彼らのこと・回想 銀の追憶Ⅰ(1/5)
―桐原錦の話
その頃の私は、目隠しされた獅子のようだった。
できることといったら力を振るうことばかりで、他人と心を通わせた経験もなく、どうしようもなく未熟で、無知で。
そしてそれゆえに、幸せだった。
涼やかな風がそよいでいた。八年前、私は二十二才だった。
当時、影と"罪"の衝突は苛烈を極めていた。それは両陣営の予見士による情報戦であった。襲撃の準備をする一方の拠点をもう一方が襲撃しようとし、その襲撃を阻止すべく、また一方が襲撃の計画を立てる。影においては予見士がチェスのプレイヤーであり、執行部隊の戦士たちは駒だった。
堂々巡りする予見。日夜発生と消失を繰り返す戦線たち。
その影対"罪"の全面闘争は、のちに"パシフィスの火"と呼ばれることになる。
両陣営がくんずほぐれつして作りだす混沌から、切り離された場所があった。
神殿。あるいは、聖域。
それは名もなき孤島であり、影の最後の砦でもある。そこには影の最高権力者のシューニャがいる。影の創立者たる彼のもとへは機密情報が昼夜問わず届けられ、彼を守ることが影そのものを守ることと同義だった。影の創立者たちはシューニャ一人を残してこの世の者ではなくなっていた。すべては"罪"の仕業だった。
孤島は全面が特殊な人工プレートで覆われ、目視はもちろん、レーダーその他の機器をもってしても見つけることはできない。島へ入るには影の構成員しか知らない海底の道を通り、地上に抜けたあとは入り組んだ獣道を、ある特定の進み方に沿って歩いて行かねばならない。誤れば、草むらに隠された銃火器が火を吹き、闖入者を蜂の巣にする。問答無用で。
辟易するほどややこしいやり方だ。そして私はその時、既にかなり辟易していた。
私は他のある部隊から、シューニャを護衛するためのその部隊へ、お偉方から異動を指示されていたのだ。その部隊のナンバーには"一"が割り振られており、第一部隊への配属は栄誉とされている。自分は両者の衝突の最前線で戦功を上げていたから、それが理由だろうとは想像がついた。
影の最後の砦。あまり気は進まなかった。何かを護るために戦ったことなど、それまでに一度もなかった。
「まだ着かんのか……」
思わず独り言がこぼれる。島の地上に出てもう一時間弱、鬱蒼と茂った草木を掻き分けて進んでいる。羽織った膝丈の黒のコートが藪に引っ掛かり、鬱陶しい。道順は文面に残すことはできないと言われて全て頭に入っているが、それによるとまだ三分の一ほど残っている計算になる。
「しかしまた厄介なところに配属されたものだ」
一人、言ちる。
この島は今まで身を置いていた部隊とは違い、日常的に"罪"との小競り合いが発生するような部隊ではない。"罪"の連中がここを攻めてくるということは、シューニャの居場所が割れたということであり、鉄壁の防御が突破されたのと同じだ。すなわち、一度の攻撃が破局を意味するのだ。
"罪"の陣営ではまさに今、血眼でシューニャ探しが行われているだろう。この部隊の兵士たちは毎日その切迫感の中でぴりぴりしているはずだ。私も今日からそのような日常へ飛び込むのだ。
まだしばらく獣道をがさがさと歩んでいると、不意に目前の藪が不自然に音を立てて揺れ始めた。何か大きい動物でも出るかと私は身を構える。この山林の豊かさでは、熊でも出てきたところで驚きは少ない。
じきに身を現した動物は熊ではなかった。かといって猪でも鹿でもなかった。人間だった。
現れた人間は、私を認めると驚いたように目をしばたかせる。私より頭ひとつ分背が低い、髪を無造作に後ろで一つに結わえた少年だった。銀色の髪が陽光を反射してきらきらと輝いている。アジア人であることを示す自分の黒々とした制服ではなく、紺色の上下を身に付けていたため、ヨーロッパ出身だと知れた。
少年兵とは珍しい。しかもこの第一部隊で。
「どうした、少年。迷子か」
尋ねると、少年は澄んだ青の目をさらに大きく見開く。だがそれも一瞬のことで、私が気付いた時には少年はくすくすと笑い声を漏らしていた。
「何か?」
「いや……失礼、君は今日付けで第一部隊に配属されたニシキ・キリハラで間違いないな?」
少年はさもおかしそうに、笑んだ口元を手で覆いながら問う。まだ声変わりもしていない鈴を転がすような声だ。
何におかしみを見出だしてあるのか分からず、思わず眉根を寄せて訝った。
「ああ。いかにもそうだが……」
「本拠地へ案内しよう。ついてきてくれ」
少年は髪をふわりとひるがえして背を向ける。その拍子に、彼が帯刀していることに気づく。どうも日本刀らしいが、このご時世にそんな装備で戦えるのかと疑問が浮いてきた。
少年兵の出現は意外だったが、とにかくこれで道順を気にする必要はなくなった。私はやれやれと息をひとつ吐く。
人工プレートを通過した日光によって白亜に輝く、シューニャが暮らす殿堂。それはまるで古代ギリシャの神殿のよう。
部隊の本営は、その仰々しい建造物の前庭に張られた、野営のテント群だ。影の指導者が鎮座ましますあの建物には、予見士たちと許された者しか入ることができないという。おそらく私には入る機会など与えられないだろうと思われた。
私と少年が茂みを抜け、連れだってテント群へ近づくと、周辺にいた執行部隊の隊員たちがわらわらとこちらへ駆け寄ってきた。紺色の服が多く、次が南北アメリカのカーキ、オセアニアのオレンジやアジアの黒、アフリカの緑はちらほら認められる程度だ。彼らの顔には焦りと、ほっとしたような表情が半々に浮いている。
「隊長、どこ行ってたんですか! みんなで探したんですよ」
一人の隊員の言葉に、私の傍らに立つ少年が返答を返した。
「いやそれはすまない、彼のことを迎えに行っていたんだ」
「あー! その彼が新入り君かあ」
燃えるような赤毛の男に、新入り君呼ばわりされて私は少しむっとする。欧米人からすると童顔に見えるのかもしれないが、これでももう二十二だ。何回も死地をくぐり抜けてきた自負もあるし、経験はベテランの隊員に劣らないと思っている。
――いやそれよりも、この声変わりもしていない少年が、この部隊の隊長?
信じられない気持ちで、少年に向き直る。
「この部隊の隊長は君なのか、少年」
「少年……? おい新入り君、今少年って言ったか?」
先ほどの赤毛の隊員が、笑いをこらえるように聞いてきた。私の返事を待たずしてその若者は吹き出し、笑いが皆のあいだに波紋みたいに広がっていく。私ばかりが取り残される。何がそんなにおかしいのだか分からない。
「すまんな錦、申し遅れた」
少年が私の肩に片手を置く。目線をずらしそちらを見ると、少年は苦笑を浮かべていた。
彼が髪を縛っていた紐をほどく。美しい銀髪が、戒めを解かれてさらさらと風に舞った。きりりとした眉が凛々しい。
「私は執行部第一部隊所属、ルネ・ダランベール。この部隊の隊長をやっている。そして私は二十五歳だ。そして、女だ」
「……は?」
兵士たちの爆笑の渦中で、私は絶句するより他になかった。
それが、私とルネの出会いだった。
夜も更け、辺りに喧騒が満ちている。火が広場の中央に焚かれ、そのぐるりを取り囲んで、隊員たちが飲めや歌えの宴を繰り広げていた。
戦場のただ中で酒宴が行われている。信じがたいことに。しかも、その名目は私の入隊祝いだ。
嘆息を漏らす。私は、楽しげなかしましさから逃れるように、一人で広場の外れにあった倒木の上に腰かけている。手には酒の入った木のグラスがあるが、中身は宴の始まりからほとんど減っていない。
ぱちぱちと音をたてて、茜色の炎が揺らめく。その中で配給品の肉や、誰かが釣ってきた魚が炙られていて、香ばしい匂いをここまで漂わせている。私以外の隊員たちは、時おり笑い声を上げてやんややんやとはしゃぎ回っていた。こんなところで飲酒できるなんて、その能天気さに呆れを通り越して、羨ましささえ覚える。
私がルネの自己紹介を聞いたあと、彼――もとい彼女に、隊長室へ来るよう指示された。なんだか面白そうだからという理由でなぜか赤毛の男もついてきて、ルネはそれを止めなかった。
「俺はヴェルナー・シェーンヴォルフ。ヴェルでいいぜ」
歩きしな、男はそう自己紹介する。よく見ると彼の虹彩は血の色が透けているような赤色で、じっと見ていると吸い込まれそうな妙な迫力があった。左肩には黒赤金のドイツの国旗が縫い留められていたが、それが本物なのか私は疑った。こんなに軽薄そうなドイツ人がいるだろうか。
ルネの先導で一際大きいテントの入り口をくぐると、大型の机と椅子が整然と並んでいる。ここが食堂のようだ。机と机のあいだを抜けていくと、幕で区切られたスペースがある。この先が隊長室になっているらしい。
隊長室は思ったよりも狭く、六畳ほどの広さで、部屋の隅に書き物机はあったが、最も多く面積を占めているのは地面に直接敷かれたマットだった。ルネは腰に差していた日本刀を刀掛けに置き、自らもマットに胡座をかいて座る。
「まあ、座れ」
とルネが促す前にヴェルナーはちゃっかり彼女の隣に腰を下ろしていた。図々しい奴だと呆れながら私もルネに倣う。




