているとしか見えないものだ。

 趣味が数学だというと、大抵のエージェントは眉間に皺を寄せる。もっと実戦に役立つものを趣味にしたらどうだ、と言わんばかりに。私の師匠もそういう人だった。この本も一度彼にめちゃくちゃに踏みにじられ、捨てられそうになった。

 他人がどう言おうと構わなかった。数学は自分にとって癒しだった。戦闘に身を投じること以外で、唯一没頭できる無二のものだ。数学は変わらない。いつでも、いつまでも、どこでも、その本を開けば不変の世界が広がっている。変化に揉まれてきた人生で、微動だにしないものを求めるのは当然だったと今は思う。

 ふと人の声がした気がして、本から顔を上げる。小さいが確かに、聞こえる。私の名を呼ぶ、澄んだ声だ。


「錦ー! どこにいるー?」


 その伸びやかな呼び声はやがてすぐそばまで近づいてきた。木の根元に向かって、上だ、と声を張る。じきに、ルネの姿が視界にフェードインしてきた。彼女は、こちらを見上げて気持ちのよい笑みを浮かべた。


「そんなところにいたのか、錦」

「何か用か」

「まあなんだ、ちょっと待ってろ」


 問いには答えずに、ルネが枝を伝ってひょいひょいと登ってくる。あっという間に、私のすぐ隣の枝にたどり着いた。そして、私の手元を覗きこむ。


「何読んでるんだ……数学の本か?」

「まあな。これを読んでいる時が、一番落ち着くんでな」


 彼女が目を丸くするのを、私は無感動に見ていた。きっと、次の瞬間には変わった奴だと笑うのだろう。それで傷つきもしない。

 ところが、ルネはそうしなかった。


「へえ……。それ、私にも教えてくれないか」


 好奇心に満ち満ちた瞳で、そう言ってきたのだ。意外な反応に、言葉を返すのが遅れる。


「……興味があるのか」

「そうだな。その数式の意味というより、君にな」


 にんまりと微笑んでそう言うから、今度こそ私は返す言葉を失う。

 ルネの真意を図りかねて顔をしかめる。まるで、私自身について知りたいと言っているように聞こえる。だとしたら、無駄な労力を使うだけだと教えてやらねばなるまい。私は何の面白みもない人間だ。それは自分が一番よく知っている。


「私はつまらない人間だ。関わり合いになる価値などないぞ。放っておけ」


 善意で忠告したつもりなのに、ルネはどう捉えたのやら、ぷっと噴き出して弾けるように笑いだした。


「なぜ笑う」

「いや、君は面白いよ。まったく面白い。ああ、からかってるわけじゃないんだ」

「……」

「関わり合う価値があるかどうか、君がつまらない人間かどうか、君が決めることじゃない。それは、私が決める」


 ルネはまるで大輪の花のように笑いかけ、そして出し抜けに手を伸ばし、私の頭をわしゃわしゃと撫でた。

 ゆっくりと優しく、それでいてしっかりと力強く。

 唐突な行動に、唖然として動けない。もしかしなくとも、私はその時、初めて人に頭を撫でられた。胸の奥がこそばゆくなる、しかし不快ではない不思議な感覚に襲われる。経験したことのない、心のざわつきだった。


「それじゃあ、楽しみにしているよ」


 言い残して、五メートル以上はある高さから、ルネはひらりと軽やかに飛び降りた。私はしばらくぼうっとして、ルネの掌が前後したあたりの頭の上に、手をやってみるなどの不可解な行動を繰り返していた。



 冗談だと思ったのに、ルネの"数式を教えてくれ"という言葉は本気のようだった。

 二人揃って非番の日は、誰も彼も午睡ひるねするような静かな昼下がりから、木々の間に張ったロープに垂らした紙と切り株とで、即席の青空教室を始めた。いつも見える青空は特殊プレートに投射された紛い物だったが、天候を気にする必要がないのはありがたかった。

 ルネはよい生徒だった。私の話をしっかり頷きながら聞き、分からないところがあると、こちらの話が切れた絶妙なタイミングで質問を投げかけた。それは彼女がきちんと理解していることを確認するための質問であり、それによってルネが私の解説を分かってくれているのが伝わってきた。誰かに何かを教える経験は私にとって初めてで、理解してもらうのがこれほど自らに喜悦をもたらすことだったのは想定外だった。


「錦は教えるのが上手いな」

「そうか?」

「ああ。教師にでもなったらどうだ」

「おだてても何も出ないぞ」


 私はそれをお世辞だと思って笑った。

 ルネが数学を教えてくれと言ったのは、部隊に馴染もうとしない私への、隊長としての彼女なりの気遣いだったのだろうと思う。そしてその思惑は見事に当たった。

 数学教室にはいつしか一人二人と生徒が増え、その時間を通して、私は隊員たちの輪に自然と溶け込んでいった。あの軽佻な赤髪の男、ヴェルナーも、語らうようになってみると意外と思慮は浅くなく、悪い奴ではないのかもしれないと思えるようになった。

 天を覆うプレートは外からの光を透過するため、島の内側でも自然な昼夜の移ろいがある。夕刻、教室に集っていた生徒どもを解散させ、朱に染まる景色の中、ルネと二人で長々と話し込んだ。

 自分は話し下手だと自覚していたのに、ルネとはいつまでも話題が尽きない。心の内のどこからか、彼女についてあらゆることを知りたい、彼女に自分を知ってほしい、という気持ちが際限なく湧いてきた。そんなことは未だかつて無かった。他人に対する興味が薄いとの自己認識を、ルネという存在はたやすくうち崩してしまった。

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