僕らのこと ゴゥ(ス)トダンス・ウィズ・ランピィキャット(1/8)
―茅ヶ崎龍介の話
夏が来ると、決まってあの夜の夢を見る。
蝉の鳴き声と、草いきれと、滑った眼。俺が、誘拐された日のことだ。
小学二年の夏休み。
その日も、俺は未咲と輝の二人と一緒に、小学校の敷地内で虫取りをしていた。遊びに夢中になり、あたりが薄暗くなってきたところで、かなり遅い時間まで外にいることを覚った。夏とはいえ、日が沈めば暗くなるのに時間はかからない。
そしてそこで、慌てて帰ろうとしたのがいけなかった。
右手が空っぽ。その事実に気づいたとき、帰り道はもう半ばに差し掛かっていた。家を出るときにはそこに収まっていたはずの、虫取網の硬い手応えはどこにもなかった。
――学校に忘れた。
俺はにわかに慌てた。幼なじみ二人には先に帰ってもらうように伝え、元来た道を走って戻った。
忘れられた網は所在なげに、まだ続く蝉時雨の下、桜の木の根本にぽつんと落ちていた。駆け寄って無事に回収した俺は安堵し、明日はどこに行こうかなあ、今日の夕飯は何かなあ、などと考えつつ、一人で帰路を辿りはじめた。
夕陽は山陵の向こうへ落ち、世界は急速に彩度と明度を失いつつあった。道路のアスファルトから、昼間の陽射しで蓄えられた熱気が、むわっと吐き出され立ちのぼっていた。頭上からは、色々な蝉の鳴き声が雨のように降り注いだ。その時だ。後ろから車のエンジン音が近づいてきたのは。
俺は気にも留めず歩き続ける。すぐ後ろでエンジンが停止する。かと思うと、ばらばらと人が出てくる音が続き、何事かと振り返る間もないまま、ぐいと後ろに体が引かれた。不意の事態に、何の反応もできなかった。あれよあれよという間に目隠しをされ、乱暴に車内へと連れ込まれた。
突如降りかかった受難。何が起こったのか分からない。誘拐、という言葉は知っていたけれども、それが自分の身に起ころうとは露ほども思っていなかった。
頬から伝わるシートの硬さ。現実の進行は思考が追い付くのを待ってはくれない。俺はなす術なくじっと息を殺した。頭は混乱している一方でやけに冴えていて、状況を把握しようと目まぐるしく回転していた。車体に震えが走り、全身へのGのかかり方で発車を知った。
車内で飛び交うくぐもった声はすべて男のもので、日本語ではなかった。当時の俺は外国語に触れた経験がほぼないと言ってよく、己の幼心を一番震え上がらせたのは、突然連れ去られたことより、見知らぬ人間に取り囲まれていることより、男たちが意味の取れない言葉を話していることだった。
次に車体が止まるまで、何分かかったのかは分からない。一時間かかったようにも思えたが、案外五分くらいだったかもしれない。とにかく車は停車して、目隠しは外された。
暗かった。周りに街灯はなく、車の内部まで薄暗い。節くれだった手が、うつ伏せた俺を起こした。その手の生々しさと熱さを、今でも覚えている。怖々と様子を伺うと、一人は横から、一人は運転席から、一人は助手席から、こちらを見つめていた。背中がぞっと粟立つ。全員、顔は分からなかった。辺りが暗かったから、ではない。
皆、剥製のような山羊の被り物をしていたからだ。
その時になって、体が震えだした。悪夢でも見ているようだった。閉塞感が満ちる狭い車内にあって、それは大きすぎる存在感をばらまいていた。ごわごわした毛並み、半円を描く角、横に広がった瞳孔。光が乏しい中で、山羊の頭は本物みたいに見えた。それが、人の体からにょっきりと、文句を寄せ付けぬ様子で、当然のように伸びている。生理的な嫌悪感で、吐き気が喉の奥からせり上げた。あれを塗り替える恐怖を、俺はまだ味わっていない。
助手席の山羊男が何か言い、正面にいる男が応えて頷く。無造作に腕を掴まれる。その手には血管が浮き、確かに血の通った人間のものに違いなかった。これは悪い夢などではない。相手は本物の人間だ。その事実が、こみ上げる嫌悪を助長した。
恐怖で体が強張っていた。ほとんど抵抗もできないまま、男に指で無理やり口を開かされる。視界が潤む。男は涎が垂れるのも意に介さず、もう一方の手を俺の口内に突っ込んだ。
喉の奥の異物感。おえ、と反射的に嘔吐しそうになる。とうとう涙があふれた。
男が手を引き抜くと、すぐさま水を多量に飲まされて、口蓋を力ずくで閉じさせられる。口の中に粒状の何かがあった。嫌だ。飲みたくない。そのもがく思いも空しく、俺の喉は水と一緒に、その何かを食道へと押しやる。
途端に四肢が弛緩し、ぼうっと白い諦念に思考を包まれる。ああ、これで死ぬのか、というぼんやりした絶望に。
男たちがぴくりと何かに反応した。
刹那、強い光が車窓の闇を裂いた。
かっと辺りが照らされる。車のヘッドライトのものらしい、二条の眩い光。力強いエンジンの重低音。周りの木立が影絵となって、光の動きに呼応する。間髪入れず、三人の山羊男が弾かれたように外へわらわらと出ていく。
何が起こったか見届ける勇気も出ず、俺は力なくシートにもたれかかっていた。外からばしっ、ばしっ、という聞いたこともない強烈な衝撃音が聞こえてくる。それと同時に、どさっ、どさっ、という質量のあるものが倒れるような音も。
永遠が流れたかに思えた。まるでもう死後の世界にいるみたいに、現実感を忘れてしまっていた。昼間、二人の幼なじみと笑いあっていた自分との、なんという遠い隔絶だろう。ふと、ゆるゆると手を挙げて、なんとなく頬をつねってみると、痛かった。
「おい坊主、何してるんだ?」
軽く笑みを含んだ、低く響く声。聞きなじんだ日本語に、はっと顔を上げる。開いたドアから、右目を眼帯で覆った大柄な男性が、穏やかな顔でこちらを覗いていた。
「もう大丈夫だ。外に出てこられるかい?」
男性は日本語を繰っているけれども、彫りの深い顔立ちからして外国人のようだった。彼に促され、おそるおそる車外に出る。
見たことのない、木立の中だった。不意に現れた車のライトから外れたところは、濃密な闇が空間を満たしている。光に照らし出されているのは、山羊頭の男たちが縛りあげられ、三人一緒にぐるぐる巻きにされている姿だった。全員、微動だにせず沈黙している。気絶させられていたのだろう。
突っ立っていると、眼帯を着けた男性に、何かされたか、と静かに問われる。そういえばまだ生きているな、と喉に手をやりつつ答える。口の中で蠢く太い指の感触を思い出し、気道が狭くなり、うえっとえずきそうになる。絞り出す声は存外にかすれていた。
「さっき、何か、飲まされ、て……」
「そうか。シューニャ」
男性は不思議な響きを口にして、背後を振り返る。釣られてそちらを見ると、まだ幼さを色濃く残した、驚くほど整った容貌の少年が、暗がりからゆっくりと姿を現した。
息を飲む。年の頃は俺より少し上くらいだったか。雪に似た純白の髪に、長く伸びた睫毛に縁取られた、薄い灰色の瞳。感情が抜けたような、冷たく無機質な表情。白い布を何枚も重ねた大仰な服。まるで精緻な人形だった。シューニャというのが、彼の名なのだろうか。
俺に歩み寄ると、彼はわずかに硬い面持ちを緩める。
「少年よ、怖かったろう……おや、泣きやんだのか。見かけによらず強い男子じゃな。ところで少年よ、少し口を開けてくれんかのう」
子供の容姿なのに、その言葉遣いはまるで老人だった。
彼らが何者か分からないながら、俺は素直に従うことにした。現実感が薄すぎて、嫌がる理由を考えることすら頭になかったのだ。
シューニャという少年は、細く小さい棒――綿棒だったろうか――を眼帯の男性から受けとると、手を伸ばし、それを俺の口にそっと差し入れた。棒はすぐに口外へと出され、大柄な男性が持つ箱めいた機械の、金属のシートのようなところへ、棒の先が押し当てられる。
二人が何やら難しい顔をして機械の液晶部分を見やっているのを、俺は他人事のように眺めていた。大柄な男性と白い少年とが囁きあう。
「ううむ、ただの視察のつもりだったのにな……こいつら、余計なことをしてくれる。だが、命にかかわることではないんだな?」
「うむ。じゃが……こんな年端もいかぬ少年に、酷なことをするわい」
「そうだな……」
その言葉たちの意味は分からなかったけれど、俺は無意識のうちに、それらの響きを脳に刻みこもうとした。
乗ってきた車に箱形の機械を仕舞ってきた眼帯の男性は、気を取り直したように俺に微笑みかける。
「君は、茅ヶ崎龍介くんだね?」
俺は仰天した。どうして、見ず知らずの外国の人が、自分の名前を知っているのだろう。
「どうして、僕の名前……あ、警察のひと?」
そんなわけはないと思いながらも俺は問う。男性は口を弓形に歪ませて、頭を振る。




