僕らのこと ひとりでは行けない場所(1/2)
─茅ヶ崎龍介の話
閉館時間の迫る図書室で、読書に没頭している。
俺は無心でページをめくる。"素数"がテーマの本だった。
素数という深遠な数に数学者が魅入られ、しかし完全な理解には到達できずに悪戦苦闘してきた歴史を、年代を追って丁寧に描いている。借りて帰っても良かったのだが、一度ページを開いてしまうとなかなか止めるタイミングが掴めず、それならば閉館時間まで居座ってやろうという謎の開き直りで現在に至る。
俺はその本で紹介されていた、インドの数学者が発見した摩可不思議な公式を初めて目にし、衝撃を受けた。まさしく数学の神様から教えてもらったとしか思えないような、人智を超えた見た目をしていたからだ。その衝撃の余韻を味わっていたまさにその時、誰かが俺の肩を叩いた。
誰だこんなところで、と振り返る。
部活帰りなのか、頬を少し上気させた短髪の女子生徒。制汗剤の匂いが鼻腔にふわりと香る。
幼なじみの未咲だった。
未咲はにんまりと笑って、親指で図書室のドアを指すという男前な仕草をした。
「牛丼食べたくない?」
本の貸し出し手続きを済ませ、図書室のすぐ外側、鞄を入れておくロッカーが並んだスペースまで来ると、未咲が唐突に言った。
頭の中が"?"で埋め尽くされる。
なんで、いきなり、牛丼?
「いや別に、特別食べたくはないけど」
「うそお、食べたいでしょ絶対。今すごい牛丼食べたいでしょ? ねっ」
小首を傾げながらねっ、と言われても。
「その決めつけは何なんだ。つーか人の話聞けよ」
「ということで、牛丼食べに行こうよ龍介」
だから、人の話を聞け。
「ということでってどういうことでだか、全然分かんねえんだけど」
「わたしにもよく分かんないけど、牛丼は美味しいよ?」
無邪気ないたずらっ子のような目をして、支離滅裂なことを言う。
──駄目だ、こいつ話通じてねえ。
まるで訳が分からないが、とりあえず牛丼を食べたいのが未咲であることだけは分かった。
そういえば、とふと思い出す。以前もこんなパターンがあったのではなかったか。
あの時は確か、帰りの電車を駅のホームで待っていたら、ラーメン食べたくない?、と突然現れた未咲が脈絡なく尋ねてきたのだ。
その後回れ右をして無理やり十五分ほど歩かされ、いかにも老舗といった外観のラーメン屋に連れ込まれ、野菜がたっぷり乗った味噌ラーメンを注文させられた。まああの件に限っては、ラーメンが美味しかったから許す。
結局、今回も未咲に押し切られ、特に食べたくもない牛丼を食べに行くことになった。
訳が分からん。
俺たちの高校のそばには、チェーン店の牛丼屋があって、野球部とかテニス部とかの男子生徒たちが部活帰りに大挙して押し寄せる、らしい。店に入ったことはないので、その表現が写実的なものか誇張なのかは不明である。今は夕飯には少し早いが、部活がちょうど終わる頃なので、その話を実際確かめることができそうだ。
できそうだからといって、どうと言うこともないのだけれど。
「牛丼が食べたいんなら、勝手に一人で行けばいいだろうが」
隣を歩く未咲に、ちくりと棘を刺すつもりで呟く。
「うーんおなか減った! 早く牛丼食べたい、大盛りの牛丼をおなかいっぱい食べたーい」
「あのさあ頼むから話聞いてくんないかな」
「えー? いま何か言った?」
偽りのないきょとんとした顔が返ってくる。
未咲の雰囲気がいつもと少し違っていて、俺は戸惑った。大抵はつんけんしているのに、今はなんというか、若干ふわふわしている。どうも未咲は空腹だと上の空になるらしい。十年以上の付き合いだが、新発見だった。
「だから、牛丼食べたいなら一人で行けっての」
「はあ? 一人で牛丼屋なんて入れるわけないでしょ。馬鹿じゃないの」
「……」
言い直したら蔑むような目で見られた。理不尽だ。そこまで言われなくてはいけないことか。
未咲は口先をちょっと尖らせる。
「大体わたし、一人で牛丼屋に入っていけるほど逞しくないし」
「嘘つけよ。だったら俺じゃなくて、クラスの友達とか部活の友達とか誘ったらいいだろ」
「あのねえ、わたしだって女の子とだったらドーナツ屋さんとかハンバーガー屋さんとかに行くから」
ほお、そういうものなのだろうか。牛丼とハンバーガーに何の違いがあるのだろう。どちらも牛肉だろうに。女子は完全に俺の理解の範疇を超えている。
「それなら、輝はどうなんだよ」
俺はもう一人の幼なじみ、上宮輝の名前を出した。彼は多少計算高くて腹黒い面はあるが、基本的には優しくて物分かりがいい奴なので、未咲の唐突なお願いにも苦笑いしながらも応じてくれるはずだ。
未咲は今度は首をひねる。
「輝を誘ってもいいんだけどねー、でもなんかすごい忙しそうだから。その点あんたは暇でしょどうせ」
「どうせ言うな」
とは言いつつも、部活に所属していない俺は実際暇だったので、あまり反論はできない。
未咲が輝を誘った場合を考えてみる。そうなれば、未咲と輝が二人きりということになる。あの二人なら万が一にも間違いは起こらないと思うが、未咲が自分と二人でいるのを選ぶならば、それはそれで。
──それはそれで?
俺は心に浮かびかけた続きを揉み消した。
隣では、未咲が流行りの歌をハミングしている。
店内は聞いていたとおり、高校生男子で溢れかえっていた。坊主頭の野球部らしき集団、テニスのラケットケースを持った集団などが、ボックス席を占拠している。カウンター席にもちらほらと客がいるが、ものの見事に全員男だ。むさ苦しいことこの上ない。
浮いてるな、と俺は思った。未咲のことではない。胸元のリボンと短いスカートは、この空間に不思議と馴染んでいた。それは、彼女が運動部の所属だからかもしれない。
浮いているのは、自分だ。
幾ばくかの居心地の悪さを覚えて、わいわいと盛り上がっている集団から目を反らした。部活で汗を流し、仲間と一緒に帰途の道すがら夕飯を食べに行くような青春とは、俺は今のところ無縁だった。
そんな俺の思索に構わず、未咲は店内をずんずんと進む。錯覚以外の何物でもないが、どんよりした海面を大船となった未咲の舳先が割り、俺を先へ先へと導いていくように見えた。その様は、どこか痛快だった。
嘘つけよ、と二度目は心の中で呟く。
──昔からそうやって、俺の手を引いて、どこへでも連れていくくせに。
未咲が不意に振り返る。
「なに龍介、にやにやしてどうしたの」
「してねぇよ」
「あ! 誰か好みの子でもいた?」
「男しかいねえだろうが」
「わたしがいるじゃん」
「……」
「あっ自分で言ってて恥ずかしくなっちゃった」
「…………」
なっちゃった、じゃねーよ。いきなり何言ってんだよ。畜生が。
店内のボックス席は全て埋まっていたため、俺たちが座るのは必然的にカウンター席になる。店員に注文を伝えると、すぐに丼が運ばれてきた。大盛りひとつと並ひとつ。言うまでもなく、大盛りが未咲で並が俺だ。
丼が置かれるが早いか、未咲は紅しょうがの容器を引き寄せ、金属のピンセットみたいなもので豪快に中身を掴むと、丼の中へそれを大量に投入した。
器の中が紅に染まる。嘘だろ、何やってんのこいつ?




