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青とエスケペイド  作者: 冬野瞠
第一部
56/137

彼らのこと The Hero is here.Ⅰ(2/2)

 ヴェルナーがすい、とこちらに視線をよこす。見慣れた血の色の虹彩。その真ん中の黒々とした瞳孔は、まるで真理を映しているようだった。


「可能性としては考えられるな。だが、そうじゃないかもしれん」

「違うと言うなら、何なんだ」

「先に言っとくが、これは俺がふと閃いた考えだぜ。根拠も何もないってことを分かっといてくれ。その考えってのはこうだ。……一昨日、坊っちゃんが襲われる(・・・・)確率は確かにゼロだった。しかし、"罪"の奴らが坊っちゃんに接触を試みる(・・・・・・)確率はもっと高かった。結果として、襲われる確率はゼロなのに、罪の連中が坊っちゃんの前に現れるという事態が起きた」

「……つまり、予見士は検討違いの事象を予測していた、と……」


 いつも適当な言説をはなって私を辟易させている男の言葉を、その時ばかりは筋違いだと笑い飛ばせなかった。むしろ、それが真相に思えた。だとすれば、"罪"の人間は茅ヶ崎の命を狙っていたのではなく、生きている彼に用があったということになる。

 なぜ? 何の目的で?


「一体、何のために接触など……」

「おっと、そいつは俺が気まぐれに考えついた当て推量だぜ。それに基づいて結論を出そうとするのは、あれだよ、"サ行のローキック"みてえなもんだ」

「……"砂上の楼閣"か?」

「ああ、そうとも言うのかい」

「……そうとしか言わん」


 額に手をやり、嘆息する。これまで真面目な話をしてきたというのに、その雰囲気を粉砕して冗談めかした台詞を吐けるのは、ヴェルナーの天賦の才というものだろう。もっとマシな才能を持って生まれてくれば良かったのに。


「その考えも含めて、上には報告しとくよ。坊っちゃんの監視は、もっと気を引き締めてかからにゃならんね」

「そうだな。奴らがどう出るか、今のところ分からないのが痛いが……仕方あるまい」


 それが、つい二週間ほど前のことだ。

 あれから私も周囲に目を光らせているが、表立っては"罪"に動きはない。平穏無事だと手放しに喜ぶことは到底できず、不気味な沈黙ともいえた。

 そして、今しがたの水城先生の話。

 噂話が真実を含むものだとすれば。

 その廃工場に潜む山羊頭は、"罪"の人間である蓋然性がいぜんせいが非常に高い。

 その論結が自分の頭に去来するまで、数秒はかかっただろうか。そのあいだに遠い目をしていたのだろう、急に会話を絶ちきった私を、水城先生がおずおずと覗きこむ。


「あの、桐原先生? どうかしたんですか。怖い顔してますけど……」

「いえ、元からこういう顔ですから。何でもありません」


 平静を整えて答えると、彼女はそれに笑うべきなのか迷ったようで、結局曖昧にほほえんだ。

 ちくりと胸が痛んだ。そうやって、私のような存在を気にかけ、あまつさえ笑いかけてさえくれる水城先生を、自分は騙すような真似をしているのではないか。花にも似た、彼女の明朗な笑顔を見ると、近頃心がちりちりと痛む。

 罪悪感を抱いているなどと言ったら、例えばヴェルナーは嘲笑うだろう。まっとうな世界の人間と親わしくなることなど、元からできないと割りきるべきなのだ。彼は命じられれば、私の命だって平気で奪うはずだ。彼だけではない。影とはそういう人間の集まりだ。

 教師ではない自分の裏面を、白日の下に晒すことなどあり得ない。付かず離れず。それが誰にとってもいい距離だ。下手に巻き込んで、誰かを危険な目に遭わせることほど、私にとって恐ろしい想像はない。

 そして私はそのことを、充分には理解していなかった。



 仕事を終えて愛車に乗り込み、山陵の向こうへ消え行く太陽を追いかけて、進路を西に向ける。

 自宅とは逆方向だ。無論、山羊頭の噂が立つ廃工場を目指している。噂を確かめるなら、早い方がいいだろう。近くに潜伏しているのに手出しをしてこないのなら、何かしらの準備でもしていると考えるのが自然だ。彼らの目的の一端を掴めるかどうか。

 十五分ほどセダンを走らせ、目的地の最寄りのコンビニに車を停める。ここからは徒歩で行く。一応ヴェルナーの携帯にメールを入れ、車外に出ると、気温が驚くほどがくっと下がっていた。コンビニに寄って売り出し始めたばかりの肉まんを駐車料金代わりに買い、もぐもぐと頬張りつつ工場へ歩きだす。

 道路は広いのに、周りには目立った建物も何もない。歩いているうち、すれ違った車はほんの数台だった。荒れた草原が河川敷に広がっている。そんな川沿いの風景も、陽の光が途絶えるにつれ、徐々に闇にぼやけて溶けた。肉まんの裏に付いていた紙を折り畳んでポケットにしまい、その手でシャツの胸部分に入れた煙草の箱を撫でる。いざとなればこれがある。心配はない。

 橋のたもとに黒々とそびえる廃工場に着く頃には、すっかり周りは夜になっていた。

 打ち捨てられて久しいのか、工場の周辺にはぼうぼうに伸びたイネ科植物が繁茂はんもしている。その草むらに身を隠しつつ、剥がれた塗装と会社名が寒々しい、工場の外壁へと近づく。窓という窓は無惨に割れ、近寄ると壁には何本も亀裂が走っているのが分かる。すばやく中を窺うと、なるほど、確かに何かしらの光源があるようだ。しかも、ちらちらと微妙に動いても見える。

 三人だ。屋内を見たのは一瞬だが、中に三人の男が――女かもしれないが――いた。噂のとおり、頭には山羊の被り物が嵌まっていて、どちらとも判別しかねた。何やら中で話している声も切れぎれに聞こえるが、くぐもっていて何語かすら断定できない。

 用心深く、建物の壁に張りつくように、そろりそろりと回り込む。やがて裏口のようなところに辿り着く。息を殺して気配を探り、猫一匹の気もないのを確認してから、するりと体を滑りこませた。

 外から見た際に算出した屋内の距離を、自分の歩幅で数えつつ、先ほど山羊頭たちがたむろっていた場所へ向かう。方向転換しても戸惑うようなことはない。一度完全に消失した声は、霧の向こうから現れるようにじわじわとか細く聞こえてきて、やがて、明瞭に音節が聞き取れるまでに接近することができた。言語は日本語だ。訛りはなく、十中八九日本人だと思われた。

 "罪"の息が、こんな東アジアの端の島国にまで届いている。それは正直なところ衝撃だった。


「今日も……ガキがここに……移した方が……」

「それはそれで……リスクが……判断を仰ぐか……」

「このまま実行に……日を置いたって……どの道……」


 会話が途切れ途切れに聞こえる。

 どうも学生たちが度胸試しに来ているせいで、根城を移すか検討しているらしい。そして、その前に強硬策に出るかどうかも。

 それだけ聞ければ、今は充分だろう。急いでこちら側の用意を固め、先手を打って叩く。今から帰ってヴェルナーに事情を話せば、明日には襲撃の手はずが整う。三対二。相手が日本人という点を考慮すれば、分が悪いことは決してない。

 私は元来た道を戻るため、体を反転させようとした。しかし、それは叶わなかった。

 肩越しに強い人間の気配。

 咄嗟に振り返る前に視界が揺さぶられる。刹那ののちに頭への衝撃を感じ、それを最後に、急速に意識が遠のく。しくじった、と悟るが遅すぎた。

 相手は四人いたのだ。ヴェルナーからの話が刷り込みとなり、"罪"の連中は三人だと、勝手に思い込んでしまっていた。薄れる意識の中で自分に唾棄すれど、何もかも後の祭りだった。



 呻き声を上げながら、覚醒する。顔が濡れている感覚がある。咄嗟に手で拭おうとするが、ざらざらした縄のようなもので、両腕が後ろ手にがっちりといましめられていた。

 薄く目を開く。灯りが乏しい室内の薄汚れた床、そこに所在なげに落ちているスーツの上着、棒状の何かから伸びる黒々とした細長い影、黒塗りのブーツを穿いた足先が三人分。体がロープで巻かれ、圧がかかっている。椅子にでも縛り付けられているらしい。一人は見張りにでもついているのか、と霞がかったような思考で考えながら、そろそろと顔を上げる。

 山羊がそこにいた。

 被り物の下の表情は窺い知れない。眼窩に嵌め込まれたガラス玉だけが鈍く輝くのみ。だが、呼吸音はわずかに耳に届く。興奮はしていない、確かに人間のものである息のリズム。全員がじっと私を見下ろしていた。粘ついた視線、引き伸ばされたような時間の流れ、その中で自分の中に焦燥が生まれるのを自覚する。


「やっとお目覚めか」


 不意に、いずれかの山羊が口を利いた。あざけりの色が濃い、それほど年のいっていない男の声。それを契機に、くぐもった忍び笑いが山羊たちのあいだに伝染する。

 真ん前の山羊頭が持つ金属の棒が、びゅっという風切り音も高くこちらに迫り、避ける選択も持てない私の顔面をしこたまに打った。

 衝撃。

 かけていた眼鏡が粉々になって太股あたりにばらける。それを山羊たちは体を揺らして愉快そうに眺めていた。熱い。顔面に裂傷が生まれ、血が流れていくのが分かる。常人なら数秒は悶絶するくらいの痛みだろうが、影で受けた拷問の訓練に比べれば何でもなかった。

 横からつかつかと一人の山羊頭が近づき、おもむろに私の髪を掴んで上へ引き上げた。くつくつと笑っている。長く感じたことのなかった、冷たい怒りが脳裏にまたたき始める。


「まさか標的ターゲット自ら来てくれるとはなあ」


 そう言って、私の顔めがけて拳を放った。

 鼻から血があふれ出て、ぼたぼたと垂れた血液がシャツとスラックスを容赦なく汚す。皆、けらけらと腹を抱えている。

 そんな状況で、自分の頭は静かな唸りを上げて回転しているようだった。

 私を知っている。しかも標的は私だった、茅ヶ崎ではなく。なぜ。なぜ。なぜ?


「要件はなんだ」


 問うと、ぴたりと動きがやむ。一瞬の静寂。そして。


「"英雄"はどこにいる」


 金属棒を携えた男が、そう答えた。

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