彼らのこと The Hero is here.Ⅰ(1/2)
―ある男子高校生の会話
「なあ、廃工場の幽霊の噂、聞いた?」
「ああ。めっちゃ校内で回ってるよな、今。どこまで本当か知らんけど。廃工場って、××橋の向こうにあるやつだろ。寂れてる感じだし、いかにも出そうだよな、あのへん」
「マジらしいよ。中に誰もいないはずなのに、明かりが動いてるのを見た人がいるんだって」
「へえ」
「覗きに行った奴の話によると、山羊の頭の人間みたいなのが何人もいたらしい」
「山羊ねえ……この時期だし、ハロウィンの仮装とかじゃなくて?」
「さあね。今度、確かめに行こうって話になっててさ――」
* * * *
―桐原錦の話
"英雄"。
その呼び名に、私は憎しみしか感じることができない。
夏休みが明けると、世間はめっきり秋めいていた。
学校が休暇であっても私たち教師には毎日出勤する義務があるから、溜まりに溜まった書類仕事を片付けるなどしていて、結局通常の学期中と変わらぬ生活サイクルではあった。が、学校に生徒たちが戻ってくると、やはり校内の雰囲気ががらっと変わる。ここ数日は急激に朝晩の風に涼しさが混じってきており、学校は俄然、文化祭モードに入っていた。
文化祭まではあと一か月半ほどだ。
祭は土日を使って盛大に行われ、体育館での各種イベントやステージの他、各クラスでも何かしら出し物をしなくてはならない。生徒と職員、外部の来場者からの人気投票もなされる予定で、上位だったクラスには景品も用意されており、生徒たちの熱の入れ込みようは目を見張るものがあった。その熱意を少しでも勉学に回してくれと思うのが教師の性だが、水を差す真似はさすがにできずに黙っていた。
放課後、クラスに残って大道具めいたものを作っている者も多く、私の受け持つクラスでは深海カフェなるものを催すらしい。立案者はクラス長の篠村だった。こういうことには可能な限り口を挟まないのが自分の信条なので、私はただ生徒が作るものを見守るだけだ。
放課後、職員室の自分の机で日誌への返答を書き込んでいると、隣から声をかけられた。
「桐原先生のクラスは、ミスコンの代表の子決まりました?」
そちらを見ると、興味津々といった様子で、同僚の水城先生が幼く見える顔を私の方に向けている。その瞳は好奇心で輝いている。
ここで言うミスコンとは、文化祭の主要なイベントのひとつである、遍高校ミス&ミスターコンテストのことだ。クラスから男女一名ずつが代表として出場するが、普通のコンテスト内容ではないところが肝だろう。
今日のホームルームで、その代表を決めたクラスが大半に違いない。
自クラスのその時間を思い返し、少々気の毒に思いながらも口の端が持ちあがる。
「私のところは、篠村が自薦で、茅ヶ崎が他薦で選ばれましたよ」
「まあ」
水城先生が驚きつつも掌を口にあてて目を細める。それだけで、周りの空気がぱっと明るく華やぐようだった。
「茅ヶ崎くん、よく了解しましたねー」
「決める時間に寝ていたんですよ。自業自得というやつでしょう」
ミスコンのコンセプト。それは、女子が男装を、男子が女装をする、というものだ。
茅ヶ崎はその内容を知らぬまま、自分には関係ないだろうと、ホームルームの時間に端から突っ伏して寝入っていた。司会の篠村が立候補すると異論は皆無で、それなら相手は茅ヶ崎しかいないだろうという流れに自然となった。当人の与り知らぬうちに、決定は揺るがぬものとなり、叩き起こされた茅ヶ崎は、篠村のねっ、いいでしょ、の念押しに迂闊に頷いた。
コンテストの内容を聞かされた茅ヶ崎は顔を青くしたり赤くしたりして篠村に反論したものの、一度決まった事項を覆すのは難しいのが世の常で、私も心は痛んだが、ずっと眠っていた茅ヶ崎に非があるだろうと何も言わずにおいた。少なからず彼の反感も買ったかもしれないが、それはそれで致し方ない。
「文化祭、楽しみですねえ。今年の生徒会長の子が、実行委員の子たちをぐいぐい引っ張ってくれてるから、どの学年も士気が高いらしいですし。クラスの出し物は、私のところはミュージカルみたいな、ダンスと劇を混ぜたのを体育館でやるんですよ。先生を驚かせたいって、私に練習も見せてくれなくて。意地悪ですよね」
そう言う水城先生の目元は、まるで自分のクラスの生徒が目の前にいて、彼らを慈しむように、優しげに緩んでいる。
自然と彼女の表情につられ、自分も頬がほころぶ。
「力が入ってるんですね、当日が楽しみでしょう。うちは深海カフェというものをやるらしいです。教室を暗幕で覆って、深海生物の模型を作って」
「それも面白そうですね! 長谷川先生のところは、仮装写真館っていうのをやるんですって。生徒が仮装して、お客さんにもちょっと仮装してもらって、一緒に写真を撮るみたいです」
「面白いアイディアですね」
「ですよねー、ハロウィーンも近いし、時期的にぴったりですよね。あ、仮装といえば」
そこでふと、水城先生が何かに気がついたように人差し指を伸ばす。目線がやや上を向く。記憶を探る顔つきだ。
「桐原先生は、お化けの噂って知ってます?」
次に彼女の口を突いたのは、思いもよらない単語だった。
はたと真顔になり、問い返す。
「お化け……ですか」
「ええ。なんでも、隣の市の廃工場にお化けが出るって、学生のあいだで噂になってるらしいんですよ。遍市内から自転車でもいける距離だから、侵入する子もいるらしくって。うちの学校ではまだいないみたいですけど、時間の問題かなって」
「建物に無断で侵入するのはいけませんね。……それと仮装がどういう繋がりが?」
先を促すように問うと、水城先生の両手が打ち合わされ、ぱん、と乾いた音が出た。
「それがですね、そのお化けっていうのが、仮装してるみたいに見えるらしいんです。体は人間なんだけど頭が動物って話で。確か、山羊だったかな」
「……山羊」
彼女の声音は特別に繕ったものではなくて、先生にしてみれば単なる世間話の一環だっただろうが、そのたったひとつの単語で私の頬はすうっと冷えた。自分の精神が、一介の教師であることを辞め、無意識のうちに影の一員へと瞬時に入れ替わる。
悪友のヴェルナーから聞いた、真夏のある夜の話。私はそれを思い返していた。
「ちょっとこれ読んで」
盆過ぎの、夏に翳りが見え隠れしてきた日。私が職場から戻ると、ソファで寛いでいたヴェルナーが、持っていた紙束をテーブルの上にぱさりと放った。珍しく、その顔にはにやにや笑いはなく、険しく引き締まってさえいた。
「何だねこれは」
「ハンスから上への報告書。の、コピー。俺も今読んだんだが、ちと面倒なことが起きた。頭に入れたら処分してくれ」
怪訝に思いながらも、その薄い束を手に取る。
英語を連ねた文面を読んでいくうち、自らの顔も厳しくなっていくのが分かった。そこには、茅ヶ崎の勉強合宿に見張りとして同行したハンス君が、茅ヶ崎を監視する三人の"罪"の人間を発見、対峙したのち、捕縛した上で影の情報管理課に引き渡した旨が簡潔に記してあった。
監視対象者である茅ヶ崎、監視者であるハンス君ともに実害はなし。事が起こったのは一昨日。急ぎ足で書いたにしてはよくまとまった内容だった。
しかし、注目すべきがその点でないのは明らかだ。
「"罪"の人間が……茅ヶ崎の前に現れたと?」
静かな憤りをこめて、ヴェルナーを睨む。
ヴェルナーは私とは目を合わせず、無言で首肯する。
「一体何をしているんだ、影の連中は。予見士からの報告では、襲撃の予測はほぼゼロパーセントだったんだろう。だからこそハンス君だけが僻地まで赴いた、なのになぜ"罪"の奴らが現れる?」
自然、語調が非難めいたものになる。
影の執行部の人間は、予見士が所属する、支援部予見課から上がってくる予測情報に基づいて行動を決定する。それに従った結果がこれでは怒りも覚える。
ハンス君は自己防衛能力には優れているが、茅ヶ崎やその他周囲にいる人を守りつつ、相手を無力化する術は身につけていない。茅ヶ崎は危うく"罪"の人間と鉢合わせし、ややもすれば襲われ、その命を落としていたかもしれないのだ。
ヴェルナーは肩を竦めた。
「なぜそんな事態が起こったのかは調査中だとよ。悠長な連中だぜ、こっちは人の命がかかってるってのによ」
ひらひらと手を振りながら言う。まったくだ。後になって計算違いでした、で済ませられる問題ではない。計算結果と違って、人の命はやり直しなど効かないのに。
ただ、単なる計算の誤りだと断じるのにも違和感があった。予見士の予測は多分に不確定要素を含むから、それゆえに冗長性が強いパーセントという単位を予測結果に用いている。それがほぼゼロだったということは、某かの根拠があるはずなのだ。それを覆して"罪"の人間が現れるなど、私が知る限り未だかつてない事態だった。
「予見が誤っていた、ということか?」
信じがたい推論に、奥歯をぎりりと噛み締める。




