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青とエスケペイド  作者: 冬野瞠
第一部
54/137

僕らのこと ゴゥ(ス)トダンス・ウィズ・ランピィキャット(8/8)

「意外だなー、龍くん。こういうの、けっこう苦手そうなのに」

「はあ……」


 俺はほとんど、女子大生の話を聞いていなかった。さっき、山羊頭の人間が立っていた場所が近づいてくる。それに伴い体が強ばる。心臓が激しく脈を打つ。懸命に目を凝らす。

 しかし。


「いない……」


 現場には何者の影も形もなかった。呟くと、女子大生が説明してくれと言わんばかりに眉をひそめる。それを無視して、頼りない懐中電灯を頼りに、木々のあいだへ分け入った。危険だ、とか身のほど知らず、とはその時は思わなかった。

 衝立ついたてのように生えた木を抜けると、そこは森の中でも少し開けた場所になっていた。テニスコート半面ぶんほどだろうか。そこの地面は湿ってぬかるんでいて、たくさんの足跡でぐちゃぐちゃになっていた。

 そこに呆然と立ちすくむ。

 やはり、何かがいたのだ。しかし、この足跡は何だろう。普通に歩き回ったにしては不自然だ。光で照らすと、足跡は足先に向かって深くなっており、一番深いところでは地面から数センチは沈みこんでいた。足先にかなり力がかかっているということは、走った跡なのだろう。

 注意深く観察すると、人間らしき靴跡のほか、小柄な獣の足跡めいたものも発見できた。


「うひゃあ……なんだこれ」


 遅れて着いてきた女子大生が驚愕の声をあげる。俺は立ち上がって、彼女の方を振り返った。


「何か、大学生の人たちで俺らを怖がらせる仕掛けをしていたとか、そういうのはないですか」

「いやあ、何もしてなかったけど。この森、夜になるとそれだけで充分怖いし。一応、昼のあいだに危険箇所がないか調べたけど、こんな足跡なかったと思うなあ」

「そうですか……」

「龍くんは何か知ってるの?」

「いや、何も分からないです」


 知っていたらむしろ教えてほしいくらいだ、とはさすがに言わなかった。

 その後、周りに用心しながら祠まで行き、また来た道を戻ったが、もう何事も起こりはしなかった。

 未咲が何か尋ねたそうに俺に視線を寄越していたが、その視線に応えるほどの心持ちには到底なれなかった。



 翌朝、どうしても昨晩の出来事が気にかかり、朝も明けきらぬうちに、森へと調べに出る。

 そして俺は、絶句することになった。


「嘘だろ……」


 あれだけ深く刻まれていた数えきれない数の足跡は、綺麗さっぱり、消えていた。まるで、最初からそこには何も存在していなかったように。地面は滑らかで、自然だった。

 狐につままれたような気持ちだ。しかしどうしようもない。不可解な思いでもやもやする脳をなだめて、なんとか帰りの車に乗った。始終未咲は俺をちらちらと見ていた。

 実習所の、公民館みたいな建物が遠ざかっていく。これからまた、何かが起こりそうな予感がしていた。


 * * * *

―ある黒猫の話


 夜は私たちの世界だ。

 私の漆黒の毛並みは、夜の闇にたやすく紛れこむことができる。

 そして私には見える。人間の目では捉えられない光量の中でも、何もかもが昼間と遜色ないくらいに、はっきりと。人間がタペータムと呼ぶ構造のおかげだと、私は今のご主人に出会ってから知った。

 そのご主人は今、紺色のしかつめらしい服――軍用服というのだそうだ――に身を包み、"彼ら"がいる方へ向かって、編み上げ靴を前後に動かしているところだ。隙のない足運びには、猫の私でさえうっとりする。私はご主人の足元に寄り添い、一分も離れないように着いていく。"彼ら"を出迎えにいくのだ。

 潜伏している二日間、私は何度か冒険をした。

 監視対象の男の子のベッドで眠っていたら熟睡しすぎ、危うく姿を気取けどられそうになったり、その子の寝顔を見てみようとベッドに近寄ったら、全然眠っていなくて怖がらせてしまったり、興味本意で標本室までついていって、標本瓶ごしに見つめあう事態になったり、美味しそうな魚がたくさんあったのでつまみ食いしたらご主人に叱られたり、色んなことがあった。

 普段の私ならそんなはしたない真似はしないのだが、個()的にその男の子が気に入っているので、どうか許してほしいところだ。あの子はいい子に違いない。だって、猫の撫で方がじょうずだったもの。

 ご主人はずんずんと森の中に入っていく。足元を離れ、鼠でも探しに行きたい衝動に駆られるも、これが仕事だからと本能を押さえこむ。じきに"彼ら"の姿が見えてきた。黒々とした森の闇の中で、"彼ら"はあらぬ方向をじっと注視していた。私たちには"彼ら"が何を見ているかが分かる。あの男の子だ。

 "彼ら"は"ペッカートゥム"の人間だ。ご主人の敵。私の敵。

 "彼ら"まで、あと十メートルばかり。


「こんばんは。いい宵ですね」


 出し抜けに、ご主人が声を発した。ずいぶんとのんびりした調子で。おそらく何語で話しかけるのが適切か迷った結果なのだろう、その声がけは英語だった。

 ――猫だからと馬鹿にしてもらっては困る。私はご主人が普段よく遣う言語なら、大概は理解することができる。まあ、日本語はなかなか難しいので、勉強中だけれど。

 人間の言葉だけでなく、今のご主人に拾われて、ずいぶん汚いことも覚えた。

 人間はどうしたら驚くか。急所はどこか。盗んだものをどうやって咥えたら落ちにくいか。密室に見える部屋からどう逃げ口を見つけ出すか。人間から漏れでた体液はどんな臭いがするか。などなど。

 もちろんご主人は私に、人間の体液の臭いなど進んで嗅がせるわけはない。ご主人は常に私に優しい。けれど、たとえ誰かに酷いことをした後、念入りに体を洗ったとて、私の鼻では分かってしまうのだ。ご主人の全身から、ご主人のものではない血やら吐瀉物やらの臭いがぷんぷんするから。

 不意にかけられた声に、変な被り物をした男たちがゆうらりと振り返る。一、二、三人いる。その変な被り物は山羊という動物だと、私はようやく思い至った。"彼ら"は地面に引きずるほど長い上着を纏っていて、その内側から思い思いに、鉄パイプやら杖やら細長い木材やらを取り出した。物騒だ。溜め息が漏れる。まったく、品がない。

 その動作に、ご主人はやれやれと首をすくめる。


「僕と踊りたいんですか? こっちは丸腰だっていうのに、仕方ない人たちですね」


 ご主人の物言いは間延びしていると言ってもいいくらいだが、ご主人の目は全く笑ってはいない。冷たい双眸。私と同じ、捕食者の目だ。

 今の私たちを正面から見たら、その瞳の美しさにきっと誰もが感嘆することだろう。

 ご主人の左右の目は色が違う。

 右の目には月の金。

 左の目には空の青。

 そして私は、その左右の色が逆になっている。

 今の私たち、と前置きしたのは、いつもの私たちの左右の瞳は同じ色だからだ。ご主人は透き通った鮮やかなブルー。私はきらきら輝くゴールデン。

 私とご主人がじっと見つめ合うと、右目の虹彩の色ごと、見えている景色が入れ替わる。言わば、私たちは二重の視界を手に入れるのだ。例えばご主人が前を向いているとき、私が後ろにいれば、ご主人の死角はほぼゼロになる。どういう仕組みかは分からないし、興味もない。見えるものは見える、それだけで私には充分だ。

 ご主人の相棒は誰にでも務まるわけではない。パートナーはどうも私で二匹目らしい。私はご主人に尽きかけていた命を救われ、その上ご主人に選ばれた。だからご主人の役に立てるのは、私にとって至上の喜びだ。

 二重に見える特別な視界を使いこなすのはなかなか困難なものだけれど、そこは特訓、特訓だ。何事も始めからうまくいくことなんてないのだし。

 私の目の前で、ご主人が身を屈める。いよいよ始まる。今宵の舞踏が。

 私へとご主人が目配せを送る、それが合図だった。

 ご主人の右足が、力強く大地を蹴り出す。それぞれの得物を構えた山羊男たちへと、一気に肉薄する。それきたとばかり降り下ろされた三つの鈍器は、見事にすべて空を切った。

 ご主人は高々と飛び上がっていた。その動きはもはや人間のものではない。

 いつしか彼は、"僕は猫だよ。人間じゃなく、尾のない猫(ランピーキャット)だ"と言って、笑っていた。そして今宵対するは、八年前からこの地上に漠と漂う亡霊だ。


 亡霊ゴーストは。

 山羊ゴートは。

 尾のない猫(ランピーキャット)とダンスを踊る。


 飛び上がったご主人は木の上へ着地する。私は相手が全員見えるよう、ちょこまかと地面を縫う。三人の死角から地上へ飛び下りたご主人は、間髪入れず、一番近くにいる山羊男の首元へ、目にも止まらぬ手刀を食らわせた。

 一瞬の静謐。

 男は、へにゃりとそこに倒れ伏した。

 残りの山羊男のあいだに、明らかに動揺が走る。


「僕は戦えないと聞いていました?」


 ご主人は体の前に腕を構え、微笑みながら、ゆったりと問う。


「確かに、誰かの命を奪ったことはまだないです。でも、自分の身を守るくらい、わけないんですよッ」


 また、ご主人が大地を蹴る。振り回されるパイプと木材を、ご主人は難なくひらりひらりとかわす。隙を突いて一人の懐へ飛び込み、肘を鳩尾へ食らわす。二人目。無我夢中で突きを入れてくる相手のパイプを、体を回転してかわす。その回転の勢いで、鋭い蹴りを繰り出し得物を弾き飛ばした。慌てふためく相手の顎へ、最後の一撃。頭突きだ。 

 あっという間に、三人の失神男の出来上がり。

 ご主人は軍用服のポケットのひとつから、するすると紐を取り出すと、三人をこれでもかとばかり雁字搦がんじがらめに縛り上げた。あとは彼らを掃除屋に引き渡し、それで仕事は終わりだ。そうそう、このめちゃくちゃになった地面をきれいにならすのも、忘れてはいけない。

 一仕事終えたあと、ご主人は革手袋を外した手で、優しく私の頭を撫でてくれた。私たちの双眸の色はもう元に戻っている。


「戦う羽目になるとはね。ヴェルナーさんに文句を言って、追加報酬を貰わないと」


 ご主人が立ち上がり、歩き出す。私もニァアと鳴き声をあげて後に続く。尻尾をゆらゆら揺らしつつ、自慢の漆黒の毛並みが乱れてしまったから、ゆっくりブラッシングしてもらわなきゃ、と思いながら。

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