僕らのこと ゴゥ(ス)トダンス・ウィズ・ランピィキャット(5/8)
何者かの気配。部屋の中だ。体が強ばる。
心臓のどくどくという鼓動が体に響く。視界を埋める暗闇の中、小さな点が二つ、ぎらりと光った。その光から目が離せない。金縛りに遇ったように、体が動かせない。これは現実か? それとも、夢なのか?
永遠に終わらないと思える一瞬だった。自分の大きすぎる呼吸音を何回ともなく数えるうち、気配と光はふうっと消えた。
ほーっと長く息をつく。金縛りの経験は何回かあるが、自分が特に霊感が強いと感じたことはない。さっきのは見なかったことにしよう。そう気を取り直して、壁側に顔を向け、暑くてたまらないがタオルケットを頭まで被る。
そのあと見た夢は、お決まりの、あの山羊頭の男たちのものだった。
こんな夜を、あとどれほど繰り返さなければいけないのだろう。朝目覚めたら、寝間着もシーツも寝汗でびっしょりと濡れていた。
夏には、本当に調子が狂わされる。
合宿二日目。起床した人間から昨日のカレーを流用したカレーうどんを朝食に啜り、一息入れたのち三々五々勉強を始める流れとなった。
昨夜の妙な気配と悪夢とであまり眠れなかったため、お世辞にもいい気分とは言い難かった。俺は息抜きにと、桐原先生から大量に渡されていた論理の問題プリントを取り出す。
数学に取り組んでいる時は落ち着く。俺にとって、数学は色とりどりの絵画のようなものだった。それぞれの色味を持つ数字や記号たちが、互いに作用しあってさんざめき、新しい色相を作り出しては変転していく。問題によって彩度も明度もまったく異なる。ゆらゆらと陽炎みたいに蠢いていたものが、ペンを最後まで走らせると同時に、かっちりしたひとつの風景画になる。その繰り返しだ。
黙々とそれらと格闘していると、隣にすーっと女子大生が移動してきた。出来上がりかけていた景色が、ぼんやりと薄まり消えていく。
俺の手元を覗きこんで、わあ、と大げさに驚嘆の声をあげる。
「すごいね、それ。その問題って高校の範囲じゃないでしょ」
俺は思考を中断させて、声の主へと視線を移した。
髪をアッシュグレイに染めたその人は、俺と目が合うとふわりと微笑んだ。朝からばっちりメイクをしている。
「おはよう。昨日はちゃんと眠れた?」
「……おはようございます。ぼちぼちですかね」
「そう? 君は茅ヶ崎龍介くん、だったよね。数学得意なんだ」
「はあ、まあ……得意というか、好きというか」
「いいなー、茅ヶ崎くん――龍くん。数学ができるって、かっこいいよね」
「……。いや、どうですかね……」
面と向かってそんなことを言われたのは初めてで、何と返せばいいか悩み、言い淀む。しかも、初対面に等しい人に"龍くん"なんて親しげに呼ばれたためしなどほとんどない。どぎまぎするなと言う方が難しい。その上、彼女の格好は、昨日は衿が詰まったブラウスだったのだが、今日は胸元が深く空いたカットソーだった。
色白の肌に刻まれた谷間の影。
頬杖を突いているせいで、それがさらに強調されている。無理矢理にでも目線を外さないと、そこに引き寄せられてしまう。意識を逸らすので精一杯だ。
女子大生はいたずらっぽく目を光らせて笑う。
「どうかした? ねえ、龍くんってモテるでしょ」
「は……いや、全然……」
「龍くん、私に数学教えてくれない?」
「え?」
「私ね、経済学部なんだけど、数学苦手なの。経済学部ってけっこう数学使うんだよね。ねっ、いいでしょ?」
ずいと体が寄せられる。すっきりとした、けれど甘さのある良い匂いが香った。女の子ではない、女性の香りだ。ぐらっと頭が揺れそうになり、なんとかこらえる。
白く長い指に腕を絡め取られそうになるが、すんでのところでするりとかわした。
「すいません、俺ちょっと、休憩してきます」
休憩を口実に部屋を抜け出すと、なぜか未咲がジト目で俺を睨んでいた。
* * * *
―篠村未咲の話
龍介がそそくさと講義室を出ていくが早いか、ぽつんと残された女子大生の元へ、太田くんのお兄さんが呆れ顔でやってきた。
その表情は弟とびっくりするほど似ている。ちょっと苦労性なところも、兄弟で共通しているらしい。
「お前な、あんまり高校生をからかうなよ。困ってただろ」
「だって、龍くん可愛いんだもん」
「……ったく」
女子大生は媚びたように科を作って笑う。
わたしは苛々しながら、手が乱暴に動くのに任せ、課題の解答をカツカツと埋めていった。そこに苛々の原因があるように。ペン先で苛々の原因を潰していくように。
龍介ってば、あんなんででれでれしちゃって、だらしない。彼女は龍介に興味津々のようだが、一体あいつの何に惹かれたというのだろう。
そりゃまあ? 龍介は無愛想で口が悪いけどけっこう優しいし? わたしが手をあげても自分は絶対やり返してこないし? 数学に取り組んでるときのひたむきな横顔とか、割とぐっとくるし? 前髪であらかた隠れてるけど、よく見ると意外とイケメンだし?
そんなの、なんにも知らないくせに。
筆圧でシャーペンの芯がばきっと折れた。
「私、龍くんの連絡先聞いてみちゃおうかなー」
女子大生が聞こえよがしに言う。わたしはそれを、聞こえないふりをしてやりすごす。
何に苛ついているんだ、と自問自答する。別にいいじゃない。自然の成りゆきじゃない。出会いがあれば龍介を気に入る人がいて、その人と龍介が交際に発展するくらいのことが、あったって不思議でもなんでもない。龍介にも誰か特別な人ができて、その人の手を取って隣り合い、そうして彼は彼の人生を歩んでいく。
そこまで考えて、胸の奥がふつふつと熱くなっている自分に驚く。
嫌だ、とわたしはその時はっきり思ったのだった。
* * * *
―茅ヶ崎龍介の話
講義室を抜け出した俺は、どうしたものかと思慮に暮れていた。
もちろん休憩がしたくて部屋を飛び出したわけではない。あんなことで心が揺れはしないが、未咲がいる前で醜態を晒すのはごめんだったのだ。
少し思案した俺は、標本室を見に行こうと決めた。
実習所の中をうろうろすること数分。
ようやく「標本室」という退色して文字が消えかかったプレートを発見することができた。引き戸を苦労して開け、空気の淀んだ部屋に足を踏み入れてみる。
そこは、時間が止まってしまったとも思える場所だった。
床には埃が薄く堆積していて、歩みを進めると、カーテンの隙間から射し込む光のただ中で、細かい塵がきらきらと踊る。部屋には背の高い棚がずらりと並び、ガラス瓶がところ狭しと陳列されていた。ホルマリンに浸けられて元の色がすっかり褪せ、白く輪郭がぼやけた生き物たちが、容器の中でぴくりともせずただじっと佇んでいる。多くは大小様々な形の魚で、他にはナマコやらゴカイやら、あとは名前も聞いたことのない動物もたくさんいた。
昼日中だというのに、その室内の光景はどこか不気味で、背中の寒気を誘った。夜ならもっと雰囲気が出るだろう。無言かつ微動だにしない、かつて生き物だったものたちに囲まれて、生命があるのはここでは俺だけなのだ。そう考えると、別世界に迷いこんだような不可思議な心地がした。
標本の表情は色々だった。あるものはかっと目を見開いて。あるものは半開きの口から、鋭く揃った歯を覗かせて。瓶に貼られたラベルを見ると、数十年前に採集された生物も珍しくない。ここだけが外界から途絶され、時間の流れが滞っている気分に捕らわれる。
こういうの、変わったもの好きの未咲は気に入るかもしれない。後で連れてきてやるか、と思わず口元を緩めたとき、はっと身が固くなった。
――誰かいる。
棚の向こう、物言わぬ標本が衝立のように並んだところに、目線を感じる。湿った目の気配。明らかに、こちらに感づかれないように振る舞っている。
――誰だ?
合宿の参加者なら、姿を隠す必要などないのに。しかもその気配は、俺の目線よりかなり高い位置から漂ってくる。
参加者に、そんなに背の高い奴はいない。
冷房も効いていない暑い部屋の中、俺は背中に冷や汗をかいていた。昨夜の、一対の鋭い眼光が思い出される。足元をかすめた、一陣の風も。
俺は、何かに、つきまとわれているのか。
体に緊張が走る。唾を飲む音がごくり、と嫌に響く。
「誰かいるのか」
乾いた声でやっと問う。
謎の気配は滲んで溶けるように消えていった。
「……何なんだよ、くそ……」
額の汗を拭いつつ、俺はぼやいた。




